桐野夏生『グロテスク』

 とあるきっかけで、桐野夏生の『グロテスク』を読みました。そもそも最近小説というものをほとんど読まないので、桐野さんの小説も初めて読んだのですが、なかなか面白かったです。で、それ関連でぐぐっていたらこんなのを見つけました。
http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/466701-3.html
これを読んで思い出したのですが、私は『週刊アスキー』の連載で桐野さんの『残虐記』(連載時は「アガルタ」)を時々読んでいたのでした。私は、雑誌の連載の小説、なんかもほとんど読まないのですが、めずらしくちょっと面白いな、と思っていました。というわけで『残虐記』も改めて読んでみよう。
 ところで、上の対談で、福田氏は、『残虐記』を読んでサルトルを思い出した、と書いています。私も同じ事を『グロテスク』を読んで思いました。桐野氏は「実存文学って読んだことないから分からない(笑)」とおっしゃっていますが。まあ一冊しか読んだことないのにあれこれいうのはやめておきます。これから少し桐野さんを読んでみようかと思います。
 で、それはいいのですが、上記の対談での福田氏の発言には、間違いがあります。「僕は読んでいて、サルトルのことを何度も思い浮べました。サルトルの『水いらず』の中に「他者は地獄だ」っていう言葉がありますけれど。」とおっしゃっていますが、「他者は地獄だ*1」というのは、「水入らず」ではなく、戯曲『出口なしHuis clos』の中の有名なせりふです。「水入らずlntimité」は短編小説です*2サルトル的に言えば、これはかなり初歩的な間違いで、いわば「藤子不二雄の『オバケのQ太郎』には「どらエモン」というのが出てくるのですが」レベル(言い過ぎか?)です。まあ単に言い間違えただけかもしれないし、だからどうしたということもないのですが(いやそもそもサルトルの名前を肯定的に出してくれただけでありがたいというべき)。それにしても、やっぱりこういうミスがそのままになるというのも、サルトルだからでしょうね。今時誰もサルトルなんか読んでないし、誰もわかんないですから。

*1:正確には「地獄、それは他者だ」l'enfer, c'est les autres

*2:「水いらず」と岡崎京子の『pink』については「違和としての身体―岡崎京子とサルトル」といふ論文で書いたのでよろしくネ!