PowerPointでイラストを書く(3)

PowerPointでイラストを描く(1) - 猿虎日記

PowerPointでイラストを描く(2) - 猿虎日記

の続きです。

 まず、開いた図形の作り方。前回やったように、「フリーフォーム」で頂点を設定していき、出発点あたりにもどってきてクリックをすると、図形は自動的に閉じた図形になります。

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しかし、 出発点にもどらず、途中でダブルクリックすると、線は閉じず、開いた図形になります。

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閉じた図形を開いた図形に直すこともできます。「頂点の編集」から「パスを開く」をクリックし、その後余分な頂点を削除すればよいです。

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 描画ツール≒ブラシツール

 さて、ここからは前回予告した話です。前回説明したように、PowerPointの「フリーフォーム」は、Illustratorの「ペンツール」に近いもの(のよう)です*1。これは、頂点(Illustratorでいう「アンカーポイント」)と、白い四角い点(Illustratorでいう「ハンドル」)を操作しながら、ベジェ曲線を使って図形を描くツールです。手書きの線のようにはなりませんが、むしろ手書きの線のようにはしたくない、均一でなめらかな線を書きたい場合に便利なツールです。

 一方、PowerPointには、「描画」という機能があります。これは、最近付け加わった機能のようで、昔のPowerPointにはなかったと思います*2。この機能は、Illustratorでいう「ブラシツール」に近いもの(のよう)です。「フリーフォーム」(やIllustratorのペンツール)とは違って、「描画」の場合、手書きのような線を書くことができます。描画機能は、リボンの「描画」タブをクリックします。すると、3本のペンと、1本の鉛筆と、1本の蛍光ペンが出てきます。それぞれ、色や太さを変えることができます。

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 マウスで線を描いてみます。こんな感じで、フリーフォームや曲線ツールと違い、手書きのような太さの変化のある線がかけます。

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 例えばMSペイントのようないわゆるペイント系ソフトで描いた線は、前回説明したように「ラスタ形式」なのですが、しかし、PowerPointの「描画」機能で描いた上の線は、手書き風に見えても、やはり「ベクタ形式」になっています。「描画」機能で描いた線がベクタ形式だというのは、太さを変えたり、拡大縮小したり、変形したり、がきれいな線のままで自在にできるというところからわかります。たとえば、上の線を選択すると、それぞれの線がオブジェクトになっていて、移動したり、拡大縮小したり、太さや色を変えたり、が、図形と同じようにできます。

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 ただし、描画で描いた線を選択しても、フリーフォームとは違って「頂点」は出てきません。というわけで、フリーフォームのように、一度描いた曲線の曲がり方を変えたりといったことはできないようです。

 で、『イラストで読むキーワード哲学入門』のイラストでは、この「描画」ツールもときどき使っています。とくに、哲学者の似顔絵はすべてこの「描画」を使って書きました。ここで、哲学者の似顔絵をどうやって描いたかをせつめいします。

 たとえば、デカルトですが、まず、デカルトの有名な肖像画PowerPointのスライドに貼り付けます。

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 次に、描画機能を使って、この肖像の輪郭線をなぞります。

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 途中、下絵のない状態での仕上がりを確認しながら作業をすすめましたが、PowerPointにはレイヤーという機能は基本ないので、しかたなく、「下絵削除」→仕上がり確認→「command+z(windowsならctrl+z)で「やり直し」で下絵復活」、の繰り返しで確認作業をしました。こういうところはイラスト専用ソフトではないめんどくささかもしれません。

 作業が終わったら、下絵を削除して完成です。

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 この作業、実は最初はマウスでやっておりました。しかし、マウスだと、さすがに時間がかかり、肩こりと目の疲れがひどそうだったので、結局途中から安いペンタブレットを買ってしまいました…。が、液晶タブレットではないので、マウスよりは多少楽かな、という感じでしたが。 

 というわけで、こんなふうないろいろな作業をしつつ、基本すべてのイラストをPowerPointで作りました。Illustratorなどよりは機能が低いとは思いますが、そのぶん操作がシンプルで、私としてはPowerPointで絵を書くのはありではないかと思いました。

ファイル変換について

 次に、ファイル変換の問題です。私は、一枚一枚のスライドに一枚一枚のイラストを描いていったので、たとえば100枚のイラストを書くとそれが100枚のスライドがあるPowerPointファイル(拡張子は「pptx」)になります。

 しかし、このファイルはそのままではInDesignなどのDTPソフトに取り入れることはできないと思いますので、DTPソフトでも使える形式に変換しなければいけません。メニューの「ファイル」から「エキスポート」で別の形式のファイルにするわけですが、そこで、jpgなどにすると、それはすなわち、前回説明した「ラスタ形式」に変換する、ということであります。せっかくなので「ベクタ形式」のままでファイルを送りたい、というわけで、PDFに変換しました。これで出版社との間でファイルの受け渡しができました。しかしこの辺、私はIllustratorInDesignのことはわからないので詳しいことはわかりません。

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 PDFでの受け渡しもしましたが、さらに、PowerPointからPDFに変換した上で、それを、フリーのドロー系ソフトInkscapeで読み込み、それをsvgファイルで保存する、というやり方で、svgファイルに変換することもやりました。

*1:なにぶんIllustratorを持っていないので、ネット情報からおそらくそうだろう、ということですが。

*2:ところで、私はMac版のPowerPoint for Office 365を使っておりますが、開発過程の機能だったのか、バージョンアップの過程で、一時この「描画」機能が消えていたことがあります(だと思います)。突然消えてしまって、しかも本のイラストを作っている最中だったので、困りました。その時は、メニューがどこかに隠れたのか、と思って探し回りましたが、ありませんでした……。現在は復活しています。

PowerPointでイラストを描く(2)

『イラストで読むキーワード哲学入門』という本のイラストをPowerPoint*1で描いた、という話の続きです。前回はこちら↓

PowerPointでイラストを描く(1) - 猿虎日記

 今回は、手書きのイラストを、PowerPointでベクタ形式に変換したやり方を、長々と書きました。

*1:PowerPoint for Office 365 for Mac

続きを読む

PowerPointでイラストを描く(1)

4月に『イラストで読むキーワード哲学入門』という本を出しました。

hakutakusha.hatenablog.com

7月には平井靖史さんがtwitterで紹介してくださったりしたのですが(平井さんありがとうございます)

手品のような鮮やかさ!『イラストで読む キーワード哲学入門』紹介(平井靖史さん) - 白澤社ブログ

ちょうど出版のあとから、多忙と体調不良などが重なり、自分のブログでは何も書かずじまい(というかブログ自体が1年以上更新していないのですが)。というわけで、だいぶたってしまいましたが、宣伝を兼ねてブログを書いている、というわけですが、今回は、内容というよりイラストについてです。

 まえがきにも書いたように、イラストは自分で描きました。最初の構想から、陰影をつけない線画、しかも線は太くて抑揚のない線にしたい、というふうに思っていて、とりあえず画材屋さんにペンを買いに行きました。有名なコピックをはじめ、いろいろ試してみたのですが、一番イメージにあうのはステッドラーの「ピグメントライナー」かな、と思い、太めのものを何本か買ってきて、最初の試作をはじめました。

www.staedtler.jp

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横顔原画

 上は実際に本でも使っている横顔のイラストです。結局普通のコピー用紙に、ピグメントライナーで描いて、それをスキャナーでスキャンしました。

 さて、もう一つの構想が、人間の顔とかりんごとか、いくつかのモチーフを繰り返し使う関係で、それらのパーツをコピーして組み合わせる作業をパソコンでやればいいじゃん、というものでした。これは時間の節約という問題もありました(描きはじめるのがぎりぎりだったもので……)。というわけで、ピグメントライナーで顔とかりんごを書いてスキャンしてパソコンに取り込み、パーツを切り取って、何らかのソフトでそのパーツを組み合わせる、ということをやろうとしました。で、その何らかのソフト、をなんにするかが問題でした。もちろん、画像処理に関するソフトとしては、フォトショップイラストレーターといったものが定番としてあり、またGimpInkscapeなどなどいろいろある、ということは知ってはいましたが、ただ、仮にそれらを入手したとしても、時間がない中で、慣れないソフトを使うのは避けたい、というのがありました*1。そこで結局何を使ったかというと、それこそ仕事で20年近く使い慣れたPowerPointでした。

 PowerPointのスライド一枚一枚をそれぞれキャンバスのように考え、そこにオブジェクトとしてパーツのイラストをおいて組み合わせ、最終的にはPDFかなんかでエクスポートすればいいや、と思っておりました。

 さて、パーツの組み合わせで問題になるのは、図を輪郭で切り抜く、というか余分な背景を透明にしておく、ということです。それをしないと、例えば二枚のパーツを重ねるとこんなふうになります。ちなみに、顔の絵と脳の絵はそれぞれサイズを考えずに別々に描いていますが、PowerPoint上で(角の四角いハンドルをドラッグすることで)脳のイラストを顔に合わせて縮小しています。こういうことが自由にできるのも便利です。

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 この状態だと脳の背景で顔が隠れてしまうので、これを避けるためには、まず、画像を選択した状態で、メニューの「図の書式設定」をクリックします*2

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 するとこういうメニューになるので、一番左の「背景の削除」をクリックします。

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 すると、選択した画像の一部がこのような濃いピンク色になります。この色になっているところが透明になっているという意味です*3

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メニューを見るとこうなっています。

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 ここの、「保持する領域としてマーク」をクリックするとマウスがペンの形になります。このペンでピンク色の部分を塗ると、元の色に戻ります。つまり、不透明になったということです。ペンですべて塗らなくても、ソフトの側が輪郭を認識してある程度勝手に塗られていきます。意図しない部分を塗ってしまった、または塗られてしまった(つまり透明になってしまった)場合は、ペンを「削除する領域としてマーク」に変えると、今度は逆に塗った部分がピンク色(つまり透明部分)になります。

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透明にする部分と不透明にする部分が確定したら、メニューの一番右の「変更を保持」のアイコンをクリックすると、以下のように、脳のイラストの不要な背景が削除され(透明になり)、下の横顔のイラストとうまく重なりました。f:id:sarutora:20190905184109p:plain


 というわけで、次回は、結局ほとんどすべてのイラストを(PowerPointを使って)ベジェ曲線で描くことになった、という話です。

 

 

honto.jp

 

*1:GimpInkscapeはほんの少し使ったことはあるのですが。

*2:左のボタンをご覧になるとわかるように、これはMac版のPowerPointです。ずっと20年ぐらいWindowsユーザーだった私が去年ついにMacユーザーになった、という話はいずれ書きます

*3:この例だとわかりにくいですが、脳のシワの線の一部が濃くなっている部分は、不透明(黒)になっている部分です。

座器間漏洩防止装置「ベンザウォール」

 今回は少々belowな話題*1です。
 いまや「〝座りション派〟男性50%超」という時代だそうで、完全に遅ればせながら、ではあるのですが、7年前に引っ越して以来、いわゆる「座りション派」に入党しました。「立ちション」は、大量の跳ねが発生し、トイレ清掃が大変になるのです。というわけで、座りション派になって以来、格段に清掃が楽になった、はずなのですが、逆に、時たま、床に少量漏れる、というかつてはなかった事故が起こるようになりました(belowな話題ですみません)。最初はその原因も分からなかったのですが、ある時、気づきました。これは座器間に原因がある!と。
 座器間(ザキマ)とは、便座と便器の間にあるすきまのことを言います*2。少なくとも私の家の便器(デフォルトの便座は取り外し、TOTOのウォシュレットを装着しています)には、あります。プラスチック製の便座が、数か所の部分を支えに陶器製の便器の縁に乗っかる構造なので、どうしても座器間にすきまが生じます。特に前方のすきまから(少なくとも私の場合は)時たまですが、漏れが生じてしまうのです。また、漏れないまでも、座器間に汚れが生じやすくなります。どうしたもんか、と思っていたのですが、この問題を解決する装置を自作しました。これ、大変自信作で、特許をとりたいぐらいです。
 まず、長さ20センチほど、幅5センチほどの柔らかいプラスティックの板を用意します。目立たないので透明な方がいいと思います。私は、でこぼこのないペットボトル(evianなど)をハサミで図のように切って作りました。

 さて、この板を図のようにハサミで切って整形します。

 そして、両側の耳を図のように90度に折り曲げます。

 赤い部分は、1センチ弱がよいです。あまり長いと便座の上部からはみ出してふとももがチクチクします。
 この折り曲げた耳の部分を、プラスチックの便座の裏側に接着します。私はビニールテープでくっつけました。

 これで、座器間漏洩防止装置「ベンザウォール」は完成です!簡単ですね。
 
 さて、今回この記事を書くにあたってネットでちょっと調べてみたところ、やはり座器間漏洩問題に悩んでいる人はけっこういるようです。http://besthouse.cc/1509291015-2/ 
 そして、上記記事にあるように、この漏洩を防ぐグッズも出ているようです。
 まず、サンコーの「汚れ防止 パット おしっこ吸いとりパット」ですが、これは漏れを吸い取るのでしょっちゅう取り替えないとかえって不潔ですし、15個で800円ということは一個50円以上もします。

240個セットもあるようですが、それでも一個30円以上します。

レックからは「消臭 おしっこ 吸収 パッド」なる似たような商品が出ていますが、これに至っては一個80円もします。

 また、パナソニックの全自動おそうじトイレ「アラウーノ

には、「モレガード」という、座器間漏洩を防止する仕組みが付いているようです。
[[]]
 しかし、これはトイレのリフォームとなり、本体は思ったよりは安く7万円台であるようですが、工事費などいろいろでどうも10万円近くかかるようです。
 また、アサヒ衛陶というところには、もっとシンプルに「飛散防止ガード」というものがついた便座(温水洗浄トイレも?)を販売しているようですが、リフォームほどではなくとも便座全体を取り換えるので費用もかかります。そして、アサヒ衛陶さんのページに行ってみましたが、どの便器にそれが付いているのか結局わからず、せっかくのこの機能をどういうわけかそれほど売りにはしていないようです。

 と、いうわけで、私が考案した自作のベンザウォール、構造としてはアサヒ衛陶の「飛散防止ガード」に近いですが、材料費はほぼタダですし、一番いいんではないでしょうか。

*1:(c)樋口克己。ええと…念のため、説明しますと、「尾籠」と「below=下(しも)」を掛けてます。

*2:って誰も言ってないと思いますが。

常野雄次郎さんの言葉と行動を引き継ぐ会

テラ豚丼と自由

●「サルトル哲学における自由とは」
http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20080708/1215483859
たとえば、私たちは、毎朝目ざまし時計がなると起床し、食事や身支度をして学校や会社に行く、というような日常生活を送っている。しかし、「崖くずれが崖の上の石の落下を引き起こす」というのと同じように「目ざまし時計が私の起床を引き起こす」と言うことはできない。目ざまし時計の音が鳴った時、起床するという可能性を作り出すのは私たち自身だからである。つまり、崖の上の私に、崖から身を投げる可能性があったのと同じように、目ざまし時計の音を聞いた私にも、起きずにそのまま寝つづけるという可能性があるのである(会社はクビになるかもしれないが)。
 私たちの日常生活は「芝生に入るな」とか、「税金を払いなさい」といったものをはじめとした様々な規則にかこまれている(これをサルトルは「日常的道徳」と言う)。しかし、そうした規則は、直接私たちの行動を「決定」しているわけではない。実際は「規則に従う」と自分で決めたからこそ、規則が意味を持つのである。だが、規則を成り立たせているのが自分自身である、ということを認めることは、私たちに不安を引き起こす*。だから、私たちはまるで規則が私たちの行動を外側から決定しているかのように思いこむことによって、安心しようとするのである。そのような精神をサルトルはくそまじめの精神と呼ぶ。(『図解雑学サルトル』ナツメ社、2003年)


●「テラ豚丼祭りと「自由への恐怖」」
http://toled.hatenablog.com/entry/20071202/p1
ブロークバック・マウンテン』の主人公が少年時代に見た同性愛者は虐殺されたけども、ローザ・パークスは現在では偉人ということになっている。でもたぶん、ロッキーの言う「勝つ」というのはそういうレベルにはない。
 仮に両者に違いがあるとしても、それは後になってから言えることだ。今だったら、「賢明な」人は言うだろう。ローザ・パークスの行動は歴史を動かし、社会を変えたと。でも彼女が白人席に座った時点でそうなる保証はなかった。そしてきっと、彼女と同じようなことをしてボコボコにされた人は無数にいたことだろう。今にして思えば公民権運動によってアメリカ社会が変わるのは必然だった。しかしその必然性は、人間の自由によって作り出されたものである。
 問題はタバコを吸ったらどうなるかということではない。そんなの関係ねえ! そうじゃなくて、私はタバコを吸いたいのかどうかということだ。私は私のやりたいことをやっているかということだ。ロッキーの言う「勝つというのはそういうことだ」。


●「「不登校50年」#36 常野雄次郎さん」
http://futoko50.sblo.jp/article/182761449.html
ローザ・パークス(1913―2005)が白人と黒人が分離されたバスで白人席から移動しろと言われたとき、頑迷に座り続けて、逮捕されて、それからバスボイコット運動が始まって、ついに分離政策を変える成果を勝ちとったんです。でも、ローザ・パークスが白人席に座った瞬間に、その可能性が見えていたかというと、そんなことはないと思います。なぜなら、ローザ・パークス以前にも、同じようなことをしていた人はいるわけです。ボコボコにされて逮捕されて、歴史に名を残してない人が無数にいる。革命というのは、可能そうだからやるのではなくて、不可能にしか思えないことを可能にするための条件をつくりだすために闘っていくということです。それは5000億年後かもしれないけど、学校のない社会を目指す。社会そのもののあり方を根本的に変えていくことを目指す。私は、そう主張したいです。


●「朝鮮の核開発を支持する」
http://toled.hatenablog.com/entry/20160107/p1
世界平和。核のない世界。戦争のない世界。/核施設や実験によって労働者、住民が被害を受けることのない世界。
可能か不可能かはわからない。/できるから目指すのではない。/倫理がそれを強制するから、可能である可能性をつくりだすのだ。/なぜならば自由に縛られているからである。/倫理によって、自由を強制されているのだ。


尾瀬あきら『ぼくの村の話』
「あんたたちは政府相手にほんとうに勝てると思っとるのかね」「勝てるとは思ってません 勝とうと思っています」(第7巻220頁)

学校をなくすということ

●「「不登校50年」#36 常野雄次郎さん」
http://futoko50.sblo.jp/article/182761449.html
私は学校を廃止すべきだと思っていますが、「学校をなくす」というと、よく「給食でしかご飯を食べられない子はどうするんだ」「文字の読めない子はどうするんだ」と反論されます。しかし、学校をなくすというのは、いまの社会をそのままに、そこから学校だけを引き算するということではなくて、社会全体のあり方、社会の仕組みを変えることです。つまりは、ひとつの革命です。そう考えるようになりました。

●「いい植民者と悪い植民者」
http://d.hatena.ne.jp/sarutora/touch/20070922/1190428681
https://twitter.com/SartrePolitique/status/1002843722696912896
新植民地主義者は、植民者に良いのと悪いのといると考える。植民地の状況が悪くなったのは、悪い植民者の罪だという。(……)良い植民者がおり、その他に性悪な植民者がいるというようなことは真実ではない。植民者がいる。それだけのことだ。(サルトル植民地主義は一つの体制である」人文書院『植民地の問題』33頁)

●「「対案についての思考」を禁止します」
http://toled.hatenablog.com/entry/20070923/1190541968
僕は、学校的なものが人間にとって必要であるかどうかということについての判断を前提にはしません。そうではなくて、学校をなくすべきであるということが僕の出発点なのです。だから、学校が必要かどうかということは、ささいな問題です。必要ないならそのままなくせばいいし、必要だということになればその必要性をなくせばいい。このような出発点の設定には、ただ僕がそれを選んだという以外には、何の根拠もありません。


●「じゃあとうすればいいのか」
http://d.hatena.ne.jp/sarutora/touch/20070923/1190515352
「じゃあどうすればいいのか」という言葉は、真にどうすべきかということではなく、我々の問題提起をはぐらかし、圧殺することが目的だからです。(横塚晃一『母よ!殺すな』生活書院、31頁)


●「登校拒否解放の(不)可能性 前編」
http://toled.hatenablog.com/entry/20041204/1102129335
「明るい登校拒否」の物語は、本当に登校拒否を肯定するものだったのでしょうか。僕はそうは思いません。この物語で示されているのは、登校拒否児でも学校エリートのようになれる、ということなのですから。ここで肯定されているのはあくまでも学校的価値であって、登校拒否ではありません。

●「「不登校50年」#36 常野雄次郎さん」
http://futoko50.sblo.jp/article/182761449.html
醜さ、モンスター性みたいなものを、いかにして美の支配から救い出すかというときに、「ほんとうは美しいんだよ。視点を変えてみれば、呪いが解ければ」ということではなくて、醜さの側が反乱を起こすんだということですね。それと、私が書いた一節をつなげて考えられないかなと思うんです。


●「カオスの解放――『風の谷のナウシカ』の構造――」
http://www.geocities.co.jp/Berkeley/6142/ronbun/chaos.html
腐海とは、いわば魔女(人間)によってみにくい黒いカラスの姿に変えられてしまった王子である。そして、ナウシカは、みにくいカラスをわけへだてなく愛する少女である。だが、この手の物語ではたいてい、最後には魔法が解けて、みにくいカラスは美しい王子の「本当の」姿にもどるのである。同様に、少なくとも中盤までの『ナウシカ』においては、腐海も、美しい清浄な森の姿をとりもどすとされている(浄化された美しい森のイメージは、何度か登場する)。しかし、だとすると、みにくいカラスへの愛、腐海への愛は、結局は王子への愛、美しい自然への愛に還元されてしまう、ともいえるのであって、カラスとしてのカラス、腐海としての腐海のみにくさそれ自体は、最後まで救われないわけである。だが、「神」を殺すことによって、ナウシカ腐海を魔法(みにくさ)から解く鍵を捨てる。つまり彼女は、腐海をケガレ「から」解放するのではなく、腐海のケガレそのもの、みにくさそのもの「を」解放する道を選択したわけである。(1999年)

永遠の嘘

●「永遠の嘘をついてくれ」――「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット 前編
http://toled.hatenablog.com/entry/20070726/1185459828
だから嘘を批判するには、ただ嘘が嘘であることを暴露するだけでは不十分である。嘘が嘘であることは、騙す者も騙される者も先刻承知なのかもしれないからだ。そのような場合は、真実を暴露する者はただ「空気の読めない痛い奴」として処理されるだろう。クリスマスに胸を膨らませる子どもたちに、サンタクロースなんていないんだよと言って聞かせても、プレゼントを買い与える親の義務は免除されない。「永遠の嘘」の批判は、真実を暴露することではない。嘘に気づかないふりをする「お約束」が分析されなければならない。それは、「騙される」者、「無知」な者をも、「被害者」としてではなく「嘘」に参加する共犯者として捉えるということだ。


●「永遠の嘘をついてくれ」——「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット 後編
http://toled.hatenablog.com/entry/20070727/p1
 リベラルは、戸塚宏長田百合子や細井敏彦を糾弾する。「無法者」の暴虐に驚愕する。しかし問題は、そのような否定は、体罰教師や「無法者」にとっては「織り込み済み」であり、むしろ彼らの存在意義でさえあるということだ。彼らは自分たちが「ダーティ」な仕事を担っているということは十分に自覚しているのだし、だからこそ彼らは英雄たりうるのだ。
 銀行があって、消費者金融があって、闇金がある。リベラルなエリート校があり、軍隊的な底辺校があり、フリースクールがあり、戸塚ヨットスクールがある。天皇がいて、臣民がいて、軍幹部がいて、「無法者」がいて、「民間業者」がある。人間には「本能」があり「理性」があり「欲望」があり「良心」がある。組織には「無法者」がおり管理部門があり「良心的」構成員がいる。御用学者がいて、左翼知識人がいて、ネット右翼がいて、僕はブログを書いてストレス発散している。「永遠の嘘」は、これらの「全体」が、バラバラの互いに独立した「部分」に分かれているかのように演出する。で、何かあると適当な「無法者」を「トカゲの尻尾きり」して、システムは全体として存続していく。

サルトル「みなさんは素晴らしい」『シチュアシオン V』 
http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20160228/p1
 しかし、もしわれわれの誰かが目を覚まし、看護人に問いただそうものなら、政府はたちまち新手のごまかしを持ち出し、あっという間に保護委員会をでっちあげる。責任の重荷をわれわれの肩からおろすのが、ほかならないそのお役目なのである。(……)
 われわれは無罪ではない、汚れているのだ。われわれの良心は乱された〔トゥルブレ〕のではない、しかしそれは濁っている〔トゥルブル〕のだ。指導者たちはそれを良く承知しており、われわれがそういう状態にあることを好ましいと考えているのである。彼らがその慎重な配慮や見え透いた手心によって獲得したがっているものは何かといえば、それは見せかけの無知に隠れたわれわれの共犯なのである。


●「大阪府KY若手職員と「姜尚中トラメガ事件」について−−米粒が立ち上がった日」
http://toled.hatenablog.com/entry/20080407/p1
 人々は、この時はじめて「王様は裸だ」と気づいたのではない。そんなことは何十年も前からわかっていた。ブーイングが広がった瞬間は、真実が暴露された瞬間ではなく、裸の王様が裸であることを知らないかのように振舞うことを人がしなくなった瞬間である。


●番犬とニセの知識人
https://twitter.com/SartrePolitique/status/998917860419293187
(教授たち)の中の何人かは、アルジェリア戦争当時に実に勇気ある行動をし、自分の家にプラスチック爆弾を投げ込まれる、といった目に遭いました。…ところがこの連中は、教授としては、依然として選別主義者…であり、大学の欲する観点によってその講義をつづけていたのです(「人民の友」『シチュアシオン 八』(人文書院)所収)


●「「日本の歴史家を支持する声明」批判」
http://toled.hatenablog.com/entry/20150605/p1
 「戦前」を悪魔化して切り離すことにより、そうではないものとしての自由で民主的で平和な「戦後」のイメージが形成される。それは変革されるべきものというよりは、たとえば安倍や在特会といった脅威から防衛されるべきものとなる。しかし問題は、日本は切れ目なく続いているということだ。

タクシーと救急車

 異様なものを見た。「救急車有料化」と大きく書かれたポスターである。「日本維新の会」と書かれているので、選挙ポスターなのだろう。「ER救命医師」とも書いてある。調べたところ、この人は今回の衆院選希望の党から出馬し、落選したようだ。一方で、最近よく「救急車はタクシーではありません」という、消防庁の?ポスターを見かける。言うまでもなく、この二つのポスターが発しているメッセージは同じ方向を向いている。しかし、考えてみるとどうもおかしい。というか、「救急車はタクシーではありません」という言葉は、「救急車有料化」などという世迷言を言うこのような人物に向けてこそ、言われるべき言葉ではないだろうか? だって、救急車が有料なんて普通に考えておかしいでしょ? タクシーじゃあるまいし!
 で、「救急車をタクシー代わりに使う人がいるおかげで、本当に救急車を必要としている人が助からなくなる」という例のお話、「不正な〇〇がいるおかげで、本当に困っている××が迷惑している」系のお話の一バリエーションなわけだが(〇〇には「生活保護不正受給者」「偽装難民」などが入る)、ちょっと検索してみると、「救急車を通院のために何度も呼ぶ不届きものがいる」というような話が出てくる。まあ「救急」でもないのに救急車を使うな、ということなのだろうが、行先は病院なのであるから、程度の差はあれ病人なのではないだろうか? ディズニーランドや観光に行くのに救急車を使っているわけではない。で、「救急車はタクシーではありません」というメッセージは、「そんな用途はタクシーを使え」ということを含意しているわけだが、はたして、通院に毎回タクシーを使える人というのはどれぐらいいるのだろうか? ここからは、私の推測ではあるのだが、自家用車もなく、徒歩や公共交通機関も使えない、かといってタクシー代も払えない、という人が、やむなく通院に救急車を呼んでいる、というケースも当然あるのではないか?
 ところで、私のNHS(イギリスの国民保険サービス)についての知識は、10年前のマイケル・ムーア監督の映画『シッコ』由来の乏しいものでしかないが、あの映画で印象的なシーンがある。NHS運営の国営病院では、治療費は一切かからないので、経理課などの部署がない。信じられないムーアが病院中を探し回るが、「会計Cashier」と書かれた場所を見つける。患者はここで治療費を払うんだ、と思ったらそうではなかった。イギリスの国営病院では、収入が基準額以下の患者の場合、病院に来るまでかかった交通費が支払われるのである。「会計」はお金が入っていく場所ではなく、出ていく場所だったのだ。
 『シッコ』では、その後、雲泥の差のアメリカの状況が描かれる。アメリカでは、治療費が払えない患者を、病院がタクシーで貧困者の支援センターの前まで連れて行き、置き去りにすることがしばしばあるのだという。というか、それはタクシー使うんだ?! いやいや、そんなことにタクシーを使うなよ! 「タクシーは灰色のバス*1ではありません」とでも言いたくなる。「救急車有料化」を訴える件の候補者の理想はこんな社会なんですかね?

「不正な〇〇がいるおかげで、本当に困っている××が迷惑している」系の話についての過去記事

シッコ(字幕版)

シッコ(字幕版)

*1:ナチスが障害者をガス室に連れて行くために使ったバス。

浅間山荘と児童虐待──漫画『刻刻』について──

 数年前、風邪で寝込んでいるときに、当時話題になっていた『刻刻』(こっこく)という漫画をまとめて読みました*1。読み始めたら確かに設定が凝っていて引き込まれました。面白かったです。しかし、読み終えて、やはり本筋と違うところで違和感が残った。まあ『プラネテス』を読んだ時と同じようなものです*2。というか最近の漫画はそういう感じを持たないもののほうが少ないのかも?
 ところで、『刻刻』とはどんな作品なのでしょうか(以下ネタバレあり)。

刻刻 コミック 1-8巻セット (モ-ニングKC)

刻刻 コミック 1-8巻セット (モ-ニングKC)

 「止界術(しかいじゅつ)」という時間を止めることのできる術がある。時間を止めるといっても、原理的には昔の『サイボーグ009』の「加速装置」と同じで、超高速に動くことで周囲の世界が止まって見えるようになる、ということのようです。なぜ人間がそのように超高速運動ができるようになるのか、というと、体の中に「霊回忍(タマワニ)」というクラゲのような「自然霊」が入り込むことによって、ということになっています。この辺の設定はなかなか面白いのですが、そこはおいときます。
 で、主要登場人物は以下のような感じです。

  • 止界術を代々受け継ぎながらも術を使わず平和に暮らしていた佑河家(ゆかわけ)の長女樹里(じゅり)=主人公
  • 術を発動させる石を佑河家から奪って世直しをしようとする実愛会(じつあいかい)という宗教教団(ただし教祖佐河(さがわ)はある目的のために教団を利用しているにすぎなかったことが後にわかります)
  • 「相談役」として実愛会と行動をともにしている間島(まじま)という謎の女性
  • 教団に金で雇われて、佑河家の真(まこと)(長女の甥)を誘拐するヤクザたち(真を助けるために佑河家は止界術を発動させるが、それが教団の狙い)

 これらのキャラクターが、「止界」という時間の止まった世界に入り込み、各自の思惑で闘ったり協力関係になったり、というのがストーリーです。
 それぞれの思惑というのは、細かいキャラクターを除くとこんな感じです。

  • 家族を守って止界から生還するため(佑河家)
  • 止界術で世直しをするため(実愛会)
  • 止界術で神のような存在になるため(教祖佐河)
  • 行方不明になった家族を救うため(間島)
  • 金のため、または生き残るため(ヤクザ)

 このうち、主人公である佑河家の「家族を守るため」という目的が、最も読者が共感を持てるような形になっています。基本的にそれ以外は最初は「悪役」なのですが、間島とヤクザ(の一部)は、途中から主人公の味方になります。間島は、佑河家の長女樹里の力によって家族を救うことができ、心境が変わったような描写がありますが、ヤクザの場合、改心して善人になった、とかそういうことではないのですね。彼らの場合、金のために教団に雇われたが、教団や教祖の異常性を目の当たりにし、佑河家と組んだ方が生き残れると計算したから、でしかありません。「なんでこっちに寝返ろうと思った 仲間割れか?」と主人公の祖父に聞かれた迫(さこ)というヤクザはこう言います。

迫「仲間割れつーか 長生きするための賭けかな 実愛会の駒でいれば遅かれ早かれあいつらと心中だ(……)時間が止まるなんて信じてなかった 止界のヤバさが解ってくるのに比例して 実愛会の危なさを実感した」(堀尾省太刻刻』第3巻、147頁*3

 迫らヤクザは、佑河家にとっては、自分たちを誘拐したり殺そうとしたりした許せない存在のはずですが、実愛会と戦って止界からもとの世界にもどるために一人でも「味方が欲しい」(同書148頁)ということで、佑河家は、迫らの協力の申し出を受け入れます。つまり、彼らはお互いに「生き残る」という共通する目的によって共働することになるのですね。このように、上記のキャラクターのうち、間島と、ヤクザの一部は、読者が感情移入しうるようなキャラクターとして描かれていて、内面を描写するようなコマも多いのです。また、教祖である佐河(さがわ)も、最大の悪役として、何を考えているかが細かく説明されますし、内面描写のコマも当然多い。唯一、佐河の教義を信じ、佐河に付き従う教団の信者のみが、最後まで雑魚扱いなのです。ただ、佐河の本当の目的を知り、裏切られたことを知って教祖佐河を殺そうとする宮尾という信者だけは、後半部分で少しだけ丁寧に描かれています(といっても作者は彼の内面を描写してはくれないのですが)。その宮尾に、ヤクザの迫が、主人公である佑河側に寝返ったことを打ち明けた時の、二人の会話が、第6巻にあります。セリフを引用してみます。

宮尾「理念が無いから信念もない……目先目先で……呆れますよ ほんと……!!」
迫「……理念とか アホか なんかキレイな言い方してんじゃねーよ 我欲だろが!」
宮尾「違いますよ 私利私欲で世界を支配する連中を潰すんです」
迫「で お前らがそいつらに取って代わるんだろ?」
宮尾「理念に従う限り そのような低俗な存在に堕ちることなどありえません」
迫「あのなあ 今の体たらくを見ろよ なんだよこれ 浅間山荘かよ 何人死んだか言ってみろよ この繰り返しがお前らの未来だよ」(中略)
宮尾「搾取の加担者が…… お前には止界に入る資格すら無いんだよ」
堀尾省太刻刻』第6巻、35-37頁)

 まあつまり、いわゆる「正義の暴走」に突っ込みを入れるセリフをヤクザである迫にさせてるんですね。だいたい、オウム真理教をすっとばしてなんで唐突に「浅間山荘」が出てくるのか、てところが謎なんですけど*4、というかここを読んだとき私はちょっと失笑してしまいました。「何人死んだか言ってみろ」とか偉そうに言ってますが、このヤクザたちこそ、何人殺したのか言ってみろ、て話です。何言ってんだ、と。
 「金のため」あるいは「過酷な世界で生き残るため」の行動は、たとえ殺人であろうとも、なんとなくぼんやりと「逞しさ」の現れとして、あるいは「必要悪」として、少なくとも理解できる行為として描かれる一方、「理念のため」あるいは「過酷な世界を良いものにするため」になんらかの行動をする人がひとたび殺人でも犯そうものなら、なぜかそれは、その人だけではなく、理念のために行動することそのものが「愚か」で「はた迷惑」である、ということの明白な証拠とされてしまうのです。つまり、「世直し」の人というのは、ヒーローではありえないことはもちろん、「悪役」ですらなく、悪役の引き立て役としての「キレイごとを抜かす愚か者」でしかないのですね。要するに「キレイな言い方してんじゃねーよ 我欲だろ」て(鬼の首でもとったように)言いたいがためだけのキャラクターなのではないか、と。どうも、今のニッポンには「そんなのキレイごとだ、と言いたい欲」があふれているような気がしてなりません。悪の蔓延より正義の暴走のほうがよっぽど嫌い、という空気が蔓延している、というか。ネット上では特にそのことを感じます。
 さて、もう一つ気になるのは、間島翔子の扱いです。彼女は、幼いころ佑河家の止界術に巻き込まれて何も知らないまま一家で止界に迷い込んでしまいます。そして、両親と兄は行方不明になり、ただ一人間島翔子だけが止界からもとの世界にもどることができたのです。大人になった間島は、止界について独自に調査して知識を得、佑河樹里の特殊な力を使えば家族を止界から救い出せることを知ります。そのため彼女は教団に接近し、教団を利用して佑河家に術を発動させ止界に入るのですが、当初は教団に真の目的を隠しています。
 結局、間島の家族は樹理の力によって救い出されるのですが、両親はすでに死亡していました。翔子が、変わり果てた両親の死体を抱きしめるシーンは、感動的に描かれています(『刻刻』第4巻、106頁)*5
 しかし、読者は、間島翔子の家族が止界に迷い込む直前の様子を、第2巻(45頁〜)で描かれる回想シーンで知っています。間島一家は、父親が運転する車で帰宅途中なのですが、後ろの座席で子供たちの兄弟げんかが始まります。運転していた父親はそれにいら立ち、赤信号で停車したとき後ろを向いて兄の頭を殴ります(ガツン、という擬音が書かれています)。「もうお前 こっから歩いて帰れ な 降りろホラ早く」と父親がいい、兄が頭を押さえてむせび泣いているシーンが描かれます。さらに、それをきっかけに今度は両親の夫婦げんかが始まります。ここに描かれているのは、大人から子供への暴力と、「我欲」でいがみ合う大人たちでした。どうしてこういうシーンが描かれたのでしょうか。そう、つまり、「家族」とは「キレイごと」ではない、というわけです*6。にもかかわらず、間島翔子は、周囲の人間たちに多大な犠牲を負わせてでも家族を取り戻そうとした。「家族」は、キレイごとではないが、にもかかわらず、というか、だからこそ、というか、何か価値を持ったもの(少なくとも、はた迷惑で愚かでしかない「世直し」などよりも)として描かれます。どうも、読者というのは「キレイごとではない理不尽な生存本能」のようなものが大好きであり、同様に「キレイごとではない理不尽な家族の絆」のようなものも大好き、ということが前提されている。だからこそ、このようなキャラクター設定、物語設定が好まれるのではないかな、と思ってしまうのです。

*1:kindle版で読みました。

*2:プラネテスのポリティカ1〜3 http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20060123/p1 http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20090814/p1 http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20060123/p1 もう10年も前か…。

*3:頁数はkindle版。以下同様。

*4:まあ教祖が信者を殺した直後の場面だったので、内ゲバってことを言いたいのでしょうけど、唐突感はありますね。

*5:ちなみに間島の兄は、奇跡的に生きていて、止界から生還することになります。

*6:佑河家の中にも「キレイ」ではない部分が描かれています。