サルトルの演劇について(1)サルトルとエウリピデス

 (前回id:sarutora:20041227#p1のつづき)さて、映画としての『トロイアの女』は演劇的で、しかもその演技は、リアリズム的ではなく、非常に様式的なものです*1
 ところで、サルトルは、原作であるエウリピデスの悲劇が、他のギリシア悲劇と異なっている点について、次のように分析しています。
 アイスキュロスのような初期悲劇の観客は、まだ偉大な伝説や神々の神秘な力を信じていた。したがって、悲劇は、観客を感動させる「儀式」としての性質をまだ持っていた。しかし、エウリピデスの時代には、さまざまな信仰が多かれ少なかれ疑わしい神話と化し、悲劇の「儀式」としての性質は次第に失われつつあった。それにともなって、観客の関心は、「語られる事柄」よりも「語られ方」に移っていった。

[当時の観客は]お約束の武勲を語る一節一節を通(つう)として味わい(……)つまり悲劇は常套句のうえに成り立つ暗示的な会話劇となったのです。エウリピデスの用いる表現は、一見、先輩たちのそれと同じものです。しかし、観客がもうそれを本気にしないので、あるいは本気にしても前ほどではないので、その表現は違う響きをもち、違う意味をもつことになるのです。(邦訳5頁*2

 これは、たとえば爛熟時代である現代のアニメファンが、アニメをもう「本気に」見ていないのだけれど、そのお約束の意匠を、「通として」(ネタとして)楽しんでいる、というような構図と似通っているかもしれません。サルトル自身は、ここから、もちろんアニメではなく、現代演劇の状況へと話を進めます。

 ベケットやイオネスコをごらんなさい、同じ現象を起こしている。つまり、紋切り型のせりふを内側から打ち壊すために当の紋切り型を採用するので、その紋切り型がより明らさまに、より仰々しく誇示されればされるほど、その証明も強烈なものになるわけです。アテナイの観客は、今日ブルジョア大衆が『ゴド』や『禿頭の女歌手』を受け容れるように、『トロイアの女たち』を受け容れていた。月並みなせりふを聞いて大喜びしながら、同時にその崩壊を目前にしていることを意識していたのです。(同)

*1:ちょっとエイゼンシュタインの『イワン雷帝』ぽいと思いました。

*2:トロイアの女たち』巻頭に「序」として収録されている、作品についてのインタビュー。