ヒストリエ

ヒストリエ(1) (アフタヌーンKC) アレキサンダー大王の書記官だったエウメネスの生涯を描いた、現在も連載中のマンガである。作者は岩明均。このこの10月に、単行本第1巻と第2巻が同時発売された。岩明の代表作『寄生獣』は、しばしば永井豪の『デビルマン』と比較されたが、本作の基底に流れるのも、やはり「デビルマンのテーマ」である。
 エウメネスは、デビルマン同様、人間と怪物の両義性を持った存在である。人間(ギリシア人)として育ったエウメネスは、ある時、怪物(バルバロイ)として、人間社会から追放されるのである(追放の事情については、2巻になって明らかになる)。
 物語は、弟子と奴隷を連れた哲学者アリストテレスが、ペルシアからの逃避行の途中、トロイアの遺跡を訪れる場面からはじまる。時は紀元前343年。トロイア戦争終結からすでに一千年近くが経過し、城塞はほとんど土の下に埋もれていた。一行は、遺跡近くの海岸で、一人の「バルバロイ(蛮人)」の若者と出会う。それが、本作の主人公、追放された身の若いエウメネスである。
 アリストテレスは、「バルバロイ」であるエウメネスにぞんざいな態度をとる弟子をたしなめ、エウメネスを丁重に扱う。だが「ギリシア人」アリストテレスは、ギリシア人と奴隷との間に存在する「差異」を否定することは決してない。彼はエウメネスに言う。「自主を好むギリシア人に比べ異民族の方に奴隷向き性質の人間が多いのは確かだろう」。ただし彼は「むろん奴隷は我々にとってなくてはならぬ存在だ」と言い添えることを忘れはしないが。
 そして、ペルシアからの追っ手が迫ったアリストテレス一行は、エウメネスの船に乗って海を渡り、アジアの地(ペルシア帝国)を離れる。

紀元前343年――哲学者アリストテレス アジアからヨーロッパへ逃げ戻る
(第一巻42頁)

 アリストテレス一行、そしてエウメネスが渡った海、これはアジアとヨーロッパの境界を意味する。『ヒストリエ』の裏表紙には「Europe」「Asia」という文字が、行をあらためて書かれているが、この二つの「境界」、「差異」こそが、『ヒストリエ』のテーマの一つでもある。
 1巻半ばから、2巻にかけて、ストーリーは、エウメネスの少年時代の回想へと移っていく。そこでは、一人の重要な役割を果たす奴隷が登場する。それは、エウメネスの暮らすカルディアの街で、金貸しテオゲイトンに所有されている奴隷、トラクスである。スキタイ人であるトラクスは、両手両足を鎖でつながれ、テオゲイトンの家族に虐待されている。町中で殴られ、罵られるトラクスの姿は、市民たちの同情をかっている。ある日、エウメネスと友人たちは、虐待されるテオゲイトンを町で見かける。カルディアの裕福な家庭でギリシア人として育ち、完璧なギリシア的教養を持つエウメネスは、ヘロドトス『歴史』の一節を引きながら、友人たちに、遊牧民族スキタイが「世界で最も勇猛で誇り高くそして残忍だと言われている」ことを教える。


(注意!以下ネタバレあり)
 それからしばらく後、カルディアの町に、テオゲイトンの鎖がはずされたという噂が流れる。「ねえ聞いた?あの手足をつながれた奴隷」「ああ 金貸しテオゲイトンの家の」「やっと鎖をはずしてもらったんですって」「あらまあ良かった」「ほんとよォ 見てて可哀相ったらなかったもの」「いくら奴隷だからってひどかったものね しょっちゅう殴られてさ」「これで少しは人並みな扱いになるのかしら」「だといいけど……」
 次のページには、鎖がはずれた腕を高々と上げ、涙を流しながら、自由となった喜びを満面に現したトラクスの顔が、画面いっぱいに描かれている。そして、さらにページをめくると……読者の目に入ってくるのは、視点を引いて、トラクスがいる部屋の全景を描いた絵だ。そこに描かれているのは、床に転がったテオゲイトン一家の惨殺死体と、血みどろの刀をもち、前ページと同じさわやかな笑顔でそれらを見下ろしているトラクスの姿である。彼は、テーブルの上に、無造作に何かを投げ出す。それは、主人テオゲイトンの死体からはがした顔の皮である。トラクスはつぶやく。「さあ……帰ろう……!」
 だが結局、彼は「帰る」ことは出来なかった。カルディアの防衛隊と戦って、殺されてしまうのだ。ただし、何十人ものカルディア兵士をたった一人で殺した後でだが……。
 そして、この事件をきっかけに、エウメネス本人も知らなかった(というより忘れていた)事実、すなわち、彼が実はトラクスと同じスキタイであり、幼いころギリシア人に引き取られたという事実が明らかになる。エウメネスの実の母親は、幼い息子エウメネスの目の前で、ギリシア人の奴隷狩りたちに惨殺され、犯されたのである。ただし、トラクス同様、エウメネスの母は襲ってきたギリシア人の男たちと勇敢に戦い、たった一人で21人のギリシア人を殺害したのだが。
 本作で岩明は、サルトルが『トロイアの女たち』で提起した「ヨーロッパとアジア」の「差異」を問題にしつつ、さらに、「残虐」とは、「暴力」とは、何か、そして、「人間」とは何か、というやはりデビルマン的テーマを追求している。「歴史」はそれらの問いに答えをしめすのか……。本作は、おそらく、『寄生獣』に続く岩明均の代表作となるであろう。