「サルトルと革命的サンディカリスムの思想」

『人文学報』(504),2015年3月,首都大学東京人文科学研究科,pp65-88.

一 ペルーティエと革命的サンディカリスム

(省略)

二 サルトルと革命的サンディカリスム

一 「共産主義者と平和」と革命的サンディカリスムの思想
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○○に政治を持ち込むな

 最近、「音楽に政治を持ち込むな」論争というものがあったそうだが、サルトルは、1952年の「共産主義者と平和」という論文で「労働運動に政治を持ち込むな」という主張を批判している。それについて去年「革命的サンディカリスムとサルトルの思想」という論文を書いた。
 この論文の前半部分は、革命的サンディカリスムの思想についてかつて書いたものを一部書き直したものだが、後半部分は、サルトルが「共産主義者と平和」の中で革命的サンディカリスムに言及している部分について論じた。というわけで、その部分を再録することにする。注にも書いたが、この論文は、『労働と思想』(堀之内出版、2015年)所収の拙論「サルトル──ストライキは無理くない!──」の補論なのである。『労働と思想』もよろしく。

f:id:sarutora:20160823002538p:image

 さて、この論文で論じたように、サルトルは、「共産主義者と平和」において、「政治」と「経済」を相容れないものだとする考え方自体を批判する。そして、労働者の行動は、政治的と標榜しようと非政治的と標榜しようと、【政治的でしかありえない】と結論づけるのである。

サルトルによると、労働運動を「経済」に限定すべき、と主張することは、「雇用者たちに最高の贈り物をすること」つまり、ブルジョワジーを利するだけである。そもそも、「政治」と「経済」の二つの領域の分離は、ブルジョワジーが自らに都合のよいものとして作りだしたものでしかない。ブルジョワ経済学者は、労働者の賃金を決定する「賃金鉄則」を提唱したが、それは搾取者たちを免罪するものであった。(……)つまり、「経済」と「政治」の分割を認めることは、労働者にとって罠に陥ることであり、自らの手足をしばることになるのだ。しかしサルトルは、「労働者は経済の領域で自己の利益 intérêt を守ることに甘んずればよい」という主張に対して、「労働者の利益とは、もはや労働者ではなくなるということであるように思われる」と言う。つまり、労働者が搾取される階級社会の廃絶こそが労働者の「利益」だ、ということである。そもそも、サルトルも言うように、資本主義社会の労働法自体が、「経済」と「政治」との区別を前提として成り立っている。そこでは、賃上げ要求などの「経済的スト」は「良いスト」とされ(それを逸脱するスト(つまり政治的なスト)は「悪いスト」とされている。(……)しかし、ストライキの権利を職業上の権利要求に制限するという【ブルジョワジー】の決定は、自らの利益をみすえた、【すでに政治的なもの】である。また逆に言えば、労働者がブルジョワジーによる政治的決定を容認し、自らその行動を「基本的な権利要求」に限定したなら、それ自体もまた一つの政治的態度を取ったことになる。つまり、サルトルによると、労働者の行動は、政治的と標榜しようと非政治的と標榜しようと、【政治的でしかありえない】のである。その意味で、サルトルは「客観的には労働組合運動(サンディカリスム)は政治的である」と言う。

http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20160822/p2

WAR IS OVER

久しぶりにはてなにログインしてダイアリーの下書き一覧を見ていたら、2010年に下書きを書きかけて結局公開しないままになってしまっていた記事があったので、一部を公開します。

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20年ほど前のことです。「西側」メディアは、冷戦の終結を寿ぎ、うかれさわぎました。「「敵」はやぶれた!つまりわれわれの正しさが証明されたのだ!世界に平和がおとずれた!」というわけです。しかし、本当に世界に平和がおとずれたのだとすれば、すなおに考えればそれはすなわち、戦争も、軍隊も、なん回も世界を滅亡させることができる核兵器も、そんなものはぜーんぶ必要なくなった、という意味でしかありえないはずです。というわけで、ベルリンの壁をこわすお祭り騒ぎは、ただちに、全世界の基地の壁をこわし、兵器を廃棄し、兵士が軍服を脱ぎすてるお祭り騒ぎに移行したはずですよね? そう、ちょうどこんなシーンのように。

↑なにやってるんだよお!                  ↑よこしなさいよお!*1
え? そうなってない? どういうことですか?


「戦争をやめろ」「ひとごろしをやめろ」という「あたりまえの」(あえてこの表現を使いますが)「庶民感覚」があります。ところが、御用学者やテレビコメンテーターは、「戦争をなくせとか基地をなくせなんていう考え方は、素朴すぎるナイーブな考え方なのだ」としてバカにし、まるでそんな感覚を持っていること自体が恥ずかしいことであるかのような印象操作をします。一方では、反戦を訴えるひとびとをゆびさして、「あれは現実をしらずに理想論をとなえているインテリなのだ、あなたたち健全な庶民とは違う存在で、あなたたちをバカにしているのだ、だまされてはいけない」などと言うわけです。


鳩山は「学ぶにつけ、駐留米軍全体の中で海兵隊は抑止力として維持されるという考えに至った」と発言しました。「抑止力のために沖縄に基地が必要」という理屈があちこちでもっともらしいものとしてふりまかれていますが、事実はまったく正反対といっていいでしょう。つまり、「沖縄に基地をおくために抑止力という方便が必要」とされているわけです。基地を沖縄に押し付けつづけるために、「抑止力」などというもっともらしい「必要性」がでっちあげられているわけです。

*1:未来少年コナン』第19話より。軍事都市インダストリアの部隊がハイハーバーという島を占領していたのだが、コナンらのゲリラ活動と大津波のせいで、部隊は戦意喪失、占領は不可能になった。

「ニッポンは素晴らしい」

 また、サルトルか、と思う方もいるだろう。が、また、サルトルである。あしからず。とはいえ、サルトルのこの辺のものを掘り起こすのもおそらくここぐらいだろうとも思う(それはそれである意味絶望的なことでもあるのだが)ので、まあいいだろう。
 今回のサルトルは、1957年のサルトルである。1957年5月*1サルトル主宰の『現代』誌135号に掲載され、その後、論文集『シチュアシオン V』に再録された「みなさんは素晴らしい」という文章である(«Vous êtes formidables», dans Situations, V [«Colonialisme et néocolonialisme»], Gallimard, 1964. /二宮敬訳「みなさんは素晴らしい」『シチュアシオン V』(サルトル全集第31巻)所収、人文書院、1965年*2)。
60年前に書かれたこの文章、正直、「え?これ、今のニッポンのことを書いたんじゃ?!」としか思えない文章である。……いやあんた、サルトルについて書くときそんなことばっかり言ってるね?と思う人もおられることだろう。ええ、まあそうなんじゃが、だってそうなんだから仕方ない! というわけで、もう解説は要らない。たんたんとサルトルの文章を紹介するだけで十分と思われる。

*1:邦訳では3月になっているが、誤り。

*2:『シチュアシオン V』の諸論文の一部は、『植民地の問題』人文書院、2000年に再録されているが、残念ながらこの素晴らしい「みなさんは素晴らしい」は、再録されていない。

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「偽装」と「ねらい」

「被害者」と「加害者」

 「仮放免者の会」のブログで、「難民偽装問題」をめぐる読売新聞での報道の問題点についての記事が連載されています。
第1回 http://praj-praj.blogspot.jp/2015/05/blog-post.html
第2回 http://praj-praj.blogspot.jp/2015/05/blog-post_30.html
第2.5回 http://praj-praj.blogspot.jp/2015/09/830.html
 とてもわかりやすく、読売に対する反論というだけではなく、入管問題全体の理解に役立つような記事です。
 このブログ連載で批判対象となっている読売新聞の一連の記事は、難民申請者の外国人たちを「偽装難民」と決め付けつて貶めるものです。ところで、これらの記事は、(彼らの言う所の)「偽装難民」が増えることが一体どのような問題を引き起こしている、と言いたいのか。結局彼らは、「「偽装難民」が増えることで、偽装ではない「本当の」難民を救ける自分たちの立派な事業が邪魔されて迷惑している」とでも言いたいようなのです(以下引用は特にことわりがない場合、上記の、「仮放免者の会」ブログ連載よりのものです。引用元のURLと見出しは注で示しています)。

 法務大臣、入管当局幹部、および読売新聞社によると、「偽装申請」は「救済されるべき難民の保護の遅れにつながる」から問題である、というわけです。こうした論拠にしたがって、難民審査の効率化と、申請者の就労制限が主張されています。*1

 つまり彼らは、まるで自分たちが「本当の難民」の味方であるかのような顔をして、問題が外から、つまり「偽装難民」という不届きな者たちから来ている、と嘆いてみせるわけですが、実際はどうなのかというと、むしろ、「難民問題」を作り出しているのは当の自分たちなわけです。

そもそも、「偽装申請」が取りざたされる以前に、日本の難民政策が「救済されるべき難民の保護」と言うにあたいする内実をそなえたものであったためしがあったでしょうか。
たとえば、他の難民条約加盟国の多くが例年4〜5ケタの難民認定数を出しているなか、日本のそれは2013年が6人、2014年が11人にとどまっています。この数字だけみても、「救済されるべき難民の保護」について、日本がこれまできわめて消極的な取り組みしかしてこなかったことはあきらかです。*2

 そして、「仮放免者の会」ブログ記事の他の部分を読めばわかるように、日本政府は、難民たちに対して「消極的な取り組みしかしていない」どころではなく、難民たちが人権を認められた当たり前の生活を送ることを阻害している、という意味で、むしろ積極的に難民たちに迷惑をかけている側なのです。
 一連の読売の記事は、「仮放免者の会」ブログが言うように「まるであたかも、外国人が日本の法秩序をゆるがせる加害者であり、日本国と日本人はその被害者であるかのような、まったく実態とはさかさまな構図がえがかれる*3」という点で、悪質なものです。 
 それにしても、実質的加害者が被害者に責任転嫁して被害者面をし、さらには「このままでは本当に困っている人を救えない」などと善人面をする、しかもマスコミを使ってキャンペーンという構図……。どこかで見たことがありますね。そう、こちらの記事http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20121213/p1でもかつてとりあげましたが、水際作戦や、極めて低い補足率、などを棚に上げた、生活保護「不正受給者」バッシングとよく似ているのです。

「ねらい」の非対称性

 「仮放免者の会」ブログ連載は、「「偽装難民」たちが難民申請を「就労目的」で悪用している」という読売の悪質な世論誘導を鋭く批判しています。この、「難民申請を就労目的で悪用」という表現は、9月5日の朝日新聞難民認定についての記事にも見られます。

 一方、「借金から逃れるため」などと明らかに難民とは言えない申請も多いという。申請中は強制送還されない制度を悪用し、就労や定住目的で申請を繰り返す人もいるとされる。
(9月5日朝日新聞難民認定の対象拡大へ 審査は厳格化、外部意見の導入も」)

http://digital.asahi.com/articles/ASH9453XSH94UTIL022.html?_requesturl=articles%2FASH9453XSH94UTIL022.html

 「なんだ、哀れな難民のような顔をして、結局カネ目当てか、救けてやろうとした俺たちをだますとはケシカランやつらだ!」とでも言いたいのでしょうか。こうした、「実は○○目当て」などと、誰かの、「偽装」されていない本当の?「目的」をあげつらうことが、何やらその誰かを貶めることになりうる、と思っているらしい人々については、休眠状態の当ブログやその前身のホームページで、かつて何度か話題にしました。最近では、昨年6月の石原環境相(当時)による「最後は金目でしょ」発言が記憶にあたらしいですが、私が真っ先に思い出すのは、ここでもhttp://www.geocities.co.jp/CollegeLife/6142/0401.html#22とりあげた、山本夏彦による、元「慰安婦」が「今ごろ騒ぎだしたのは『金ほしさ』のためだといえばこれも誰もうなずく」という20年ほど前の発言です。この発言についての徐京植さんの言葉を引用します。

 「金ほしさ」だって? 元「慰安婦」たちは、差別と貧困の中で刻々と年老いている。75歳になる宋抻道さんにしても、異国日本で周囲の無理解と差別にさらされながら、身寄りもなく、生活保護だけをたよりに暮らしているのだ。どんなに心細いことだろうか。喉から手が出るほど金がほしいのは、当たり前だ。それに、彼女たちには補償金を要求する正当な権利がある。「金がほしい」としても、だからといって侮辱されなければならない理由などない。
徐京植「母を辱めるな」)*4

http://www.eonet.ne.jp/~unikorea/031040/38d.html

 難民申請者たちだってそうです。「仮放免者の会」のブログを読めばわかるように、難民申請者たちが「就労目的」だとしても、だからといって侮辱されなければならない理由など一切ないのです。
 さて、こうした「○○目的」を熱心にあげつらうものたちが、あらゆるものを対象にそれを行うかというと、たいていそうではありません。彼らは、特定の対象についてだけ「目的」「目当て」「ねらい」を勘ぐります。たとえば、日本の新聞やニュースでは、中国、韓国、朝鮮の政府・首脳による公式発表などを報道するときは、必ずと言っていいほど「こうした○○には、△△といった《ねらい》があるものと見られます」というようなコメントが付きます。ところが、日本、アメリカ、電力会社…などの発表に対して、その「ねらい」について言及されることは、まずありません。こうした、日本のマスコミにおける「ねらい」という言葉の非対称性、と言った問題については、当ブロクでは何回か取り上げてきました。たとえばここhttp://d.hatena.ne.jp/sarutora/20070808/1186595155
 そして、今回の一連の読売新聞の報道にもまた、そうした非対称性があからさまに存在するのです。彼らは、難民申請者たちの「目的」や「ねらい」をあげつらうことには非常に熱心ですが、入管や日本政府の言うタテマエの裏に、かくされているとすらいえずあからさまに見えている「目的」「ねらい」については、問題にしません。たとえば、「難民の保護・救済」という建前のもとで行われようとしている難民認定制度の変更の「ねらい」は、実際は「強制送還の効率化」であることは明らかです。 

 同様に、入管当局が読売等の報道機関をつかった世論誘導をつうじてめざしている制度変更のねらいが、難民の保護・救済にあるのではないことも、こんにちまでの難民政策の「実績」からみてあきらかなのです。とすると、そのねらいは、難民認定審査の「効率化」そのものにあると考えるよりほかなく、つまりそれは、強制送還の「効率化」ということにほかなりません。*5

 しかし、このように、読売新聞は、入管の「ねらい」を読者に伝えません。そして、そのねらいの餌食になろうとしている外国人たちの方を、逆に、何やらよからぬ「ねらい」を持ったものたち、と描き出そうとしているわけです。とすると、こうした「報道」を行う読売新聞自体の「ねらい」が問われるべきでしょう。入管をアシストする「ねらい」があるのか?と。 

(……)〔入管にとっては〕思うように退去強制手続きに入れない、あるいは送還を執行できないという現状があって、その障壁を取りのぞく制度変更をおこないたいという意向があるのでしょう。読売の報道は、こういった意向を忠実になぞったものといえます。*6

 外国人技能実習制度についても同じです。読売新聞は、外国人たちによる「実習制度の形骸化」を言うわけですが、「仮放免者の会」ブログが指摘するように「技能実習制度は、日本政府自身こそがその形骸化を率先してすすめてきた経緯があり、いまさら「形骸化」しうるほどの実質など残ってい」ない*7のです。
 「技能実習制度」は、建前こそ「開発途上国等の経済発展を担う「人づくり」に協力することを目的」とする、などとされていますが、実際の実習生たちは、よく知られているように、人手不足を解消するための都合のいい超低賃金労働力として扱われているわけです。したがって、「偽装難民たちが」「就労目的で来日し」「難民制度を形骸化させている」というような読売らの言い方をもじって言えば、技能実習生問題とは、「偽装・途上国支援者である日本政府や受け入れ先企業が」「人手不足解消目的・奴隷導入目的で外国人を来日させ」「技能実習生制度を形骸化させ続けてきた」とでも表現されるべきものなのです。

日本の政府や実習先である企業等は、実際には、実習生を低賃金の労働力として利用しておきながら、他方ではその労働が「実習である」というタテマエを都合よく持ち出すことで、実習生の労働者としての権利を否定し、実習先の職場に縛りつけることが可能になります。技能実習制度とは、通常の労使関係のいわば例外的な領域を作り出し、そこでの事実上の奴隷的拘束を「合法化」する装置といってよいでしょう。*8

 ところが、難民申請者たちの「目的」や「ねらい」をあげつらう読売は、こうした、あからさまとさえ言える日本政府や受け入れ先企業の「目的」や「ねらい」を問題にしようとは決してしないわけです。

読売は、ミャンマー人実習生33人が茨城県内の実習先から1年以内にあいついで「逃亡」した事例について報じ、「実習制度が来日の『手段』として[ミャンマー人実習生に]利用された可能性がある」などと書いています([g]記事)。これは、あべこべな責任転嫁と言うべきです。この記述においては、実習制度が、労働者を来日させる手段として、むしろ日本政府と日本の受け入れ企業等によって利用されているのだという現実は、まるでなかったことにされます。ミャンマー人労働者を呼び込んでいる者たちの目的と利益は消されるいっぽうで、みずからの目的と利害関心にしたがって日本の制度を悪用している外国人技能実習生というイメージが強調されるわけです。*9

*1:http://praj-praj.blogspot.jp/2015/05/blog-post.html 第一回「2.法務大臣・入管当局幹部・読売新聞の一致した見解」

*2:http://praj-praj.blogspot.jp/2015/05/blog-post.html 第一回「3.「救済されるべき難民」についての読売の支離滅裂な姿勢」

*3:http://praj-praj.blogspot.jp/2015/05/blog-post_30.html 第二回「4.「就労目的で悪用」――制度・政策の矛盾を外国人に転嫁するレトリック」

*4:それにしても、徐京植さんがこの文章を書いたのが1997年、それから18年が経つが、言うまでもないが状況はまったく変わっていないどころか悪化しています。

*5:http://praj-praj.blogspot.jp/2015/05/blog-post.html 第一回「6.入管による読売等をつかった世論誘導のねらい」

*6:http://praj-praj.blogspot.jp/2015/05/blog-post.html 第一回「6.入管による読売等をつかった世論誘導のねらい」

*7:http://praj-praj.blogspot.jp/2015/05/blog-post_30.html 第二回「2.技能実習制度を「形骸化」させているのは「偽装難民」なのか?」

*8:http://praj-praj.blogspot.jp/2015/05/blog-post_30.html 第二回「3.現代の奴隷制としての技能実習制度」

*9:http://praj-praj.blogspot.jp/2015/05/blog-post_30.html 第二回「4.「就労目的で悪用」――制度・政策の矛盾を外国人に転嫁するレトリック」

「平和国家 日本」という妄想

憲法9条にノーベル賞を」運動に賛同する議員に改憲主義者がいる、という話についての↓の記事

付け加えるならば、日本人の「平和国家 日本」という妄想が右も左も関係なく成立しうることの証左でもあるんではないでしょうか。
安倍さんたちがのどから手が出るほど欲しいのも「平和国家 日本」ていうイメージですよね。だから「積極的平和主義」とかぬかしてるわけで。賞をもらえたとしたら安倍さんへのナイスアシストを護憲派が主導するという悪夢になることでしょう。

http://d.hatena.ne.jp/EoH-GS/20140531/1401535751

これを読んで、何年も前に下書きまで書いて放置してて、その下書きもどこかにいってしまったネタを思い出したので、書き直すことにしました(たいしたことではないけど)。
コンビニに、新刊のマンガや小説が数冊並んでいたりしますが、4・5年以上前、そこに『皇国の守護者』というタイトルの本(マンガ)が並んでいて、びっくりしたことがあります。なんだこれ、と思ったら、いわゆる「架空戦記」というものであるらしい。それにしても、フィクションとはいえ、このような禍々しい(ウヨウヨしい)タイトルの本が、普通にコンビニとかに置かれているほどメジャーな扱いを受けるんだな、ということにちょっとびっくりしました。といっても、この本やこうした「架空戦記」の内容がどういったものなのかはよく知りません。もしかすると、作者や読者は、「自分は右翼でも左翼でもない」などと言っているのかもしれませんが、そういうこととは関係なく、なんというか、こんなセンスのタイトルの本がフツーに受け入れられてしまう空気というのが、安倍晋三のような極右政治家が首相になり、百田さんのような人がベストセラー作家としてもてはやされる*1ことと共通するまさにニホン的なものだな、と思ったということです。というわけで、『皇国の守護者』というこの本の詳しい内容については、申し訳ありませんがあまり関心がないのですが、この物語における「皇国」の設定については、興味をひかれました。

人と龍が共存する世界で、小さいながらも貿易によって繁栄していた<皇国>と、その貿易赤字を解消するために海の彼方から侵略してきた<帝国>との戦争、それをきっかけとして激化する<皇国>内部の権力闘争を描く。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%AE%88%E8%AD%B7%E8%80%85

架空戦記ですので、「皇国」というのもまあ一応は架空の国ということなのでしょうが、どう考えても日本がモデルになっているわけですね。で、「小さいながらも貿易によって繁栄していた」ですか……まさにid:EoH-GSさんの言う「日本人の「平和国家 日本」という妄想」そのものですよね。架空戦記の愛好者たちはおそらく軍事が大好きな人がたぶん多いのだと思うのですが、しかし、この「設定」には、「日本は軍事国家ではなく「貿易によって繁栄している小国」だ」そして「侵略した/する国ではなく侵略された/されそうな国なんだ」という日本人の歪んだ自意識がわかりやすく漏れだしているのではないでしょうか。もちろん、実際の日本は「貿易によって繁栄していた小国」であるどころか、まぎれもない「軍事大国」であったし、今もそうだし、また戦後日本の「繁栄」なるものの内実も、「貿易によって」というようなきれいごとであったわけではないことは、例えばその繁栄が朝鮮戦争時の特需景気によってもたらされたという事実一つとっても明らかでしょう。まあとにかく、日本人というのは、明治以来、尊大な「大国」意識とアジアに対する蔑視感情をとめどなく増大し続け、実際に軍事大国となって加害を繰り返しておきながら、一方で、自分の汚れた手(軍事)からひたすら目をそらし*2、「大国」のイメージを「科学技術」だの「経済」だので塗りかため、さらには、自分たちは「反日」の軍事大国からいじめられ、脅かされている「小国」なんだ、などという被害者意識をはちきれんばかりにふくらませている、というわけですね*3。「平和な小国日本の平和憲法ノーベル賞をもらって、やっぱり日本は世界に認められた大国だ!」というわけですか。なんとも都合のいい話ですね。

*1:そういえば最近「『永遠の0』は反戦小説だ」と百田さんを擁護する人をネット上で見かけました。今回書いたことに関連する話だと思います。

*2:この隠蔽が、軍事基地の70パーセント以上を沖縄に押し付けることによって行われていることは言うまでもありません。

*3:また一方で、この矛盾は、中国や朝鮮の軍事的脅威を煽る一方で「あの国の軍隊は自衛隊に何分で制圧されてしまうようなお粗末なものだ」などと嘲笑する、という逆の形でもあらわれています。

マルコムXとジャズ

 数年前、twitterマルコムXbothttps://twitter.com/MalcolmX_bot)をフォローしはじめました。ところが、ここで(自動的に)投稿されるマルコムXの言葉が、(bot運営者による的確な文章の選択によるところも大きいと思いますが)どれもすばらしくて、これまでリツイートしまくっています。というわけでこのbotをきっかけに実はあまりよく知らなかったマルコムXについて、関連する本をいくつか読んだりしました。しかしやはり、最高に面白かったのは、『マルコムX自伝』です。これは自伝とは言っても、実際に執筆したのは後に『ルーツ』で有名になるアレックス・ヘイリーで、彼がマルコムXに長時間のインタビューをしてまとめたものです。マルコムXの生き生きとした語りとヘイリーの文章力がみごとに融合したこの本は、めちゃくちゃ面白くて、一気に読みました。
 この本は、もちろん、マルコムXの思想を知るためにも必読の本ですが、今回(ひさしぶりの)このブログでは、この本の、ジャズに関連する箇所を紹介したいと思います。
 1925年に生まれたマルコムXは、高校を中退した後、ボストンのナイトクラブで靴磨きの仕事をしていました。その後、彼はニューヨークに出て、1946年に20歳で逮捕・投獄されるまでの数年間、ハスラー(チンピラ)としての波乱万丈の生活を送ります。ところで、このころの記述には、当時活躍していたトップ・ジャズ・ミュージシャンの名前が次々に登場します。そういう意味で、この本はおそらくジャズ史的にも貴重な本だと思いますが、ジャズに興味がある人は、ぞこの部分だけでもぜひ読んでみたらいいと思います。ただし、1925年生まれのマルコムは、マイルスやコルトレーン(ともに1926年生まれ)と同世代なのですが、1946年に投獄されて長く獄中にあったからか、自伝の中にビバップ以降のミュージシャンは出てこないです。

ボストン時代(ベニー・グッドマン、ペギー・リーなど)

 まずは、ボストンのナイトクラブで靴磨きをはじめたころの記述を見てみましょう。マルコムは、ベニー・グッドマンBenny Goodman(cl)楽団や、当時その専属歌手だったペギー・リーPeggy Lee(vo)を間近で見て感激しています。

 「きみかね、新しく靴磨きをやるというのは?」と、彼はたずねた。そうなるだろうと思う、と私は答えた。すると彼は笑って、「それじゃ、きみもたぶん、ナンバー賭博を当ててキャディラックを手に入れるだろうよ」といった。「フレディは二階のトイレにいるだろう」二階に上っていく前に、階下で二、三歩すすみでて、ボールルームの内部を一瞥した。ワックスで磨いたフロアの広いことといったらなかった。はるか端のほう、柔らかなバラ色の明かりの下にステージがあって、ベニィ・グッドマン楽団のミュージシャンたちがあちこち動きまわりながら、笑ったり、話したり、楽器や譜面台を整えていた。(マルコムX、濱本武雄訳『完訳マルコムX自伝 上』中公文庫、2002年、98ページ。(以下「邦訳」))

 今までレコードで聞いたことのある、いろんなベニィ・グッドマン楽団の曲が、われわれのいる場所まで、まるで滲みとおるように聞こえてきた。次の客が来るまでのひまをみて、フレディはもう一度そっと聞きにいくのを許してくれた。ちょうどペギィ・リーがマイクに向かっていた。なんて美しい声だ!彼女はまだ楽団に加わったばかりだということ、ノース・ダコタの出身だということ、あるグループの一員としてシカゴで歌っていたときにベニィ・グッドマンの夫人に見いだされたのだということなど、お客が話しあっているのが耳に入った。彼女が歌い終わると、客はいっせいに拍手した。彼女は確かに大物だった。(邦訳、101ページ)

ベニー・グッドマン楽団で歌うペギー・リーの映像です。↓

ローズランドでのダンスは、大部分、白人だけのために行なわれた。白人のダンスでは白人の楽団が演奏した。ここで開かれた黒人のダンス・ハーティでかつて演奏した唯一の白人楽団は、私の記憶するかぎりではチャーリィ・バーネット楽団だった。黒人ダンサーたちを満足させることができただろう白人楽団はほとんどなかった、というのが事実である。だが、チャーリィ・バーネットの『チェロキー』と『レッドスキン・ルンバ』は、黒人たちを熱狂させた。(邦訳、104ページ)

「チェロキー」というのは、ビバップで超高速で演奏することが多い有名な曲ですが、チャーリー・バーネットCharlie Barnet(ts)のオリジナルはこんな感じです。

ボストン時代2(エリントン、ベイシーなど)&びっくりする誤訳について

 さて、つぎの箇所では、彼が靴を磨いたミュージシャンとして、デューク・エリントンDuke Ellington(p)、カウント・ベイシーCount Basie(p)、ライオネル・ハンプトンLionel Hampton(vib)、クーティ・ウィリアムズCootie Williams(tp)、レスター・ヤングLester Young(ts)、ハリー・エディスンHarry Edison(tp)……などの名前が綺羅星の如くずらっと並んでいるのですが、とりあえず、長いですが引用します。

 バンドマンたちのある者は、八時ごろになると男子用トイレに上がってきて、仕事にかかる前に靴を磨いてもらうのだった。デューク・エリントン、カウント・ベイシィ、ライオネル・ハンプトン、クーティ・ウィリアムズ、ジミィ・ランスフォードJimmie Lunceford(ts)らは、私の椅子に座って靴を磨いた人たちのうちのほんの何人かにすぎなかった。私は磨き布で中国の爆竹さながらの音を出したものだ。デュークは偉大なアルト・サックス奏者であるし、ジョニィ・ホッジズJohnny Hodges(as)──彼はショーティの崇拝の的だった──はいまなお、靴を磨いてもらったことで、私に借りがあるはずだ。ある夜、彼は私の椅子に座って、そばに立っていたドラマーのソニィ・グリーアSonny Greer(dr)と親しげに論じあっていた。そのとき私は磨き終わったという合図に彼の靴の下方を軽く叩いた。ホッジズは私に代金を払おうとしてポケットに手をのばしながら磨き台から降りてきたが、次の瞬間、さっとポケットから手を出して何か身ぶりをしたかと思うと、そのまま私のことは忘れて、立ち去ってしまった。私としてもわずか十五セントを請求することで、『デイドリーム』ですばらしい演奏ぶりを披露した人を、わずらわすにしのびなかったのだと思う。
 カウント・ベイシィ楽団の偉大なブルース歌手であるジミィ・ラッシングJimmy Rushing(vo)と、靴を磨きながらちょっとした対話をはじめたことも忘れられない(彼は、『昨日呼んでも今日くるあなた(セント・フォー・ユー・イエスタデイ・ヒア・ユー・カム・トゥデイ)』のような歌で有名な歌手である)。ラッシングの足は大きくて、おもしろいかたちをしていたのを覚えている──たいていの大きな足のように長いわけではなく、ラッシングその人のように丸くてずんぐりしていた。それはともかく、彼は私をベイシィのほかの仲間たち、たとえぱレスター・ヤング、ハリィ・エディスン、バディ・テイトBuddy Tate(ts)、ドン・バイアスDon Byas(ts)、ディッキー・ウェルズDicky Wells(tb)や、バック・クレイトンBuck Clayton(tp)といった人たちに紹介してくれた。それからは連中が一人で手洗いに来た帰りに、「やあ、レッド(※当時のマルコムXのあだ名)」などといって椅子に腰かけてくれた。そこで私が、自分の頭のなかでくるくる回っている連中のレコードにあわせて、パチパチ音をさせて磨き布を動かすのだ。およそどんなミュージシャンでも、私ほど熱心な靴磨きのファンをもったことはないはずだ。(邦訳、104-5ページ)

 いかがでしょうか。おそらく、少しでもジャズに関心がある人は、すぐに気づいたと思いますが、「デュークは偉大なアルト・サックス奏者であるし」というとんでもない誤訳があります(笑)。翻訳は、とても読みやすいとは思いますが、この箇所は、単なるケアレスミスかもしれませんが、もし訳者の濱本武雄さんがデューク・エリントンがピアニストであることすら知らなかったとするなら、残念ながら彼はほとんどジャズのことは知らないのかな、と思わざるを得ないですよね。というわけで、原文がどうなっていたのか気になってしまって、確認したところ、原文はこうです。

Duke's great alto saxman, Jhonny Hodges--he was Shorty's idol--still owens me for a shoeshine I gave him.(Malcolm X, Autobiography of Malcolm X, Ballantine Books,1987, p.52.)

 つまり濱本さんは、おそらく「Duke's(デュークの)」を、「Duke is(デュークは)」ととってしまったのですね。念のためここはこういうことです「デューク楽団の偉大なアルト・サックス奏者であるジョニィ・ホッジズ──彼はショーティの崇拝の的だった──はいまなお、靴を磨いてもらったことで、私に借りがあるはずだ。」
 さて、上の箇所にも出てくる「ショーティー」とは、マルコム・"ショーティ"・ジャーヴィスMalcolm "Shorty" Jarvisという、マルコムXの親友だった男ですが、その後ジャズ・ミュージシャンになります。彼の演奏もぜひ聴いてみたいのですね。ショーティーもすでに故人ですが、没後の2001年に、The Other Malcolm, "Shorty" Jarvis: His Memoirという回想録が出版されているようです。

 彼〔ショーティ〕は、デューク・エリントン楽団のアルト・サックス、ジョニィ・ホッジズを尊敬していた。だが、あまりにも多くの若いミュージシャンが、同じ楽器をつかって、楽団の名前を力ーボン紙で複写するようなまねをしている、と話した。とにかくショーティは自分の音楽のことと、自分たちの小さなグループでボストンを演奏してまわれるようになる日のために働くことだけを、真剣に考えていた。(邦訳、119ページ)

たぶんけっこう後の映像かと思いますが、ショーティーのアイドルだった、そしてマルコムXが靴磨きの代金をとりそこねた、ジョニー・ホッジスのAll of me↓すばらしいです。

 ジミー・ラッシングが、ベイシー楽団で歌う「Sent for you yesterday」です↓

ニューヨーク時代1(ライオネル・ハンプトンなど)

 次はニューヨーク時代です。エリントン、レイ・ナンスRay Nance(vn,tp,vo)、クーティー・ウィリアムズ、トミー・ドーシーTommy Dorsey(tb)などの名前が見えます。

 ニューヨークは私には天国だった。そしてハーレムはこの上ない天国だった。私はスモールズやブラドック・バーにいりびたったので、バーテンたちは私がドアから入ってくるのを見るなり、私の気に入りのブランドのバーボン・ウィスキーをついでくれるようになった。そして、両方の店の常連が、スモールズではハスラーたちが、ブラドックでは芸能人たちが私を、"赤毛"と呼ぶようになった。私のあざやかな赤くコンクした頭からすれば、当然のニックネームだった。(……)
 私の友人には、このころ、デューク・エリントン楽団の偉大なドラマーであるソニィ・グリーア、それにバイオリン奏者として有名なレイ・ナンスがいた。彼は例の激しい"スキャット"スタイルで「ブリップ・ブリップ・ド・ブロップ・ド・ブラム・ブラム」と歌っていた。それにクーティ・ウィリアムズ、エディ・"坊主頭"・ヴィンスン──彼の頭はきれいさっぱり頭皮しか残っていなかったが、コンクをすればこうなるぞと私をからかった。そのころの彼は『ヘイ、きれいなねえさん、俺をあんたのでかい真鍮のベッドに放りこんで』という歌をヒットさせていた。私はまたシィ・オリヴァーを知っていたが、彼は赤ら顔の女性と結婚してシュガー・ヒルに住んでいた。シィは当時トミィ・ドーシィの編曲をたくさん手がけていた。シィのもつとも有名な曲は『イエスインディード!』だったと思う。(邦訳、152ページ)

1942年のエリントン楽団のC Jam Blues↓レイ・ナンスのヴァイオリンとソニー・グリアのドラムが聴けます。レイ・ナンスはヴァイオリンだけではなく歌やトランペットもできたそうです。

 次のところは、ニューヨークのハーレムの歴史についてマルコムが語っている箇所で、興味深いです。ジャズ史の教科書のようです。

 一九一〇年に、ある黒人の不動産屋が黒人の二、三家族を、どういうふうにしてかはっきりしないが、このユダヤ・ハーレムの、あるアパートに住まわせた。ユダヤ人がそのアパートから逃げだし、やがてそのブロックから逃げだし、あいたアパートを埋めるように、さらに黒人が流れこんだ。すると全部のブロックからユダヤ人が逃げ去り、さらにまた多くの黒人が北へ移動してきて、あっという間にハーレムは今日のような状況──実質的には黒一色──になった。
 それから一九二〇年代初頭、音楽や娯楽が産業としてハーレムに起こった。これがダウンタウンの白人の人気を得て、白人たちは毎晩アップタウンに殺到した。ルイ・"サッチモ"・アームストロングLouis Armstrong(tp)という名のニューオーリンズ出身のコルネット奏者が、警官のドタ靴をはいて列車からニューヨークに降り立ち、フレッチャー・ヘンダースンFletcher Henderson(p)と演奏をはじめたころから、こういう状況になったのだ。一九二五年、スモールズ・パラダイスが開店し、七番街は人で埋めつくされた。一九二六年には、デューク・エリントン楽団が五年にわたって演奏した、かの「コットン・クラブ」が開店した。同じく一九二六年に「サヴォイ・ボールルーム」が開場した。正面はレノックス街に面した一ブロック全部を占領し、スポットライトの下には六十メートルのダンス・フロアがあり、そのうしろに二つの楽団用ステージと、移動式の後部ステージがあった。
 ハーレムの名所としてのイメージがひろまり、ついには夜ごと世界中から白人が群らがるようになった。観光バスがやってきた。「コットン・クラブ」は白人専用となり、地下のもぐり酒場にいたるまで何百ものクラブがひしめきあって、白人から金をまきあげるのだった。もつともよく知られていたクラブは、「コニーズ・イン」「レノックス・クラブ」「バロンズ」「ネスト.クラブ」「ジミィズ・チキン・シヤック」「ミントンズ」などだった。サヴォイ・ゴールデン・ゲート、ルネッサンスといったボールルームは、争って客を獲得しようとした。(……)全米の楽団が、ボールルームやアポロ劇場、ラファイエット劇場などへやってきた。ダイアモンドをちりばめたスーツを着てシルクハットをかぶったフェス・ウィリアムズFess Williams(cl,as)、すべてのズートをしのぐ究極の白いズート.スーツとつば広の白い帽子とひもネクタイをつけ、『タイガー・ラグ』、それに『ハイ・ディ・ハイ・ディ・ホー』や『セント・ジェイムズ病院』『ミニー・ザ・ムーチャー』などでハーレムを熱狂させたキャブ・キャロウェイCab Calloway(vo)のような、華やかなバンドリーダーたちが登場した。(邦訳、161-162)

ズート・スーツで歌うキャブ・キャロウェイ

 つぎは、ビリー・ホリデイBillie Holiday(vo)、ライオネル・ハンプトンヘイゼル・スコットHazel Scott(p)、フレッチャー・ヘンダーソン、などの名前が出てきます。

 かの偉大なレディ・デイことビリィ・ホリディは、レジナルドを抱きしめて「大好きな弟」と呼んだものだ。何万人もの黒人たちが感じていたのは、大楽団(ビッグ・バンド)の究極の目的はライオネル・ハンプトン楽団のようになることで、レジナルドもまた同じだった。私はハンプトン楽団の団員の多くとひじょうに親しかった。レジナルドを彼らに紹介し、さらにまたハンプその人にも、それからハンプの妻でありマネージャーでもあったグラディス・ハンプトンにもひきあわせてやった。この世でもっとも気持ちのよい人の一人が、ハンプである。彼を知っている人ならだれでも、ハンプは自分がほとんど知らない人たちにも、じつに親切だと異口同音にいう。ハンプが稼いできた、そしていまなお稼いでいる多額の金をもってしても、もしもその金と仕事が、私がかつてお目にかかったもっとも賢明な女性の一人であるグラディスによってあつかわれていなかったら、彼は今日、文なしになっていたことだろう。(邦訳、212ページ)

 午前四時半、ジミイズ・チキン・シャックかディッキー・ウェルズにあふれんばかりに群らがった人びとは、ビリィ・ホリディのブルースにヘイゼル・スコットのピアノといったような即興演奏に歓声をあげた。(邦訳、214ページ)

ヘイゼル・スコットとビリー・ホリデイの写真です。

ヘイゼル・スコットのピアノですが、これは↓ちょっとネタ的な演奏ですが、2台のグランドピアノを同時に弾いている映像です。

 いったい何事がもちあがったのかを教えてくれたのは、バンドリーダーであるフレッチャー・ヘンダースンの甥、ショーティ・ヘンダースンだった。黒人たちは商店の窓を粉砕し、ひったくれるものはすべて──家具、食料品、宝石類、衣料品、ウイスキーなどを──持ち運んでいたのである。(……)
 つい最近、私は七番街でショーティ・ヘンダースンに出くわした。私たちは、暴動の際に「左足」というあだ名をもらった男のことを笑った。婦人靴店での奪い合いで、その男はどうにか五個の靴をかっぱらったのだが、なんとその靴はみんな左足だけだったのである!また私たちは、暴動に仰天してしまった、ある小さな中国人のことで笑いあった。その中国人が経営していたレストランは、彼があわてて店の扉にはった貼り紙が、それを見た暴徒たちを腹のよじれるほど笑わせたために、襲われなかった。そこには、「私も有色人種(カラード)だ」と書かれていたのである。(邦訳、218ページ)

ニューヨーク時代2(ビリー・ホリデイ

 上の箇所にもありますが、マルコムは、なんと、ビリー・ホリデーとも結構親しかったようで、ビリーについてこのような思い出を語っています。

 「ビリィ・ホリディ」という文字と彼女の引き伸ばされた写真が、外でライトの光をあびていた。中に入ると、壁際に押しつけられたテープルにびつしりと人が座っていた。テーブルは飲み物を二つ置き、二人の人間が肘をついて座るのがやっとだった。オニックス・クラブは当時よくあった、ひじょうに小さい店の一つだった。マイクの前のビリィは、ちょうど一曲歌い終わったときに、ジーンと私の姿をみた。スポットライトをあびた彼女の白いガウンがキラキラし、アメリカ・インディアン風の銅色の顔、髪はトレイドマークであるポニーテイルにしていた。次の曲は、私の気に入りの「恋を知らないあなたに(ユー・ドント・ノウ・ホワット・ラブ・イズ)」──「来る日も来る日も眠れぬままに明け方を迎えるまでは──失いたくない愛を失うまでは──」
 舞台が終わると、ビリィはわれわれのテーブルに来た。長いあいだ会っていなかったビリィとジーンは、たがいに抱きあった。ビリィはいつもとちがう私の気配を感じとっていた。彼女はいつも私がハイな状態でいることを知っていたが、私をよく知る彼女には、今日はそれとはちがうとわかるのだった。いつものぞんざいな言葉で彼女は、なんかあったの、とたずねた。私も当時の口汚い言葉で、ぜんぜん心配ないよと答え、その話は打ち切りになった。その晩、われわれはクラブの写真家に写真を撮ってもらった。三人がぴったり身を寄せあっている写真だった。それが「レデイ・デイ」に会った最後だった。彼女は死んだ。麻薬と失恋が、納屋みたいに大きな心臓にとどめをさし、だれも完全にまねのできないあの声と歌い方とを奪い去った。レディ・デイは、何世紀にもわたる悲しみと苦難を経験した"黒人の魂(ソウル)"を歌った。あの誇り高い、すばらしい黒人女性が、黒人種の真の偉大さが評価される場所に一度も出演しなかったことは、なんと恥ずかしいことだろうか!(邦訳、246-7ページ)

 ビリー・ホリデーとマルコムXのツーショット、見てみたい!
ビリー・ホリデーの最晩年1958年の名盤Lady in Satinに入っているYou don't know what love isです。このジャケットの写真も、トレードマークのポニーテールです。