藤子F不二雄とフランツ・ファノンとコロナウイルス

 藤子・F・不二雄のSF短編のことを知ったのは、実を言うと、2000年に発行された永井均の『マンガは哲学する』経由であり、つまり、私はSF短編集のかなり遅れて来たファンなのである。私が2000年に読んだ『マンガは哲学する』は講談社刊の単行本だったが、同書はその後2004年に講談社で文庫化され、さらにその後出版社を変えて2009年に岩波現代文庫版が出て、現在に至る。

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 私は、2009年に、Web評論誌「コーラ」に「吸血鬼はフランツ・ファノンの夢を見るか」という論文を書いた。この論文で私は、藤子・F・不二雄のSF短編の中の「絶滅の島」(1985年)と「流血鬼」(1978年)という2つの作品を題材に、サルトルとファノンとろう文化などについて論じたのだが、今から思えばこの論文のテーマは、前回の記事で紹介した竹内の発言にある「加害者と被害者との歴史のなかでの弁証法的逆転」「主体と客体との弁証法」だったと言える。

homepage1.canvas.ne.jp

(この論文は私が書いた『哲学のモンダイ | 白澤社』という本にも収録されている。)

 ところで、この藤子F不二雄SF短編のうち10作品が、昨年NHKでドラマ化された。BSプレミアムおよびNHK BS4Kで2023年4月と6月に放送された本放送は見逃したのだが、10作品の中で「流血鬼」だけを、今回配信レンタル(U-NEXT)で視聴した*1

www.nhk-ondemand.jp

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 この作品は、感染すると吸血鬼になってしまうというウイルスが世界中で蔓延し、感染を逃れた少年が吸血鬼と孤独な戦いを続ける、というもの。詳細については、上記の私の論文(ネタバレあり)を参照されたい。 

 マンガ原作のドラマ改変が昨今話題となっているが、このドラマ化は原作にかなり忠実に、かつ現代に合わせた必要最小限の改変もなされていて、よくできており、違和感なく楽しめた。ドラマは、画面がモノクロ+赤の色調で、ラストシーンのみカラーになる。これは、原作のテーマを表現するうまい設定だと思った。改変、というか現代へのアレンジ部分がどの部分でなされていたかというと、基本的に「今ならそこはスマホでしょう」というところをスマホに変える、というところのみ。ほかは、セリフも含めてほとんど原作どおりだったと思う。たとえば、原作の回想シーンで主人公の「青年A」がクラスメイトに吸血鬼の噂について話す部分は、原作ではこうなっている。

青年A「だってちゃんと出てるんだぞ、週刊誌に!「世界のこぼれ話」ってところよんでみろ!ルーマニアの小さな村で原因不明の急死人がでたんだって。(……)」

少女A*2「まあ、こわい!」

青年B「どこにも迷信深いやつっているもんだよ。」

 ドラマではこれをこのように変更している。

青年A「だってほら見てみろ(とスマホSNSの画面を友人たちに見せる)ルーマニアの小さな村で原因不明の死人が出て(……)映像だってあるぞ(とスマホの画面で動画を友人たちに見せる)」

少女A「えー?こわー!」

青年B「いや信じるなよこんなの、どうせ子どもだましのフェイクニュースだろ」

 細かいけど、「まあ、こわい!」は、「えー?こわー!」という表現に変えられている。ドラマで「まあ、こわい!」というセリフにしたら、かなり違和感が出るだろう*3。しかしそもそも「まあ、こわい!」なんて言い方、1978年でも少女が言っていたかどうかも怪しいけど。

 また、主人公たちが吸血鬼が活動しない(はずの)昼間に街に出て探索しているシーンは、こうセリフが変わっている。

(原作)青年B「さしあたって欲しいのはラジオと新聞だ。全国的な情勢をつかみたい。」

(ドラマ)青年B「最優先で欲しいのはスマホのポータブル充電器だ。ネットが生きていれば何か情勢が掴めるかも。(……)SNSで呼びかけるのも手だな。」

 しかし逆に言うと、原作が発表された40年以上前(1978年)と現在(2024年)の社会の違いって、もしかしてスマホSNSだけなのではないか、と思わされた。原作では、回想部分で、主人公の青年Aが、世界で流行しはじめた「奇病」について報じるテレビ番組を不安そうに見ているシーンがある。画面の中でアナウンサーの発言は、以下のようにほぼ変えていない。

(原作)「バルカン諸国に発したといわれる奇病はその後ヨーロッパやアメリカにも伝播したうたがいが強いと発表されました。症例がすくないため予防治療法の研究進展しておりませんが、リチャード・マチスン博士は病原体とみられるウイルスの分離に成功したもようであります。なお、この病気と吸血鬼伝説を結びつけた怪談もどきのうわさも、医学界の全面的否定にもかかわらず根強くひろまっており……」

(ドラマ)「バルカン諸国に発したといわれる奇病はその後ヨーロッパやアメリカにも伝播したうたがいが強いとされています。症例がすくないためまだ治療法やワクチンの研究進んでいませんが、免疫学の権威リチャード・マチスン博士は病原体とみられるウイルスの分離に成功したと発表しました。なお、この病気と吸血鬼伝説を結びつけた……」

 そこにやってきた主人公の父親は、主人公の不安を一笑に付してこう言う。

(原作)「なに、吸血鬼?くだらん。奇病?だいじょうぶだよ。検疫さえしっかりしてりゃ、なるもんか!」

(ドラマ)「大丈夫大丈夫(笑)日本の検疫をなめちゃだめだよ。ウイルスの一匹だって通しはしないよ。」

 その後、主人公の周りでも感染者が次第に増え始めるのだが、父親は相変わらず「正常性バイアス」そのものの反応を示す。

(マンガ)「心配ないよ。厚生省も本腰を入れて防疫体制を作ってるし。」

(ドラマ)「大丈夫。厚労省は本腰を入れて防疫体制を作ってるんだ。日本で蔓延することなんかありえない。」

 今回ドラマでこれらのシーンを見て、あまりに「リアリティ」があるので、もう本当に笑ってしまった。やはり藤子F不二雄は天才だ、としか思えないが、SF短編集をドラマ化するにあたって、今この作品を選んだプロデューサー?はセンスがある。

現実

「大丈夫大丈夫(笑)日本の検疫をなめちゃだめだよ。ウイルスの一匹だって通しはしないよ。」

↓↓↓

・ダイアモンド・プリンセス

・空港検疫をPCRから精度がはるかに劣る抗原検査に変更*4

・水際対策終了!(5類ですから)

現実

「大丈夫。厚労省は本腰を入れて防疫体制を作ってるんだ。日本で蔓延することなんかありえない。」

↓↓↓

・発熱が4日以上続いた場合受診して下さい

・うちで治そう

エアロゾル感染はありえません*5

・空気感染はありえません*6

・旅行自体が感染を起こすことはありません(だからGOTO!)*7

PCR検査は感度が低い*8

PCR検査をすると感染者が増える*9

PCR検査をすると医療崩壊する*10

・新規感染者数全数把握は終了しました(5類ですから)

・アベノマスク

・マスクの隙間はウイルスより大きいから無意味*11

・学校ではマスク着用を求めないことを基本とする*12

・コロナが明けました*13

……もうきりがない……うんざりしてきた……。

 そうそう、マンガをドラマ化したときのもう一つの変更点があったのだった。原作では、主人公がテレビ(もちろんブラウン管)で感染症のニュースを見ていたのに、やってきた父親が「ガチャ」とダイヤルを回してチャンネルを変えてしまう。このときの父親が申し訳無さそうに言うセリフが以下である。

巨人ヤクルトのダブルヘッダーがはじまってるんだよ

 ドラマでは、テレビが液晶になっているのはもちろん、父親が勝手にチャンネルを変えるシーンはない。したがって上の父親のセリフもない。まあ当たり前ですね。マンガが発表された1978年ごろはプロ野球でしばしば行われていたダブルヘッダーというものは、1998年10月10日の横浜中日戦以降一度も行われていないそうだ*14

追記

 マンガとドラマを見比べてもう一つ気付いたことがあるのだが、最後、洞窟に訪れた少女Aの服装が、襟の形やボタンの数まで全く同じなので感心した(ほかの服装はそこまで一致させていない)。

マンガ

ドラマ

 

*1:下記リンクはNHKオンデマンドのものだが、U-NEXTからもレンタルできる。https://video.unext.jp/title/SID0085385

*2:登場人物の表記はNHKのサイト藤子・F・不二雄SF短編ドラマ - NHKに倣ったのだが、「青年」に対応する表現が「少女」しかないというのは考えてみればおかしい。

*3:その他の部分も改めてセリフの違いをチェックしたが、少女Aのセリフは原作の「だわ」「のよ」的なセリフをすべて同様に自然な表現に直していた。

*4:しかも安倍友の富士レビオ製

*5:最初の頃ワイドショーで何人もの「専門家」がこう言っているのをこの耳で聞いた。

*6:同上。念の為言っておきますがコロナウィルスは空気感染しますよ。

*7:2020年7月の尾身ちゃんの発言ですね。https://jisin.jp/domestic/1877632/

*8:これを読んでいる人にはまさかそう思っている人はいないと信じたいですがこれはデマですよ。

*9:同上

*10:同上

*11:念の為これも嘘ですよ。

*12:昨年3月の文科省の通知です。学校でのマスク着用 4月1日から原則不要 感染対策の考え方変更|NHK

*13:念の為これも嘘ですよ。

*14:ダブルヘッダーはデーゲームで、消化試合で行われたはずだから秋の休日、また多くの企業が週休二日になったのは1980年代以降だから、このシーンは秋の日曜ということになる。というか、かつては必ずテレビ中継されていた巨人戦、いまは地上波で放送すること自体がめずらしい。

「日本人には甘ったれた曖昧な被害者意識しかないんだよね」by竹内芳郎

日本人には甘ったれた曖昧な被害者意識しかないんだよね。これは非常にいけないものの根源だと思うね。日本人はアジアに対してははっきり加害者なんですよ。なるほど原爆については被害者だけど、しかしこれについてさえも、「原爆をおとされました、もう再び誤まちはくりかえしません」では、誰が誰に対して誤まちを犯したのかわけがわからなくなってしまう。もし本当に被害者意識に徹底するのなら、今度は加害者に対する猛烈な憎しみがあってよさそうなものだけどね。つまり加害者と被害者の明確な対立もないような被害者意識なんだ。加害者と被害者との歴史のなかでの弁証法的逆転を見てとるサルトルのダイナミックな思想とは大違いだ。だから平和運動は年中行事になっちゃって、わけがわからなくなるし、一方は既成の政治理念だけで外からそれにかぶさってくる。そうするとジャーナリズム一般は、みんな平和運動家・政治家たちだけが悪くて祈ったり泣いたりだけしかせぬ非政治的な被爆者の方はとてもいい子だと言う。たしかにこの方はブルジョア支配層にとって衛生無害だものね。ぼくは問題はもっと根本的だと思うんだ。自己の拠るべき主体的拠点を忘れて外から与えられた既成の政治理念だけで集ったり分裂したりしている政治運動家も愚劣なら、ひたすら自己体験だけに甘えてその客観的政治を嫌悪化する体験主義者も同じように愚劣な筈なのだから。サルトルに見られるような、主体と客体との弁証法といったダイナミックな思想は、日本ではどうしても成立しないものらしいね。(『現代の眼』現代評論社、1966年10月号、67ページ)

現代評論社発行の『現代の眼』という左翼系の雑誌があった。左翼には有名な雑誌だと思うが、「現代評論社」も「現代の眼」もwikipediaに項目がない。1968年から第四代の編集長を努めた丸山実という人の項目にこの雑誌のことがある程度説明されている。 

ja.wikipedia.org

enpediaという謎のオンライン百科辞典には項目がある。

enpedia.rxy.jp

これらの情報を総合すると、創刊時期は1960年代ということだけで不明、終刊は1983年ということのようだ。

 1965年生まれの私だが、子どものころ家にこの雑誌がよくおいてあった。父親はトイレで本を読む習慣があったが(という人はたぶん珍しくはないと思うけど…)トイレで読む用の本のことを「うんぽん」と呼んでいた。そういうわけで、『現代の眼』はよく「うんぽん」になっていた。で、私もトイレで遭遇するこの雑誌をよく眺めていた。もちろんほとんどの記事は読んでもまったくわからなかったのだが、「鳥類図譜」という風刺イラストが毎号の扉に載っていて、これは面白いのでいつも眺めていた。

今回、事情があってこの雑誌の古いバックナンバーを国立国会図書館デジタルコレクションの個人送信サービス(登録が必要だが、国立国会図書館の本を自宅にいながら直接オンラインで閲覧できるサービス)でいろいろ読んでいたのだが(まったく便利な時代になったものだ!*1)この「鳥類図譜」、私は辻まことの作品だと思っていたのだが、それは勘違いで(辻まことは「虫類図譜」だった)、「鳥類図譜」は、真鍋博だった。真鍋博といえば、星新一の本のイラストで有名だが、子どものころ星新一が好きだったのでその意味でも懐かしかった。

 それはともかく、この『現代の眼』1966年10月号は「特集:サルトルの思想と現代」である。

dl.ndl.go.jp

1966年というと、9月22日にサルトルが来日し、一ヶ月近く滞在したという年である(ちなみに同じ年にビートルズも来日している)。この特集はあきらかにサルトル来日に合わせて企画されたものだろう。で、この特集に、「サルトルの思想と日本──現実に責任を負うとはどういうことか」と題された竹内芳郎と鈴木道彦の対談が掲載されている。この対談がいつ行われたかは記載がないのだが、内容から、サルトル来日の直前に行われたものであることがわかる。非常に興味深い対談なのだが、今回これを探して読んだのは、加藤周一が、「サルトルの知識人論」という文章でこの対談のことを紹介していたからだ(『加藤周一著作集2』平凡社、1979年、332ページ)。ちなみに、ものすごく細かいことだが、この文章で、加藤は対談の掲載誌を「『現代の眼』9月号」と誤記している(実際は10月号。おかげで対談を探すのに時間がかかってしまった)。

加藤周一の「サルトルの知識人論」を読んだきっかけは、最近出版された竹本研二さんの『サルトル「特異的普遍」の哲学』に、この文章が紹介されていたからだ。

www.h-up.com

 と、ここまで長い前フリを書いておいてなんだけど、竹本さんの本と、この対談の全体について書くのは他日に期したい。今回は、この対談の中で、竹内芳郎が当時の日本(竹内いうところの日本的現実)について語っている部分(当記事の冒頭の引用)が、今読んでも非常に刺さるものなので、紹介したかった、というわけである。

 

*1:使い方はたとえばここなどに書いてある。

「国立国会図書館個人向けデジタル化資料送信サービス」利用のススメ | 大阪大学附属図書館

国会図書館のサイトの説明は正直わかりにくい。

トモエガモ

 20年ぐらい前、はてなブログ(の前身のはてなダイアリー)をはじめたころ(ついこの間のような気がしますが)東京都多摩市の永山というところに住んでいました。当時、近所の川(多摩川の支流の大栗川の更に支流の乞田川という小さな川)によくカモの観察に行っていました。そのころ乞田川には毎年冬になると、かなりの数のカモが渡ってきていました。一番多かったのはオナガガモだったように思いますが、あとは、マガモコガモ、そして留鳥カルガモ。基本的にこの4種類ですが、合わせて何十羽ものカモが永山駅周辺の乞田川にはひしめいていました。その後数年して、護岸工事の影響ではないかと私は思っているのですが、ほとんどカモが渡ってこなくなり、悲しかったです。

 カモの数がピークだった2002年の年末、乞田川で見慣れない一羽のカモを発見し、調べるとトモエガモという珍しいカモだということがわかり、興奮して毎日のように観察しました。トモエガモは結局数ヶ月滞在していましたが、主にトモエガモの撮影をするために中古で一眼レフと望遠レンズを買ってしまったほどです……。翌2003年にはトモエガモ乞田川には飛来しなかったのですが、2004年の11月に再び現れました。そのころ興奮して書いたアホな記事です。

sarutora.hatenablog.com

 正直、そこまで興奮するほどなのかはわかっていなかったのですが、絶滅危惧種というのは確かでしたし、井の頭公園に飛来したというのがニュースになっていたような記憶もあるので、このトモエガモがそこそこ珍しいカモであるのは確かだったと思います。

 ところが、先日たまたまこのニュースが目に入り、思わず「ええええ?!」と声が出てしまいました。

news.tv-asahi.co.jp

 20年前たった一羽で大興奮していたトモエガモが、く、黒い塊?!卒倒しそうですね……。記事にもありますが、近年増加しているとのことです。それにしても、諫早湾だけで35万羽ですと?!さ、さんじゅうごまん?!

 というわけでざっと調べてみましたが、やはりトモエガモは近年急増しているようです。

www.asahi.com

 上の記事にあるように、ちょうど私が乞田川で観察していた2004年は、最も少なかった時期らしく、全国で2000羽しか飛来しなかったようです。ちなみにカモ類全体は全国で毎年180万羽も来ます。やはり乞田川にいたのはかなりレアだったのではないでしょうか。そして、17万というのは、昨冬の全国の数字です。いやいや、この冬は諫早湾だけでその倍の35万も来ているわけでしょう?20年で100倍以上に飛来数が増えたということになります。例のごとく温暖化が原因かとも言われているようで、単純に喜ばしいこととはとても言えなそうですね。

 まあそれはともかく、20年前に撮影した乞田川トモエガモの勇姿を再掲しておきます。

トモエガモ(2004年多摩市)

 こちらは当時乞田川で撮影した動画です。

www.youtube.com


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竹内芳郎とサルトル──思想の柔構造と思想のだらしなさ

 閏月社から出版された『竹内芳郎 その思想と時代』という本に、「竹内芳郎サルトル──裸形の倫理」という論文を書きました。

honto.jp

 本日、この本の合評会シンポジウムが開かれます。

 以下、拙論の要約と、今日話せたら話そうと(全部は無理と思いますが)思っていることです。

***

 竹内芳郎という思想家の最初の著作は、1952年の『サルトル哲学入門』(後に『サルトル哲学序説』と改題)です。当時はサルトルの翻訳もほとんど出版されておらず、早い時期に非常に正確にサルトル哲学を解説したこの本(と同時に単なる解説書ではなく竹内の強烈な個性がすでに現れている竹内の代表作の一つです)は長い間サルトル哲学の定番の解説書でした。その後独自の思想を確立した竹内は多数の著作を発表したのですが、かつては多くの人に読まれていたものの、最近はあまり読まれなくなりました。竹内芳郎、今は名前も聞いたことがないという人も多いのではないでしょうか。サルトルの方は、読んだことはなくても名前くらい知ってる人は多いと思います。ところが、実はある時期からサルトルは「読まなくてもいい哲学者」扱いされ、「軽視」、あるいは「無視」されるようになりました。私がサルトルで卒論と修論を書いたころ、デリダドゥルーズフーコーなど「ポストモダン」の思想が流行りで、当時私は「なんで今どきサルトル?」と何度も言われました*1。また「サルトルやるにしても今どき竹内芳郎でもないでしょう」みたいなことを言われたこともあります。
 「軽視」の例としては、例えば内田樹は、2008年にブログでこう書いています。

 私はサルトルの著作のうちで今日でもまだリーダブルなものはきわめて少ないと思う。そのあまりにクリアカットでオプティミスティックな歴史主義から人間についての深い理解を得ることは(少なくとも私には)ほとんど不可能である。(http://blog.tatsuru.com/2008/01/15_1150.html*2

 「無視」の例としては、「まなざしの地獄」の例があります。「まなざしの地獄」とは、社会学者の見田宗介が1973年に発表した有名な論文なのですが、2008年に河出書房新社でこの論文が単行本化された際、社会学大澤真幸による長い「解説」が付されました。いうまでもなく同論文はタイトルからしてベタにサルトルです。後述するように「まなざし」は『存在と無』に由来するサルトル用語ですし、「地獄」は、サルトルが『存在と無』の他者論を演劇化した「出口なし」の最も有名なせりふ「地獄とは他者のことだ」から来ていることは間違いありません。さらに、内容も、明らかにサルトルの『聖ジュネ』が下敷きで、要所で同書の引用さえあります。ところが、大澤の「解説」には、一言もサルトルへの言及がないのです。そんな大澤が、2018年には朝日新聞で「往時の影響力を思うと、サルトルの忘却のされ方はすさまじい。私の考えでは、それは、サルトル後の世代の思想がひそかにサルトルを羨み、彼を乗り越えようとしたことの皮肉な結果である。彼らは『サルトルはもう終わった』かのようにふるまったのだ」などと言っているのですが、それはご自分のことを言っているのかな?と逆に驚いたものです。

 さて、では、サルトルも竹内も本当に「昔は読まれたが時代遅れになった哲学者」なのでしょうか?しかし私は、両者はそもそもまともに読まれ受け止められたことがなかったのではないか、と考えています。
 「サルトル」「実存主義」というと、「主体性」を強調する哲学、というイメージを持つ人も多いと思います。「ポストモダン」と言われる思想を評価する人々は、サルトルを近代的な「主体性」の哲学の典型だ、と言って盛んに批判しました。拙論では、桜井哲夫の『知の教科書フーコー』(講談社、2001年)を例に上げましたが、そこで桜井は、サルトル哲学を、フーコーによって批判された「近代的主体信仰」の典型だ、と言っています。
 ところが、竹内は、まったく逆に、サルトル哲学を「近代的自我主義の超克」をめざした哲学だと言っていました。竹内によると、サルトルの哲学は「偶然性」と「出会い」の哲学でした。竹内はサルトルが1934年に書いた「自我の超越」という重要な論文を、原文も入手困難だった1957年にいち早く翻訳しているのですが、後年この論文についてこう書いています。

 〔『自我の超越』は〕近代西洋哲学の根底にある自我主義(事実上の独我論solipsisme)を超克するための最初の、しかもはなはだ独創的な試み(の一つ)だった。
竹内芳郎「『自我の超越』における《近代的自我》超克の試みとその現代的意義」、サルトル『自我の超越・情動論粗描』竹内芳郎訳、人文書院、2000年所収、7頁)

 サルトル哲学のこうした側面、またそこに注目する竹内のサルトル読解は、サルトルの支持者からも批判者からも見落とされてきたのではないでしょうか。

***

 「ポストモダン」から集中砲火を浴びたサルトルですが、竹内芳郎は、のちに「ポストモダン」思想批判も盛んに口にするようになります。竹内は、1980年代以降、日本社会の根底にある「集団同調主義」を「天皇教」と呼んで一貫して激しく批判し続けましたが、「ポストモダン」批判もその一環でした。彼は、日本で「ポストモダン」の名のもとになされていた「近代批判」「主体の哲学批判」が、新しい意匠をまとっているが、結局は「馴れ合い的」な人間関係にすぎない「共生」の肯定に帰着するとして批判しました*3。実は、竹内の「馴れ合い」批判の立場は、デビュー作の『サルトル哲学序説』から一貫していました。80年代以降の竹内がそれと闘おうとした「集団同調主義」「天皇教」は、『サルトル哲学序説』で「日本的現実」と呼ばれているものと同じです。同書で竹内は、サルトル哲学を「愚劣な日本的現実と闘う武器として生きる」と言っています。
 ところで、「集団同調主義」と対立するものを、竹内は「裸の個人」と呼びます。しかし「裸の個人」とは「近代的自我」のことではありません。それは、共同体からはじき出された、「構造からのはみ出しもの」、アウトサイダーなのですが、竹内はこの「裸の個人」について世界宗教成立の場面まで遡ります。竹内は、1981年の『文化の理論』でこう言っています。

 人権思想とは、人間の尊厳はその社会的役割なぞにはなく、かえってそれを脱ぎ棄てた裸のままの個体の存在そのものにあるとするもので、このようなかたちで個体が個体としての自覚に達するためには、個体が裸形のまま直接に超越的普遍者のまえに立ち、それによって普遍的価値を分与されるという、世界宗教のもつ、以前にもましてはるかに広大な社会的想像力(……)の発動が、その不可欠な媒体となったわけである。(竹内芳郎『文化の理論のために』岩波書店、1981年、269頁)

 つまり、社会から排除されたアウトサイダーこそが、世界宗教(竹内は後にこれを「普遍宗教」と言い換えます)を作り上げ、いわば「神の前での平等」という発想を得たときに、普遍的なものとしての人権概念が人類史の中で初めて生まれた、というわけです。竹内は1990年にこのように言っています。

 私が集団同調主義や天皇教を超える道として、「裸のままの個人」の発見やそれを支える超越性原理を語ったのは、なにも近代的意味での「個人主義」の確立なぞに突破口を求めてのことではなく、むしろ普遍宗教の「初心」に一度たち帰ることの慫慂(しょうよう)として語ったのだ(竹内芳郎天皇教的精神風との対決』三元社、1999年、169頁)。

 竹内は「人権」や「普遍性」を擁護し、「ポストモダン」的なものを批判するからといって、「近代的自我主義者」に鞍替えしたわけではありません。彼はむしろ、「ポストモダン」を標榜する人々の「相対主義」によっては、近代は乗り越えられないと考えます。近代を越えるためには「普遍をして真に普遍の名に価するまでに普遍化する途を追求すべき」なのであり、「近代が一般化したその普遍的原理を、近代とか西欧とかの制約を完全にのり超えるまでに普遍化する以外に途はな」い、と竹内は言います(竹内芳郎『ポスト=モダンと天皇教の現在』筑摩書房、1989年、139頁)。

***

 竹内は、1989年に「討論塾」という場を創設します。これは今流行りの哲学カフェのはしりのようなものに見えますがしかし中身はまったく違います*4。彼はアカデミズムそのものから距離をとり、討論塾での市民との対話を主な活動の場としていきます。竹内は、ある時期から、サルトルに対してはむしろ批判的になり、サルトル論もほとんど書かなくなっていたのですが、討論塾の対話記録を読むと、晩年の彼は重要なところでサルトルに言及しています。竹内は「人権」をめぐる議論の中で重要な部分でサルトル倫理学思想に言及しています。また2000年代には、「ポストモダン」の立場だと自称する討論塾の参加者と激しく論争する中で、彼は「ポストモダン」の主張は、ポストモダンによって「近代主義の典型」として弾劾されたサルトルがとっくに言っていたのだ、と指摘しています。たとえば、サルトルは、ポストモダン思想家に先立って「近代の自我主義、自我の論理一貫性=自己同一性の追求」をいち早く批判していたということ、また、サルトル哲学の実存的倫理の核心は、「他者のまなざしの敢然たる受容」をつうじた「自己脱出」「自己変革」だったということ、さらには、主体もその思想も常に「状況」においてあることはポストモダンに先立ってサルトルが強調したということ(だからこそ彼の評論集は『シチュアシオン』と題されていました)などです。つまり竹内は、「モダン」の立場から「ポストモダン」に反論したのではなく、むしろ近代の超克を志向するからこそ、ブームとなった「ポストモダン」思想の不徹底・欺瞞性を批判したのです。その意味で、竹内思想の根底には、「近代的自我主義の超克」を志向する、いわば「ポストモダン哲学としてのサルトル哲学」が最後まであり続けた、といえるのです。

***

 竹内の文章には独特の「柔軟さ」があるとも言えます。澤田直が言うように、彼の最初の著作は、『サルトル哲学入門』と銘打っておきながら、63頁になるまで本文に「サルトル」が出てこない、とか、「即自存在」「対自存在」はサルトル哲学の概念なのに、まるで竹内が考えたかのように「「即自存在」と名づけておこう」とか「「対自存在」と名づけよう」と平気で書いてしまうところとか。これは澤田が言うように「現在のアカデミック・ルール」からは考えられないことですが、竹内はそういうところはあまり気にしなかったのかもしれません。この本では、サルトルの思想が「竹内という身体に取り込まれ、竹内の声を通して語られる。竹内とサルトルはほとんど一体化している」(『竹内芳郎 その思想と時代』72頁)とも言えますが、悪く言えば、「いい加減」ともとられかねません。 

 拙論で冒頭に取り上げましたが、谷口佳津宏は、サルトル哲学書として「厳しく」(ストイックに)読むべきだ、という主張で、竹内を、その対局にある読み方として批判しています。谷口によると、竹内をはじめとする従来のサルトル読解は、サルトルを「日本的現実と闘うための武器として使う」などという「下心」があるから、サルトル哲学書を(哲学と関係ない?)社会運動などにおける主張のために都合よい読み方をして使ってきた、と批判しているのだと思います(『竹内芳郎 その思想と時代』95−6頁)。
 しかし、竹内思想には、まったく別の意味での「厳しさ」を追求する面があります。竹内は、吉本隆明の『「反核」異論』(深夜叢書社、1983年)を明らかに念頭において、こう言っています。

 思想的にも倫理的にもなんらの普遍性要求のないところでは、あまつさえこの要求をファシスト的だとしてはじめから拒否するところでは、特殊・多様性の尊重とか相対主義とか思想的寛容とかの美徳も、現に見られるとおりそのまま思想上のだらしなさと同義となり、このだらしなさはいつでも容易に、権力の押しつけてくる「問答無用」のファシスト思想統制への屈従へと転化するほかはないからである(『具体的経験の哲学』岩波書店、1986年、113頁、強調引用者)。

 「思想上のだらしなさ」を許さない「厳しさ」のようなもの、それが竹内の思想、あるいは文章にはあります。小林成彬は、本論文集収録の「日本で哲学をすること──竹内芳郎の〈闘い〉」の中で、「竹内の文体が持っている独特の明快さにも一抹の不安を抱く」とし、こう言っています。

 サルトルに、「時代の証人」や「殉教者」といった側面があることもたしかだが、デリダサルトルを論じた美しい文章「「彼は走っていた、死んでもなお」やあ、やあ」(«Il courait mort» : salut, salut)が的確に提示しているように、「救済」(salut)が同時に「やあ」(salut)というフランクな挨拶にもなるような硬軟を併せ持つ(或いはふざけた)ようなところもサルトルはもっているのであり、それは私にとってサルトルの大きな魅力である。竹内はサルトルの「柔構造」を捉えそこねてはいまいかという不満を持つ。(『竹内芳郎 その思想と時代』150頁)

 この「柔構造」という言葉から思い出したのですが、最初の方で引用した内田樹は、2002年のブログで、彼が、高橋哲哉によって、加藤典洋とともに「ネオ・ソフト・ナショナリスト」と呼ばれ、批判されたことについて言及しています(http://blog.tatsuru.com/2002/03/14_0000.html*5)。内田は、高橋哲哉の論理を「正しい」と思っている、としつつも、「「正しい」けどその語り口がダメ」*6と言います。内田によると、加藤典洋は「「多様性」を容認する人だということが直観的に分かる」から支持できるが、高橋哲哉は「「正しさの均質性」というものを恐れていないような気がする」から距離を感じるのだということです。そして彼は、高橋による「ネオ・ソフト・ナショナリスト」という呼称の中に「ソフト」という形容詞が入っていることが、うれしい、と言って、こう書いています。

私は高橋哲哉が言うとおり、わりと「ソフト」な人間である。
でも「ソフト」であり続けることに身体を張る、という点については、けっこう「ハード」なのである。
ハードじゃないと生きていけないし、ソフトじゃないと生きてる甲斐がない。
マーロウさんもそう言ってるじゃないですか。

 しかし、内田の「正しさの均質性への恐れ」とか「多様性を容認するソフト」とは、それこそ竹内が批判した、「普遍性要求を要求をファシスト的と拒否する」吉本的「思想上のだらしなさ」そのものではないか、と思います。拙論で最後の方に書いたのですが、2000年代に討論塾では「ポストモダン」をめぐる激しい論争が行われています。その中で、「ポストモダン」の立場に立つある討論参加者が、自我の論理一貫性=自己同一性を追求することは、かえって自己抑圧的であること、「場」や「状況」を重視したことが「ポストモダン」の思想的意義であると主張しています。この参加者は、左翼の集会では「君が代・日の丸」反対の決議に賛成しながら、卒業式で着席を貫けなかったり、職員会議で反対が言えなかった教員の例をあげ、論理的一貫性や自己同一性を保とうとすることはかえって自己抑圧的になる、というのです(『竹内芳郎 その思想と時代』105−6頁)。この人は、やはり竹内的「厳しさ」を抑圧的と感じていたのではないでしょうか。そして、生活者の一貫性のなさ(だらしなさ)を、いわば「柔構造」として評価し、それが「ポストモダン」の思想的意義だと考えているようです。これに対して竹内はどのように応答しているのでしょうか。このポストモダンの人が上げていた、信念を貫けなかった教員の例について、竹内は教師が教育の場で自己の良心や信念を貫けないようにしている社会の抑圧性を放任しながら「主体性」のもたらす抑圧性のみを問題にすることの滑稽さを指摘すると同時に、自分であれば、左翼集会では、「単に反対決議に同調する代りにそれが孕む数々の問題点(……)を公然と呈示するように努め」逆に職員会議では、「反対する教師の良心の自由を尊重することが教育活動にとって如何に不可欠かを訴える」だろう、と反論しています。つまり、よく読むと、実は、信念を貫く竹内的教員こそが、状況に応じた対応を行う柔軟さを持っているのです。竹内は、「常に場の中から倫理を発想すること」と「常に場に働く力に屈服すること」とは全く別のことであり、「状況の中の思想」と「状況追随主義の思想」とを取り違えるべきではない、と言います。
 サルトル思想は、確かに、「状況の中の思想」という「柔構造」を持っており、この側面は非常に重要なサルトル思想の核心です。ただ、それは、単なる「思想上のだらしなさ」、「状況追随主義」とは違う、ということは踏まえておかねばならないと思います。

***

 ところで、青土社の雑誌『現代思想』2021年11月号「特集=ルッキズムを考える」では、既述した見田宗介「まなざしの地獄」についても書かれた高島鈴の素晴らしい論考「都市の骨を拾え」(その後『布団の中から蜂起せよ』に収録されています)も含めて、「まなざし」という言葉が複数の論文・編集後記に計31回登場します。しかし、「サルトル」という言葉は一箇所も登場しません(サルトルと関係の深いメルロ=ポンティ、ファノンは登場します)。「まなざし」という言葉はサルトルの『存在と無』を起源とするもともとは「サルトル哲学用語」であるにもかかわらず、です。岩波でも平凡社でもいいので哲学辞典で「まなざし」の項目をひいてみてください。どちらにも「まなざし」はサルトル哲学に由来する言葉だと明記されています。「まなざし」という言葉は思想系の文章でいまもよく使われますが、これがサルトル哲学に由来する言葉だとそもそも知らない人も多いのではないでしょうか。これは、サルトル忘却現象の現れであるとも言えるでしょうか?たしかにそうとも言えます。サルトルはあまり「読まれ」なくなっているのかもしれません。しかし、これらの、ルッキズムを考える文章たち、すなわち、竹内の言う「日本的現実と闘う」文章たちの中に、サルトルは「生きられている」のではないか、とも思うのです。
 サルトルが「生きられている」と感じたもう一つの例は、新宿梁山泊による、サヘル・ローズさん主演の『恭しき娼婦』の上演です。これは、サルトルが1946年に発表した、アメリカの黒人差別を告発する戯曲です*7が、ここでは、舞台が近未来の日本に改変されています。安田菜津紀は、この公演の観劇記の中で以下のように書いています。(kangaeruhito.jp/article/5713)

 舞台設定は近未来の日本。サヘルさんはとある街にやってきたばかりの「娼婦」だった。そして男性たちの欲望と時代に翻弄されていく。(……)
 「日本人」とは誰か?を改めて考える。日本国籍を持つ人? いや、日本国籍でも日本で殆ど過ごしたことがない、もしくは日本語を話さない人もいる。日本語話者? いや、外国籍でも流暢に話す人もいる。日本在住の人? いや、暮らしていてもルーツやアイデンティティは多様だ。では“日本文化”を愛する人……?
結局定義などできない空虚なもののために、人を無為に傷つけていく愚かさをまざまざと突きつけられたように思う。
 サヘルさん自身、この舞台を演じることはどんなに苦しいことだっただろう。本来は多くの人々が問題提起しなければならないことを、彼女ひとりの肩に背負わせてしまったような気がした。だからこそ舞台を観せてもらった一人として、託された宿題をみなと分かち合わなければ。そんな思いでこの文章を綴った。観劇から2カ月近くが経ち、ようやく少し、言葉にできた。それほど壮大な問いかけの詰まった舞台だった。

 サルトルは、どこかの「研究室」の中にだけではなく、こうした舞台や、様々なパンフレットやプラカード、演説*8、会話の中に生きている、そして生き続けているのです。最後に竹内のことがどこかに行ってしまいましたが……もちろん竹内思想も、です。

*1:この話を私はこれまで何度もしているので、知っている人には、またその話か、と思われているかもしれませんが……。

*2:内田のこの発言もこのブログで何度も取り上げているので、またか、と思われるかもしれません……。

*3:本論集に収録されている「回想の中の竹内芳郎」によると、海老坂武は、1989年、あるシンポジウムで、竹内の『ポストモダン天皇教の現在』に収録されている「ポスト=モダンにおける知の陥奔」という論文に対するいくつかの疑義を提示したそうです。
「「ポスト=モダン」なる潮流が「近代の超克」として安易に流行していることに対する竹内の批判はそのとおりだが、誰の何を対象にしているのか明確でないとか、そもそもフーコーデリダドゥルーズのうちにポスト=モダンなる思想を読み込むこと自体が間違いであることを指摘すべきではないかとかだ(『竹内芳郎 その思想と時代』60頁)。」
 しかし、1989年当時、サルトルを「近代主体主義」と腐す風潮が、誰の何と言えない空気のようなものとして日本の思想界に存在し、間違いであるかどうかと別に、その際「フーコーデリダドゥルーズ」が盛んに参照されていたのは確かです。

*4:竹内に言わせれば、今の哲学カフェの多くは「超越性原理」を欠いた馴れ合い的なものにすぎないということになるのではないでしょうか。ただもちろん現実の討論塾は必ずしも理想的な形で進んでいったわけではなく、それは本論集収録の福地俊夫による「討論塾の理念と実践」からわかります。

*5:当ブログではこの件について2009年に言及しています。https://sarutora.hatenablog.com/entry/20091004/p1

*6:今読むとこれはまさしく「トーンポリシング」そのものですね。

*7:唐十郎状況劇場の旗揚げ公演の演目でもあったということです。

*8:福島瑞穂は、2022年5月の街頭演説で、「サルトルは言いました。"金持ちが戦争をはじめて 貧乏人が死ぬ"」と言っています。https://x.com/granamoryoko18/status/1522453377887604736?s=20これは、“Quand les riches se font la guerre, ce sont les pauvres qui meurent.”
サルトルの戯曲『悪魔と神』(1951年)の、農民叛乱の指導者ナスチのセリフです(生島遼一訳邦訳11頁)

ヘイトスピーチは意見ではない(サルトル)

杉田水脈氏が旧ツイッターにこういう投稿をしたそうです。

世間には特権が「ある」という人と「無い」という人、両方が存在します。であるならば、両方の意見を開陳する機会は均等に確保されるべきです。
「特権がある」という意見を「ヘイトの扇動」と決め付け、黙らせようとする報道機関があることに大変驚いています。

https://x.com/miosugita/status/1723303873992093968?s=20

サルトルは『ユダヤ人』(岩波新書、p.4(一部訳語改変))でこう書いています。

意見を持つということも、政府のワイン醸造政策についてでもあったら、まだ承認出来ないこともない。(……)これに反して、明示的に特定の個人を対象とし、その権利を剥奪したり、その生存を脅かしたりしかねない一主義を、意見などと呼ぶことは、わたしには出来ない。

 今これ貼らなくていつ貼る、という感じですね…。

サルトルユダヤ人』


www.tokyo-np.co.jp

 

 

ペルー手話は「スペイン語の手話」ではない!

news.tv-asahi.co.jp

 ペルー訪問中の天皇の姪が、ろう学校で子どもたちと手話で交流した、というこのニュース、見出しに「スペイン語手話」、本文に「ペルーの公用語であるスペイン語の手話」とある。この件について伝えるネットニュースをいくつか調べたが、多くの報道機関が、彼女が「スペイン語の手話」で交流した、と書いている*1

 これはめちゃくちゃである。なぜなら、ペルーの手話は「ペルー手話」であり、スペイン語ともスペイン手話とも別の言語だから。
 ペルー手話についてはスペイン語wikipedia

Lengua de señas peruana - Wikipedia, la enciclopedia libre

にかなり詳しく記述されている。

ペルー手話(Lengua de Señas Peruana、頭字語: LSP)は、ペルーのろう者コミュニティによって作られ使用されているペルー固有の言語である。他の言語と同様、独自の語彙と文法を持ち、ペルーの音声言語とも世界の他の手話言語とも異なる。LSPは、スペイン手話やアメリカ手話など、他国で使用されている手話語彙の影響を受けている。(DeepL翻訳一部改変)

 wikipediaスペイン語版「ペルーの言語」Lenguas del Perú - Wikipedia, la enciclopedia libreによると、ペルーでは、人口の94.4%がスペイン語母語としているが、その他、ケチュア語(全体の5.6%)、アイマラ語(1.1%)が話されている。その他の少数言語として、ペルー手話もちゃんと記述されている。言うまでもなく、ペルーにスペイン語が入ってきたのは、16世紀のスペインによる侵略以降であるが、それ以前からペルーでは手話が話されていたことが推測できる。wikipediaスペイン語版「ペルー手話」には以下のように記述されている。

他のろう者のコミュニティと同様、ペルーのろう者も有史以来、独自の手話を生み出してきた。しかし、他の手話言語と同様、その歴史に関する資料的証言は多くない。というのも、これらの言語は周辺言語であっただけでなく、言語として認識すらされていなかったからである(1960年にウィリアム・C・ストーキー(William C. Stokoe)の研究が発表されて初めて手話が言語として認識された):(DeepL翻訳一部改変)

 同wikipediaでは、紀元前4世紀に書かれたプラトンの対話篇「クラテュロス」の中の以下のようなソクラテスの発言が引用されている。

仮にもしわれわれが声も舌ももっていないで、お互いどうしに対して事物を示そうと欲するとするならば、どうだろう、そのばあいわれわれは、現実にろう者たちがやっているように、手や頭やその他の身体の部分を使って表現しようと試みるのではないだろうか。
プラトン「クラテュロス」422E、水地宗明訳(一部改変)『プラトン全集2』岩波書店、1974年、120ページ。)

 したがって、上記wikipediaに書かれているように、この箇所は「ろう者が共同体を形成することを許されたすべての社会が手話を生み出したという証拠」の一つといえるわけだ。また、スペイン人による征服以前のペルーにおいてろう者の共同体が存在していたことを示す記述が、フェリペ・ワマン・ポマ・デ・アヤラの証言の中に見られるのだという(ワマン・ポマはインカ帝国出身の先住民だが、スペインによる植民地支配の実態を告発するスペイン国王への手紙を書き、この手紙には、スペイン人来訪以前のインカ帝国の社会が豊富な挿絵とともに克明に記述されていた)*2。上記wikipediaスペイン語版「ペルー手話」はこう結論している。

したがって、これらの地域にカスティーリャ語(=スペイン語)が到来する以前に手話が存在しなかったと考える理由はない。

 スペイン語到来以前のペルー手話と現在のペルー手話がどのぐらい異なっているのかはわからないが、いずれにせよ、ペルー手話はペルーのろう者たちが作り上げたもので、ペルーの聴者のマジョリティが話す音声言語のスペイン語とは別の言語だ。それは、「日本手話」が、日本のろう者たちが作り上げた、「日本語」とは別の言語であるのと同じことである。この記事の中には「日本語の手話」という言葉も使われているが、その意味で、これもまったく不適切な、あるいは意味不明な言葉だ。
 ペルーでは、2010年に制定された法29535(ペルー手話を公的に認定する法 LEY QUE OTORGA RECONOCIMIENTO OFICIAL A LA LENGUA DE SEÑAS PERUANA)によって、ペルー手話を「言語として」公的に認めている。つまりペルー手話はペルーの「公用語」であると言ってもいいだろう。この法では、国が、ペルー手話の研究・教育・普及を促進する、としている。また、 公共サービスを提供する公共・民間の団体および機関に対して聴覚障害者用の通訳サービスを無料で段階的に提供する義務を定めている。さらに、国は通訳者の養成を促進するとしている。*3。日本の場合、このペルーの法律に類した条例はあるが、法律はまだない。そういう意味では、ペルーは日本より進んでる*4。しかし、テレビ朝日の記事で「ペルーの公用語であるスペイン語の手話」と書かれているのは、明らかにそのことではない。「ペルーの公用語はスペイン語……なら、ペルーの手話はスペイン語の手話だろう」程度の、手話についてまったく何も知らず、おそらく手話に関心を持ったこともない記者が、調べもせず、各社で手話についての記事を書いているということなのだ……。
 特にひどいのが、TBSのニュースのこの記述。

教諭によりますと、子どもたちは「なぜそんなにスペイン語の手話が上手いの?」と驚いていたということです*5

 これは「佳子さま」が、間違えてスペイン手話(LSE)をおぼえていってしまったので、ペルーのろう児たちが「スペイン手話は上手だけど、なぜペルーに来たのにスペイン手話で話しているの?」と言った……ということではもちろんない*6。というのも、おそらく同じ子どもの発言が、日テレのこちらの報道では

学校側によりますと、子どもたちからは「どうしてこんなに早くペルーの手話ができるの?」と、賞賛の声が上がったということです。*7

 となっているからである。つまり、TBSの記者は、ペルーの学校関係者のコメントの中の「ペルー手話」という言葉を、「ペルーの公用語はスペイン語だから」ということで、まったく的はずれな親切心から「スペイン語の手話」と「意訳」したのだろう。TBSといえば、『手話を生きる : 少数言語が多数派日本語と出会うところで』(みすず書房 2016年)という著書があり、明晴学園の校長までつとめた斉藤道雄氏がかつて報道局編集主幹だったというのに、嘆かわしいことである。

www.msz.co.jp

*1:NHKは「現地の手話」と表現している(NHK 7日11時
日本テレビと読売新聞は、「ペルーの手話」「ペルーで使われる手話」という表現の報道もある。
ペルーの手話(読売新聞 7日12時
ペルーで使われる手話(日テレ 7日20時

しかしいまさらではあるが、そもそもの話、パレスチナでの虐殺に世界が注目している今、各社がここまでこの話題を熱心に報道するということにグロテスクさすら感じる。

*2:上記wikipediaにリンクが貼られているこちらのサイトhttps://cultura-sorda.org/peru-atlas-sordo/によると、その内容はこのようなものらしい。

「ワマン・ポマ・デ・アヤラは、その著書『新しい記録と良き統治』(1615年)の中で、インカ帝国時代の聾唖者の生活について何度か言及している。この年代記記者によると、すべての障害者は、働くか奉仕することができる限り、尊厳をもって生活できるように仕事と財産を与えられた。障害を理由に施しを受けることはなかった。また、すべての人が婚姻を認められ、子孫を残すことが許された。各自が自分の同等の者と結婚させることで、子孫を増やし、あらゆることに奉仕することができ、畑、家、農場を持ち、自分たちの農奴制からの援助があり、病院や施しを受ける必要はなかった(Poma de Ayala, 1615, folio 201.)(DeepL翻訳一部改変)」

*3:https://docs.peru.justia.com/federales/leyes/29535-may-20-2010.pdf

*4:こちらのサイト(手話言語法と手話言語条例について | 【みみとこころのポータルサイト】一般社団法人 4Hearts(フォーハーツ))のリストには入っていないが、この法29535があることによって、ペルーは「手話を認知し、手話について規定した法律を制定」している国の一つだと言えるだろう。

*5:佳子さまペルー・首都リマの特別支援学校を訪問 子どもたちとスペイン語の手話で交流 子どもたち「なぜそんなにスペイン語の手話が上手いの?」 | TBS NEWS DIG (1ページ)

*6:その場合でも「スペイン語の手話」という表現はおかしいが。

*7:佳子さま 「ペルーの手話」完璧に習得 聴覚障害の子どもたちと交流|日テレNEWS NNN

「韓国人の発音はすべて半濁音」という珍説

 facebookで流れてきたので、つい読んでしまったのだが、あまりに酷いので呆れてしまった。
www.sankei.com

夕刊フジに掲載されたようだ。
 さて、この部分。

誰も語らぬことがある。韓国人は清音と濁音の区別が苦手なこと。端的に言えば、韓国人の日常の発音は、すべてが「半濁音」であることだ。
それは「悪いこと」「劣っていること」ではない。発音が原則「半濁音」である言語文化圏で生まれ育てば、耳はそれに順化し、発音もそれに従う。

 そもそも「清音」や「濁音」とは、日本語の音韻に関する用語である。だからこの言葉を日本語以外の言語(朝鮮語)に当てはめる事自体がおかしい。ただ、「清音」「濁音」は、それぞれ音声学で言う「無声音」「有声音」と重なる部分があるため、百歩譲って、室谷氏が有声音や無声音のことを言っていると考えるならば、たしかに、朝鮮語は有声音(濁音)と無声音(清音)を音(音素)として区別しない。正確に言えば、朝鮮語の音韻体系では、有声性は音素を区別するための弁別的特徴となっていない、だ。しかし、そんなことであればwikipediaにだって書いてある。「誰も語らぬこと」でもなんでもない。だいいち、もともと朝鮮語には区別がないものを朝鮮語が区別しないことは、その必要がないということであって、つまり「苦手」もくそもない。
 最も意味不明なのは「韓国人の日常の発音はすべてが半濁音」「発音が原則半濁音」というところだ。「半濁音」は、日本語の「パ行」の音のことを表す言葉であり、これはもう他の言語に当てはめることがどう考えてもできない言葉だ。「韓国人の日常の発音はすべてが日本語のパ行の音だ」だとしたら、んなわけあるか、という話でしかない。「アメリカ人はひらがなとカタカナの区別が苦手なのですべてが漢字である」と同じレベルの意味不明な文である。なるほどそうか。確かにこんな馬鹿なことは室谷氏以外「誰も語らない」だろう。
 室谷氏が、言語について、これまでわずかでも関心を寄せたことがあるとはとても思えないレベルでおよそ初歩的な知識も持たないことは明らかである。にもかかわらず、彼は「韓国人の発音はすべて半濁音」などという珍説を「誰も語らない事実」のごとく得意気に開陳し、よその国の言語について偉そうに語っている。なぜ彼はそんなことをしようとするのか。その答えはこのコラムに書いてある。

しかし、「半濁音」である事実*1を客観的に捉えられないと、「わがハングルは、世界中のあらゆる言語の発音を表記できる」という夜郎自大に陥ってしまう。

 しかし、韓国人の大多数は「ハングルはあらゆる発音を表記できる」と信じている。
 であればこそ、「いまだに固有の文字を持たない哀れな民族に、優れたハングルを教えて、その民族の文字として採用させよう」という主張が〝正論〟のごとく登場する。
 その典型が、韓国で発行部数2位の「中央日報」(2023年10月5日)に載った「韓国だけで使うにはもったいない 〝ハングル分け合い〟を深く考える時期」と題するコラムだ。その筆者が「国立世界文字博物館館長」とは、もうあきれるほかない。

 室谷氏が言及している「中央日報」のコラムとは、これだろう。

s.japanese.joins.com

 つまり、韓国に関する何か(この場合はハングル)が「優れている」という主張を見つけたら、その問題に関する知識をまるでもっていなかったとしても、根拠がデタラメでも、とにかくその主張を否定する。それが重要なのである。そしてそうした文章に需要がある。韓国を否定し、けなす内容であれば、「韓国人の発音はすべて半濁音」のようなデタラメが含まれていようが、何らかの有識者が書いたコラムであるかのような体で、全国どこの駅にも売っている「夕刊フジ」という夕刊紙に掲載されてしまう*2。それこそ「もうあきれるほかない」だ。
 もちろん、「中央日報」のコラムの

ハングルが持つ文字的特性を十分に活用するなら、無文字言語(字で書かない言語)や難文字言語(字が難しくて書いて読み取ることが難しい言語)を簡単に書き取ることができる。

 などの主張には、ハングルには有声音と無声音の区別がないのは事実であるから、反論の余地がある。しかし、室谷氏にとって、問題は、まともな「反論」や「批判」ではないのだ。

 さて、どうも室谷氏は「半濁音」を、「半分濁音(有声音)で半分清音(無声音)」という意味だと思っているようだが、全く違う。日本語でもともと「ハ行」の音は[p]音で発音されていたのだが、次第に[φ]や[h]で発音されるようになった。それでも[p]の発音自体は残っていたが、その時は[p]と[φ]や[h]は区別されず、同じハ行の音、つまり「清音」として認識されていたのである。しかし後に外来語が入ってきたりして、[p]の音を「別の音」として区別するようになった。それに伴い「ハ行」でも「バ行」でもない「パ行」を区別して表記する必要が出てきた。濁音の記号は従来「・・」ないし「。。」で表記されていたが、「パ行」を表すために「・」や「。」が用いられるようになった。それが半濁音の「半」のもともとの意味だ。音声学的には「半濁音=パ行の音」は「ハ行の音」と同じ「無声音」である。
 一万歩ほど譲って、かりに、半濁音が「有声音でも無声音でもない音」の意味だったとしても、室谷氏の文はおかしい。有声音と無声音を区別しない、ということは、朝鮮語に有声音や無声音が無い、ということではないからだ。朝鮮語の/ㅂ/は、[p](無声音)ないし[b](有声音)のどちらかの音で発音されているので、どちらでもない音で発音されているわけではない。ただ、それらの音は別の音として認識されていないというだけだ。
 室谷氏のコラム、他の部分もつっこみどころが満載なのだが、たとえばここ。

英語のF・V音やTH音を正確に書き表せないことは、ハングルも日本の平仮名・片仮名も同じだ。ハングルは「つ」「ざ」「ず」「ぞ」音も表記できない。

 ハングルのほうが「(外国語を?)正確に書き表せない」音が多いぞ、といいたいのだろうが、そんなことを言うなら、ハングルが表せる母音は10種類だが、日本のひらがな・カタカナが表せる母音はアイウエオ、半分の5種類しかない。また、日本のひらがな・カタカナは、朝鮮語の平音・激音・濃音の違いも表せない。「달(月)」「탈(仮面)」「딸(娘)」が全部「タル」になってしまう。
 ところで、先に述べたように、ハングルに有声音と無声音の区別がないのは、朝鮮語では有声音と無声音を(音素として)区別しないからである。ところが、日本語には有声音と無声音の区別があるにもかかわらず、日本の文字はしばしばそれらを区別しないのだ。つい最近まで、「天皇神聖にして侵すべからず」を「侵スヘカラス」などと書いていたではないか。「ヘカラス」を「hekarasu」と発音したら間違いとされるにも関わらず。平安時代に成立した当初、仮名は濁音と清音の区別がなかった。万葉仮名では区別されていたので発音の区別はあったはずなのに、文字では区別がなかったので、文脈で読むしかなかった。濁点や半濁点などは、このような「区別があるのに表記できない」という不便を解消するため、後から使われるようになった補助的記号にすぎない。つまり、日本の文字は、長らく、外国語どころか、自分の国の言葉でさえ「正確に書き表せない」状態が続いてきたのだ。さらに、日本語は、アクセントによって意味が変わる言語である。「↑は↓し(箸)」と「↓は↑し(橋)」(関東の場合)は違う語だが、平仮名やカタカナはその区別を今でも「正確に書き表せない」という「欠陥」がある。はて、朝鮮語にない区別を区別しないハングルと、日本語にある区別を区別することすら「苦手」な日本の文字。文字の優劣を比べて語る事自体が愚かなことではあるが、もしそういう比較をするというなら、「劣っている」のはどちらだろうか?
 しかし、なぜ平安時代の平仮名は有声音と無声音を区別しなかったのだろうか。たとえば日本語には連濁という現象がある。「日傘」のように、2つの語が連続した場合、後の語の「かさ」の「かka」が「がga」と有声音(濁音)に変化するのである。つまり、日本人は、実際は無声音(清音)で発音する「kasa」と有声音(濁音)で発音する「gasa」を、同じ語(形態素)として認識するのである。このことからもわかるように、日本人は、濁音(有声音)と清音(無声音)を音(音素)として区別しながらも、場合によっては交換して用いる*3。つまり日本人は、濁音(有声音)と清音(無声音)を区別しながらも「ある程度似たもの」として捉えていた、とも言えるのではないだろうか*4
 ところで、かつての日本語では語頭に有声音(濁音)がくる語はなかった。後に入ってきた漢語を別とすれば、例えば「だく(抱く)」という語も、もともとは「いだく」だったのが、語頭の母音が脱落したものだ。で、朝鮮語では、語頭の子音は無声音で発音するが、2つ目の文字の子音は有声音になるという、連濁に似た法則がある。例えば「부부(夫婦)」は「プブ」と発音する。そういう意味では、日本語と朝鮮語は、結構似ているともいえるのだ。

*1:いやそんな「事実」ねーし…

*2:web版のみ掲載ではなければ。

*3:屋名池誠氏は、平仮名が有声音と無声音を区別しなかった理由を「連濁」と関連付けて以下のように考察している。
https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00072643-01010001-0022.pdf?file_id=105214
たしかに清濁を同じ文字で表すと、濁音で別の意味になる場合(語彙的濁音)には不便だった。しかし一方、有声音と無声音に別の文字を当ててしまうと、連濁しているだけの語が別の語に見えてしまう。ただ、連濁が非常に頻繁に起こるのに対して、濁音で別の意味になる場合は相対的にかなり少なかった。そこで、平仮名では、前者の不便を犠牲にして、濁音を同じ文字で表す方針をとったのではないか、と屋名池氏は推測している。

*4:有声音と無声音を区別しながら文字表記で区別しないのは、古代ローマでもそうだったようで、/k/と/g/を区別しながら同じ「C」という文字で表していた。「G」という文字はそれを区別するために「C」を元に後から作られたのだ。