清眞人『実存と暴力』

実存と暴力―後期サルトル思想の復権

実存と暴力―後期サルトル思想の復権

 本書において著者の清氏は、氏が1996年に出版した『〈受難した子供〉の眼差しとサルトル』とりわけその第五章「実存と暴力」を引継ぎ、そのテーマをさらに展開させている。「暴力」を、「後期サルトル思想の中心軸である*1」とする氏は、暴力の問題との対決の中でこそ、サルトルの倫理思想が鍛えられたと考える。「人間たちのあいだに真に生きた徹底した相互性の回復を要求することは暴力について考えること*2」なのである。何故か?それは、「暴力とは相互性の拒絶にほかならない*3」からである。「相互性の回復」を主題とする後期サルトルのモラル、すなわち「相互性のユマニスム」こそが、清氏の著作のテーマである。
 だが、サルトルは、暴力との対決を思想的課題としながら、だからこそ、暴力に根底的に捉えられた人間を描こうとする。そうした人間(たとえばジュネ)を、清氏は「想像的人間」と呼ぶ。サルトルの書は、〈悪〉と暴力の衝動に鷲掴みにされた想像的人間(彼らはまた、善人たちが「人間」となるために作り上げた「怪物」でもある)を「偏愛」し、その生を徹底的に描いた。そしてまた、それこそが、植民地体制のもとで根底的に暴力に規定された状況を生きざるを得ない人々、たとえばフランツ・ファノンや、アメリカの黒人知識人ら*4を、サルトルの思想が激しく魅了した理由である。
 サルトルは「相互性の拒絶」を根底的に引き受けた「想像的人間」の生を描いた。だが同時に、サルトル思想のテーマが「相互性の回復」でもあったことを忘れてはならない、と著者は言う。例えば『聖ジュネ』にしても、それが最終的に示そうとしているのは、はじめは「相互性の拒絶」を遂行するための道具として言葉を使用していたジュネが、いかに他者との相互性の回復へと次第に入り込んでゆくのかということである。しかし、そうした倫理的射程をもったサルトル哲学は、二重三重に誤解されている。そのことを、著者は、暴力をめぐって思考したさまざまな思想家と、サルトルの思想を対話させることを通して、明らかにしていく。
 第二章「テロルのコスモロジー」では、著者は、アーレントサルトルの思想の共通点を浮かび上がらせると同時に、アーレントによるサルトル批判の問題点を指摘することを通じて、サルトルの暴力論の射程を測っている。(途中です。ここまでのところも今後書き直す可能性あります。)

*1:『〈受難した子供〉の眼差しとサルトル』、お茶の水書房、203ページ

*2:『実存と暴力』21ページ

*3:

*4:同書3ページ。アメリカの黒人知識人たちが編んだ論集『黒人における実存』の序文には「黒人が抱える存在論的な問題は一九世紀にアフリカ系統の多くの哲学者や社会批判家によって検討された。[……]しかしながら、この問題をめぐる実存的な考察であることをみずから名のった探求は一九四〇年までは登場しなかった。しかもそれは皮肉なことに一人のヨーロッパ人哲学者、すなわち、ジャン・ポール・サルトルをとおしてであった」とあるという。