鳥の写真
今シーズン初の鳥写真です。昨シーズンの記事(今年3月)はこちら。
ヒドリガモ(鶴見川)
鶴見川。ヒドリガモは昨シーズンはこのエリアで見かけなかったカモです。とかいいつつ昨シーズンは年が明けてから10年以上ぶりぐらいに観察を再開したばかりなので、去年のこの時期のことはわからないんですが…。
コサギ(鶴見川)
カワセミ(鶴見川)
バンの幼鳥(鶴見川)
これはなんだろうと思ってうちに帰って調べたら、バンの若鳥(幼鳥)だそうです。単独でいました。
昨シーズン同じ区内の別の場所で撮った成鳥はこちら
全然違いますね…。これはわからない。
ゴイサギ
ちょっとピンぼけかも。
エナガ
横浜市内の公園です。群れでいました。動きが早く、正面の写真が撮れなかった。
死者の見極め[愚考]
リスクの「見極め」
コロナの感染者数の公表はやめたらどうか。国民の不安を煽り経済を縮小するだけだ。半年で1千人しか死亡者がでない。交通事故の年間死亡者は3千数百人いる。交通事故が怖くて行動の自粛はあり得ない。
https://twitter.com/toshio_tamogami/status/1290380961373274112
ところで、映画監督の森達也は、政治的には田母神とかなり異なった立場であるとみなされているだろうが、斎藤美奈子とのWEB対談(6月26日)で、田母神とよく似たことを書いている。
お餅で喉を詰まらせて死ぬ人は年間何人か知ってる?年間の統計はなかなか見つからないのだけど、毎年一月には日本国内だけで1300人前後が亡くなるらしい。餅の消費は1月がいちばん多いとして、年間では2~3000人くらいになるのかな。
http://www.gendaishokan.co.jp/article/W00153.htm
日本の新型コロナウィルスによる死者数は、この原稿を書いている6月26日の時点で971人。ちなみに世界全体では(6月26日のデータによれば)48万3872人。最も被害が大きいアメリカは12万2238人で、次いで被害が大きいブラジルでは5万3830人が死亡している。
森は、田母神と同じく、交通事故の例も使っている。
2018年の交通事故死者数は4,595人で、水難事故の犠牲者数は692人
http://www.gendaishokan.co.jp/article/W00153.htm
この後森は、2016年の統計を用いて、ガンや自殺、凍死、熱中症、といろいろと死者数の例を列挙した上で、こう主張する。
統計を眺めながら、何を対策して何を軽視すべきかを考える。軽視すべきという言いかたは適確ではないかもしれないけれど、でもリスクの見極めは重要だ。
http://www.gendaishokan.co.jp/article/W00153.htm
もちろんコロナは感染力の強い伝染病だ。転落死や誤嚥による死とは違う。それは大前提であるけれど、コロナ後の世界を考えるとき、ガンや心臓疾患と同じように人を死へいざなう要因が一つ増えた、という見方は決して間違いではないと思う。(強調引用者)
原発事故後聞かれるようになったいわゆる「正しく恐れよ」の一種に見えるが、結局森は、いろいろな死者数と新型コロナウィルスの死者数を比べてみせることで、新型コロナウィルスの危険性は軽視してもいいと読者を誘導している。
新型コロナウィルスの危険性、リスクについては、明らかに格差がある。社会的弱者に、リスクが偏っている。だから、「リスクの見極め」によって「死」を、「死者数」を容認せよ、という考え方は、はっきり言って優生思想である。
もちろん、森達也も、おそらく、長谷川豊の「自業自得の人工透析患者」は「無理だと泣くならそのまま殺せ!」というような発言に見られるような「あからさまな」優生思想には反対するであろう。
しかし、森達也の文章全体に漂う、「国家権力や世間が押し付けてくるもの(いわゆる「同調圧力」も含め)に個人として抵抗する」かのような雰囲気(つまり一見すると「反抗」や「抵抗」に見える雰囲気)が、実は、死者の数を全体として「見極め」て管理しようとする権力に利用される、というよりもむしろ一体となってそれを後押しするのだ。
安心を煽る
そして、どうやら森は、新型コロナウィルスについての自分の考え方(というか感覚)は、言いにくいもの、世間ではなかなか認められない少数意見であると思っているらしい。私はそれがどうにも気になる。そのことは、森が少し前の4月13日の往復書簡でこう書いていることからも推測される。
現段階の発症者や死亡者などの統計を見れば、日本だけでも一年間でインフルエンザで数万人が死んでいるのに、これほど恐れる必要が本当にあるのだろうか、とどうしても思いたくなるから。でもこれは書けない(ここに書いてしまったけれど)。絶対に炎上する。」(強調引用者)
http://www.gendaishokan.co.jp/article/W00151.htm
しかしどうだろうか?この文章が書かれたのが4月ということを考えても、日本で、新型コロナウィルスが「必要」以上に恐れられていた、とはたして言えるだろうか?初期のころから、マスメディアで、医師などの専門家によるものも含め「風邪やインフルエンザと同じようなものだから過剰に恐れることはない」というような主張は普通に聞かれた。その後も「日本は死者数(重症者数)が少ない」などと何かにつけて言われた。また、「炎上」と言うが、どちらかというと、新型コロナウイルスの危険性に警鐘を鳴らし、検査拡充を訴える人こそが「炎上」していたのではないか?
こう言うと、森は、WEB対談の相手である斎藤美奈子のように「メディアが先導して『自粛警察』に血道を上げてた」ではないか、と反論するかもしれない(5月29日のWEB対談)。しかし、政府とメディアが一体となってやっていたのは、「夜の街」の危険性を煽り立てながら、満員電車についてはスルーする、というようなものだった。つまり、(田母神の表現を使えば)「不安が煽られていた」のは、新型コロナに対してではなく、パチンコ・夜の街・若者、といった、(不安の原因とされた)特定の人々に対してであったのであり、その一方で、新型コロナそのものに対しては、自粛どころか正反対のGOTOが推進されたことに象徴されているように、いわば「安心が煽られて」いたのだ。
ハチとミサイル
森のこの文は、その後さらにスズメバチなどの「害虫」駆除の例を出してきて、「敵基地攻撃」の話につなげる*1。森は、2016年の統計でハチに刺されて死んだ人が19人、という話からはじめ、実際は人に危害を加えないものも含めて「害虫」の危険性が煽られホームセンターに駆除用の殺虫剤があふれる状況と、ミサイル攻撃の危険性が過剰に煽られるなかで敵基地攻撃能力保有の議論がなされる状況を重ねている。そして森は「後先考えない敵基地攻撃。過剰に発動する危機意識。なんか取り留めないけれど、そうした状態がいちばん厄介」とまとめる。
前半からの流れでいえば、森は、敵基地攻撃と新型コロナ問題を、「過剰に発動する危機意識」という点で結びつけたいようだ。しかし、最初に紹介したように、新型コロナに対する「過剰に発動する危機意識」について森とほぼ同意見の田母神は、敵基地攻撃能力については、言うまでもなく大賛成の立場である。
戦後の日本は軍事に関し普通の発想が出来なくなっている。イージスアショア計画中止に伴い敵基地攻撃能力が話題になっているが朝日、毎日新聞などはこれに反対だ。日本国民の命より敵の基地の方が大事なのか。それにしてもサヨクは大したものだ。常に間違っている。ほれぼれするくらい間違っている。
https://twitter.com/toshio_tamogami/status/1284958045814919169
とはいえ、田母神がこのような立場であることは、別に不思議ではない。田母神のような人物は、ファクトなどどうでもよく、都合良くあるときは不安を煽り、あるときは安心を煽る。コロナ特措法の改正を「慎重論」から見送りながら、「収束後」には検討する、と言った政府もしかりだ(要するに今は「コロナの危険よりも私権の制限の方が危険である」ということにしておいた方が都合がいいが、ときが来れば都合よく「私権の制限」を使いたいことが見え見えなのだ)*2。
森や斎藤は、「不安が煽られることの危険性」には敏感だ(斎藤は「自粛警察」から「関東大震災時の朝鮮人虐殺、国家総動員法時代の隣組」を想起している)が、「安心が煽られることの危険性」に対する反応は鈍い。これは勘ぐりすぎかもしれないが、「日常を破壊されたくない」を「危険があるはずがない」に変換する、いわゆる「正常性バイアス」を、「不安を煽る権力・世間に抗う自分」として(無意識のうちにかもしれないが)正当化しているのではないか……そう思ってしまう。
自動車の社会的費用
さて、田母神や森は、ふたりとも、新型コロナの死者数との比較対象として交通事故の死者数を持ち出していた。「我々は交通事故の死者数を容認しているのに、それより少ない新型コロナウィルスの死者数に対して過剰反応しているのではないか」というようなことが言いたいのだろう。しかし、そもそも我々は交通事故の死者数を「容認」すべきなのだろうか?宇沢弘文は『自動車の社会的費用』の中で、ある小学生の悲惨な交通事故死の事例をあげたあとでこう書いている。
このような自動車事故はいま日本国中でいたるところにおきていて、事故にあった被害者本人だけでなく、その家族、友人の悲しみははかりしれないものがあるが、その悲惨さに対する人々の感覚はすっかり麻痺してしまっているようにみえる。自動車事故による死亡者が年々2万人にも達し、100万人近い負傷者がでているにもかかわらず、歩・車道も分離されていない欠陥道路に依然として自動車の通行が許されている。そして、都市と農村とを問わず、子どもたちにとって、自動車をさけるという技術を身につけることが、生きてゆくためにまず必要となっている。これまで貴重な遊び場だった街路は自動車によって占有され、代替的な違び場もない。学校でも家庭でも、自動車に注意するようにまず最初にしつけられる。このような非人間的な状況をわたくしたちはどのように理解したらよいであろうか。(宇沢弘文『自動車の社会的費用』岩波新書、1974年、5ページ)
交通事故の死者数は、容認されているのではない。ただ、我々は非人間的状況に対する感覚が麻痺してしまっているだけなのだ。いや、むしろ「麻痺させられている」と言うべきだろう。そして、麻痺させるものたちが使うのが、「便益」である。
自動車が便利な乗り物であるということは疑う余地がない。自動車を常用することによる精神的・肉体的な健康への害をつよく意識して、自動車を利用しないように努める人も少なくない。また、自動車を中心とした都市環境に対して批判的な気持をもつ人々も多いであろう。しかし、日本をはじめとして多くの先進工業諸国で、自動車のもたらす効用を無批判に享受する人々が多数を占めることは、否定する余地のないことであろう。そして、このような国々では、自動車を購入し、運転するために各人が支払うべき費用は、自動車利用によってえられる便益よりはるかに小さいのが一般的な状況であるといってよい。したがって、自動車に対する需要はますます増加するであろう。しかも、このような自動車の普及は、道路建設に対する政治的な圧力となってあらわれ、自動車所有のもたらす私的な便益をますます大きなものとし、自動車に対する需要をいっそう誘発することになる。
しかし、自動車の保有台数が増加し、国土面積のより大きな割合が道路および関連施設に向けられるようになればなるほど、自動車通行にともなう社会的費用は大きくなる。自動車のもたらす社会的費用は、具体的には、交通事故、犯罪、公害、環境破壊というかたちをとってあらわれるが、いずれも、健康、安全歩行などという市民の基本的権利を侵害し、しかも人々に不可逆的な損失を与えるものが多い。このように大きな社会的費用の発生に対して、自動車の便益を享受する人々は、わずかしかその費用を負担していない。逆にいうならば、「自動車の普及は、自動車利用者がこのような社会的費用を負担しないでもよかったからこそはじめて可能になったともいえるのである。(同書、170ページ)
自動車が安価で便利な乗り物たりえているのは、その便益を享受している人々が、当然支払うべき安全対策の費用を、自動車社会の被害者に転嫁しているがゆえになのである。自動車は危険なものであり環境を破壊するものである、という当たり前の事実を指摘されると、自動車の便益の受益者たちは「でも、自動車がなくなったら困るでしょう」と「反論」するだろう。つまり、「自動車をやめる」ことで失われるものの大きさを「見極め」なければならない、というわけだ。だが、この「見極め」は、実は「自動車社会を選ぶ」ときに誰かに負わせた膨大な犠牲を隠蔽した上での、欺瞞的計算でしかない、ということだ。
「選ばれた」死者
ところで、宇沢の本の出版(1974年)に少し先立つ1970年12月、フランス北部の都市ランス(Lens)で、「人民法廷」が開かれた*3。この法廷は、同年2月にランス近郊のフキエール(Fouquières)の国営炭鉱で起こったガス爆発事故をいわば「人災」として裁いた。判決では、この事故が「謀殺」だったとし、経営者-国家、また直接の実行犯である炭鉱の技師、炭鉱医、幹部らに、有罪が宣告された。彼らは安全性より生産性を故意に選んだことで事故をまねいたからである。そう、バングラデシュ・ラナプラザでの縫製工場崩落「事故」と同じように。この人民法廷の検事役を努めた哲学者サルトルは、論告文でこのように書いている。
事故や人命の損失は決して不可避のものではなく、利潤の追求によって要請されたものなのである。坑内ガス爆発や珪肺のことを宿命と呼ぶなら呼んでもかまわないが、その宿命とは、ある種の人間たちにのみ、しかも、労働者を搾取し、生産性追求のために労働者の健康や生命をも犠牲にする他の一部の人間の手を介して、おそいかかる性質のものなのだ。(Sartre, Jean-Paul, "Premier Procès populaire à Lens", dans Situations, VIII, Gallimard, 1972, p.320.〔山本顕一訳「第一回ランス人民法廷」『シチュアシオン Ⅷ』人文書院、1974年、233ページ〕)
例えば、なぜ炭鉱医は有罪なのか。それは、彼らが、坑夫に対して職業病である「珪肺」の診断を故意にひかえるからだ。
医師は万事承知の上で患者を緩慢な死の道へと追いやるのである。ところで、炭鉱医たちが珪肺の坑夫を、労働事故の真の犠牲者として取り扱うのを極度にいやがるということは周知の事実である。その理由は?もし患者が炭鉱から離職し、その疾病に対し年金が支払われなければならないとしたら、経営者-国家は全く役立たずの人間に金銭を支払うことになるからだ。医師が真実をはっきりと告げたら、鉱山では半年と首がもたないであろう。(ibid. p.322.〔邦訳、235ページ〕)
こうして、炭鉱の医師は嘘をつくことを選択するようになる。「長らくこの職に従事し、立派な家に住み、優雅な生活を送っている医者たちは、人殺しに通じる嘘もひんぱんにつくしかない、と心に決めてからすでに久しいはずだ」(同)。
また、炭鉱では安全対策が不十分だが、これは、炭鉱の保安部門がただ怠慢だったり無能だったということではない。それは、「選ばれた」怠慢であり無策なのだ。しかも、彼らは、本来自分たちが持つべき安全対策の責任とその費用を、労働者に転嫁する。なるほど、炭鉱には立派な「安全基準」がある。それを守って作業すれば、坑夫の安全はたしかに確保されるが、その代わり作業効率は落ち、低賃金の坑夫の給料はますます減ってしまう。坑夫は生活のために無理をし、事故が起きる。
あらゆる事故は彼のせいにされる。「お前は規定を守らなかった。お前は注意が足らなかった!」と。(……)
こうして、あるおぞましいシステムが成り立つ。国家‐経営者は、労働者の稼ぎの中から、彼が死から身を守るべく行なうあらゆる労働相当分の賃金を天引する。鉱山は資本主義社会に属している。鉱山で労働者に聾いかかる事故や職業病は、資本主義社会のみが責任を負うべきものである。だか、この社会は、みずからが当然責任を負うべき災害から労働者の身を守るために必要な費用を、当の労働者自身に支払わせるのである。(ibid. pp.325-326.〔邦訳、237-238ページ〕)
病気は「宿命」。事故は「想定外」。果たしてそうだろうか?実は病気や事故の死者数は、「選ばれている」のだ。自動車事故の死者数、炭鉱での死者数、原発事故での死者数、そして新型コロナウィルス感染症の死者数も。だから我々は、死者数を「見極めるべき」とか、「感染症対策」と「経済」のバランスを「見極めるべき」、というような議論を疑っていくべきだ。その「見極め」が果たして何を「見」ているのか。我々が本当に見極めなければならないのはそちらのほうだろう。
*1:森が念頭に置いているのかはわからないが、マイケル・ムーアの「ボーリング・フォー・コロンバイン」では、テロリストやアフリカ系アメリカ人に対する「恐怖」を煽る政府やメディアを批判する箇所で、殺人蜂(アフリカナイズドミツバチ)の危険性を煽るテレビ番組が引用されている。
*2:フジテレビの平井解説委員は、特措法改正を安倍政権が見送ったのは「私権の制限は憲法違反であると野党が反対したから」だと解説したというhttps://lite-ra.com/2020/08/post-5557.html
*3:人民法廷と、それに関わる「野生の司法」(「国家の司法」と対比される)については、かつて書いたこちら↓を参照されたい。 garage-sale.hatenablog.com
鳥の写真
えーと、鳥の写真をただ貼り付けていくだけのエントリーです。あしからず。
鳥観察はごく最近再開し、ブランクがかなり空いており、以下、よくいる、とかめずらしい、とか書いてますがかなり主観が含まれています(全国的な動向についても一部ネットでちょっと調べました)。
↑イソシギ。「磯」といいつつ川に多いようです。ネットで調べましたが、おなかの白い部分が首のしたで食い込んでいるのが特徴だそうで、イソシギに間違い無いと思います。
↑セグロカモメ。なぜ川に?と思いましたが、いつのものかわかりませんが、こども電話相談室で、最近カモメが陸地に入ってきてカラスが追いやられている、という話がありました。
↑カワウ。このエリアにいるようですが、なかなかとまっているところが撮れない……。
↑マガモ。
↑コサギ。いい写真がとれた……。
↑シジュウカラ。まあまあよくいますね。
↑これもシジュウカラ。
↑ヒヨドリ。かなりたくさんいますね。
↑カルガモ。かなりたくさんいた……はずですが、鶴見川のこのエリアにはあまりいない。
↑オナガ。意外とあまり会わない。
↑これは、よくわからない。キセキレイなのかもしれないけど、ちがうような気もする。
↑カラスの行水。慣用句が現実化した貴重な瞬間。
↑セグロセキレイ。かなりたくさんいますが、きれいな写真が撮れました。
↑キセキレイ。まあまあめずらしいです。このエリアに数匹いるみたいでよく遭遇します。
↑オオバン。鶴見川のこのエリアには相当たくさんいる。この鳥、昔はめずらしかったような気がするんだけど、最近増えているのだろうか。それともこのエリアだけの現象だろうか。
と思って「オオバン 増加」でぐぐってみたら、やはり!2010年代に入って急増しているそうです。
私が多摩市でしょっちゅうカモを見ていたのは2000年代ですから、そのころとは状況が変わっているのですね。
そういえば、昔たくさんいたオナガガモ、最近見かけないけどどうしたんだろう、と思ってこれまた「オナガガモ 減少」でぐぐってみたら、同じバードリサーチというところのサイトですが、2008年の1月~3月に発生した鳥インフルエンザの影響でカモ類への給餌が全国的に自粛され、その影響が大きかったオナガガモの観察数がその後急減したのだそうです(ただそれは全体の個体数が減ったということではなく分散した、ということのようですが。詳しくは下の記事を御覧ください)。
このブログでは2007年にオナガガモの写真を上げています。当時はアドエス(懐かしい!)で撮影してたんだ……。
減ったあとの2013年にも撮ってますね。
このときはオリンパス光学20倍のものをつかっていますが、その後さらにカメラをかえて、今は同じオリンパスの光学50倍!のものをつかっています。これ、照準器もついていて、鳥を撮るのに最高です。昔は、いつかはデジスコとかやってみたいなあ、と夢を持っていましたが、もうその必要ないかなあ、て感じです。
↑ムクドリ。どこにでもものすごくたくさんいます。しかしいい写真がとれた。
↑スズメ。減っていると聞いていますが昔に比べると本当に少ない!昔はもうどこにでもいたのに。
↑ヒバリ?かなあ。よくわかりません。
↑モズ。まあまあめずらしいと思います。
次に、横浜市某公園の池の鳥たち。
↑バン。
↑キンクロハジロ。
↑これもキンクロハジロ。
テーブル改造
もともとDIYが趣味とかでは全然なかったのですが、最近ときどきそれっぽいことをやっています。リビングのテーブルの改造は結構うまく行ったような気がするのでブログに書いてみます。
カラーシートで天板リフォーム
最初の改造は数年前にさかのぼります。引っ越して以来5年以上使っていたリビングのダークブラウンのテーブル(ニッセンの通販で、椅子とセットで1万5千円ぐらい)の表面がひどいことになっていました。傷も結構ついていたし、サイフォンでコーヒーを作ったとき、アルコールランプの底面にアルコールがついていたらしく、輪染みのように白く色が抜けてしまい、その部分を黒いマジックで塗ってごまかしていました。ランチョンマットをおいて隠していましたが、なんとかしたい、とずっと思っていました。ニスを塗り直す方法とかもネットで調べたのですが、まず紙ヤスリで古いニスを落として……など、その他も敷居が高くてこりゃ無理だな、とあきらめました。そこで考えたのが、カラーシートを貼るという方法です。ネットで、リンテックというメーカーのPAROIパロアPWO-713というシートを買いました。10センチ単位で売ってましたが、1メートルで2900円でした。現物を見ずに買ったので不安でしたが、届いてみたら、いい感じでした。というわけで、貼った結果がこれです。
ビフォーの写真がなくアフターだけなのでなんともですが、うまくリフォームできました。
裏は、こんなふうに折り返しています。
座面リフォーム
あと、ついでにいうと、イスの座面も5年ぐらい前に張り替えています。ネットで探して、座面を外して送ると似た色のシートに張り替えてお繰り返してくれるというサービスを使いました。椅子の張替え修理のアイランド 全国対応で【1300円!】後払いOK!
二段テーブル化
さて、天板の表面はきれいになったのですが、ありがちなことですが、普段はテーブルの上についいろいろ(リモコンとかティッシュとかDMの類とか…)ものを置いてしまって、乱雑な状態になってしまいます。せっかく表面がきれいでも、これでは意味がありません。前から、テーブルの下に引き出しがあればいいな、と思っていたのですが、引き出しを作るのは相当大変です。
そんなある日、たまたま、Eテレの「又吉直樹のヘウレーカ!」という番組をみていたら、山崎信寿という人の自宅のリビングにあるテーブルに目を奪われました。山崎信寿の椅子の値段と通販は?娘はジャイ子の声優山崎バニラ!【ヘウレーカ】NHKというページの下の方に写真がありますが、いわばテーブルの天板が二重になっていて、下の方の天板にいろいろなものを置いて隠してしまうという仕組みです。テーブルの下に引き出しではなくて棚を作るという感じでしょうか。山崎さんの自宅のテーブルは職人に特注で作ってもらったそうですが、これは、テーブルの下に板をつけるだけだから、引き出しを作るよりも簡単にできるのではないか、とやってみることにしました。以下、空いた時間に少しづつ進めました。
まず、テーブルの下につける大きい板を買いに行きました。しかし、そもそも大きい板というのは意外と売っていない。薄い合板なら大きいのがあるのですが、なんか歪んでしまいそうでやめました。結局、軽くてしっかりしているということで、東急ハンズで、「焼き桐集成材ニス仕上げ」というものの900×300×10(単位はmm)というものを2つ買ってきて、くっつけることにしました。一枚1700円ぐらいだったかな?
山崎さんのテーブルはテーブルの天板と同じ大きさの二段目の天板がついているようですが、それを自作でするには、うちのテーブルの場合構造的に無理っぽいので、テーブルの脚と脚の間の幅よりも小さい横幅の板を天板の下に何らかの方法で固定する、というやり方が簡単かな、と思いました。テーブルの脚と脚の間の幅は570なので、一枚の板をのこぎりで570に切って、2つをくっつけて570×600×10の板を作りました。木工用ボンドと、念の為I字金具(と呼ぶのかな?)で補強しました。
裏面↓
表面↓
これを天板の下にこのように固定する計画です。
↑茶色い部分が今回作った板(二段目の天板)です。
これをどのようにテーブルの下に固定するかが問題で、最初は、切って余った板を使ってテーブルの裏にこのようなものをくっつけ、ここに二段目の天板をねじで固定すればどうか、と思いました。
が、ここまで作ったところでもっといい方法を思いつき、この吊り下げ方式は却下。せっかく固定したのに、はずしました。
あらたにホームセンターに行って、一本200円ぐらいの、900×10×10の木の棒(材質は忘れました)を2本買ってきて、そこにこういう細長いカラーシート
を貼り付けて、黒くしました。
これを、テーブルの脚の内側にネジで固定します。
ここに、二段目の天板を、固定するのではなく、乗せるのですね。すると、この棒がいわばレールになって、その上で板を滑らせることで、スライド式のテーブルになるのではないか。完成したものがこれです。
こういう、二段目のテーブルがスライドするものって、パソコンデスクなどではよくあるやつですけどね。これは、両側から引張出すことができます。
ただ、これ、「レール」の上に板を乗っけているだけでは、真っ直ぐにスライドしないので、引っかかってしまいます。というわけで、板の裏に、切って余った棒をこのように木工用ボンドで貼り付けました。これが、外側のレールに沿って動くことで、いわばガイドのようになる、という仕組みです。
↓下から見るとこうなります。
↓横から見るとこういうことです。
↓下から撮影した動画です。
まあ、これでもちょっと引っかかったりもするのですが、十分満足するものができました。
PowerPointでイラストを書く(3)
の続きです。
まず、開いた図形の作り方。前回やったように、「フリーフォーム」で頂点を設定していき、出発点あたりにもどってきてクリックをすると、図形は自動的に閉じた図形になります。
しかし、 出発点にもどらず、途中でダブルクリックすると、線は閉じず、開いた図形になります。
閉じた図形を開いた図形に直すこともできます。「頂点の編集」から「パスを開く」をクリックし、その後余分な頂点を削除すればよいです。
描画ツール≒ブラシツール
さて、ここからは前回予告した話です。前回説明したように、PowerPointの「フリーフォーム」は、Illustratorの「ペンツール」に近いもの(のよう)です*1。これは、頂点(Illustratorでいう「アンカーポイント」)と、白い四角い点(Illustratorでいう「ハンドル」)を操作しながら、ベジェ曲線を使って図形を描くツールです。手書きの線のようにはなりませんが、むしろ手書きの線のようにはしたくない、均一でなめらかな線を書きたい場合に便利なツールです。
一方、PowerPointには、「描画」という機能があります。これは、最近付け加わった機能のようで、昔のPowerPointにはなかったと思います*2。この機能は、Illustratorでいう「ブラシツール」に近いもの(のよう)です。「フリーフォーム」(やIllustratorのペンツール)とは違って、「描画」の場合、手書きのような線を書くことができます。描画機能は、リボンの「描画」タブをクリックします。すると、3本のペンと、1本の鉛筆と、1本の蛍光ペンが出てきます。それぞれ、色や太さを変えることができます。
マウスで線を描いてみます。こんな感じで、フリーフォームや曲線ツールと違い、手書きのような太さの変化のある線がかけます。
例えばMSペイントのようないわゆるペイント系ソフトで描いた線は、前回説明したように「ラスタ形式」なのですが、しかし、PowerPointの「描画」機能で描いた上の線は、手書き風に見えても、やはり「ベクタ形式」になっています。「描画」機能で描いた線がベクタ形式だというのは、太さを変えたり、拡大縮小したり、変形したり、がきれいな線のままで自在にできるというところからわかります。たとえば、上の線を選択すると、それぞれの線がオブジェクトになっていて、移動したり、拡大縮小したり、太さや色を変えたり、が、図形と同じようにできます。
ただし、描画で描いた線を選択しても、フリーフォームとは違って「頂点」は出てきません。というわけで、フリーフォームのように、一度描いた曲線の曲がり方を変えたりといったことはできないようです。
で、『イラストで読むキーワード哲学入門』のイラストでは、この「描画」ツールもときどき使っています。とくに、哲学者の似顔絵はすべてこの「描画」を使って書きました。ここで、哲学者の似顔絵をどうやって描いたかをせつめいします。
たとえば、デカルトですが、まず、デカルトの有名な肖像画をPowerPointのスライドに貼り付けます。
次に、描画機能を使って、この肖像の輪郭線をなぞります。
途中、下絵のない状態での仕上がりを確認しながら作業をすすめましたが、PowerPointにはレイヤーという機能は基本ないので、しかたなく、「下絵削除」→仕上がり確認→「command+z(windowsならctrl+z)で「やり直し」で下絵復活」、の繰り返しで確認作業をしました。こういうところはイラスト専用ソフトではないめんどくささかもしれません。
作業が終わったら、下絵を削除して完成です。
この作業、実は最初はマウスでやっておりました。しかし、マウスだと、さすがに時間がかかり、肩こりと目の疲れがひどそうだったので、結局途中から安いペンタブレットを買ってしまいました…。が、液晶タブレットではないので、マウスよりは多少楽かな、という感じでしたが。
というわけで、こんなふうないろいろな作業をしつつ、基本すべてのイラストをPowerPointで作りました。Illustratorなどよりは機能が低いとは思いますが、そのぶん操作がシンプルで、私としてはPowerPointで絵を書くのはありではないかと思いました。
ファイル変換について
次に、ファイル変換の問題です。私は、一枚一枚のスライドに一枚一枚のイラストを描いていったので、たとえば100枚のイラストを書くとそれが100枚のスライドがあるPowerPointファイル(拡張子は「pptx」)になります。
しかし、このファイルはそのままではInDesignなどのDTPソフトに取り入れることはできないと思いますので、DTPソフトでも使える形式に変換しなければいけません。メニューの「ファイル」から「エキスポート」で別の形式のファイルにするわけですが、そこで、jpgなどにすると、それはすなわち、前回説明した「ラスタ形式」に変換する、ということであります。せっかくなので「ベクタ形式」のままでファイルを送りたい、というわけで、PDFに変換しました。これで出版社との間でファイルの受け渡しができました。しかしこの辺、私はIllustratorやInDesignのことはわからないので詳しいことはわかりません。
PDFでの受け渡しもしましたが、さらに、PowerPointからPDFに変換した上で、それを、フリーのドロー系ソフトInkscapeで読み込み、それをsvgファイルで保存する、というやり方で、svgファイルに変換することもやりました。
*1:なにぶんIllustratorを持っていないので、ネット情報からおそらくそうだろう、ということですが。
*2:ところで、私はMac版のPowerPoint for Office 365を使っておりますが、開発過程の機能だったのか、バージョンアップの過程で、一時この「描画」機能が消えていたことがあります(だと思います)。突然消えてしまって、しかも本のイラストを作っている最中だったので、困りました。その時は、メニューがどこかに隠れたのか、と思って探し回りましたが、ありませんでした……。現在は復活しています。
PowerPointでイラストを描く(2)
『イラストで読むキーワード哲学入門』という本のイラストをPowerPoint*1で描いた、という話の続きです。前回はこちら↓
今回は、手書きのイラストを、PowerPointでベクタ形式に変換したやり方を、長々と書きました。
*1:PowerPoint for Office 365 for Mac