『希望格差社会』他

 最近読み始めた、ジャズピアノをやっている方の日記に、ある「プロ」からこのように言われた、という記述がありました(リンクは貼りません)。

「アマチュアのライブなんてヤル意味ないでしょう。そんなの楽屋オチで、友人知人集めてやってるだけ。まかりまちがって、ジャズ知らないお客さんが、そんなの聴いて、それがジャズだと思ったら、大きな誤解だよ。」

 なんなんでしょうね、これ。
 私に言わせれば、どっちかというと、ひどい演奏なのに「プロだから」ていうだけで、ありがたがっている「まかりまちがった」「お客さん」の方がよっぽど多いと思いますけど。
 こういうことを書くと、「そんなひどいことを言う自称プロがいるなんて、ジャズは閉鎖的だね。ロックはそんなことないよ」なんて、ジャズというジャンルの問題にされてしまうかもしれませんが、そうではなく、あらゆる分野において、「アマチュア」のヤルことは「意味がない」んだ、という感覚が、根深く共有されているような気がするのです。
 ところで最近、話題の『希望格差社会』を読んだのですが、正直言ってひどく納得行かない気持ちが残りました。現代日本が、「リスク化」「二極化」する社会になりつつある、という著者の分析は、たしかにそうかもしれない、と思います。また、「自己責任」が強調されることを是とする自由化論者に対する著者の批判にも同意します。
 しかし……読み終わったあと何か違和感が残ってしまったのです。以下は、「希望格差社会」になりつつあるという分析をした後で、「ではどうすればいいのか」という著者による提案が書かれている最終章での記述です。

 自分の能力に比べて過大な夢をもっているために、職業に就けない人々への対策をとらなければならない。そのため、過大な期待をクールダウンさせる「職業カウンセリング」をシステム化する必要がある。久木元氏が言うように、あまりに「やりたいこと」が強調されすぎているゆえに、フリーターは過大な期待を抱かざるを得ない状況に追い込まれている。といって、「諦めろ」と直接言ったのでは、いままで行ってきた努力を無にしろ、というのに等しい。それゆえ、カウンセリングなどを導入して、自分の能力といままでしてきた努力と期待との調整を行い、納得して諦めさせて転進させることが必要である。(……)アメリカでは、学校教育から職業レベルまで、カウンセリングやコンサルティング制度が充実しているので、「努力をなるべく無駄にしないように」過大な期待を諦めさせ、能力にあった職に就くように誘導している。(p.242-3)

 「「負け組」の絶望感が日本を引き裂く」というのがこの本の副題ですが、ではその「絶望感」とは何なのか。著者の主張には、「実現不可能な夢を持ってしまう(持たされる社会である)から絶望してしまうのだ」というのが含まれているようです。しかしそうなのだろうか。そもそも、「夢見るフリーター(同)」の「夢」はなぜ「夢」なのか。それは、「まだ実現していないから」と本人も周囲も思っているからなわけです。そして「実現できそうもない」という予想が「絶望感」につながる。で、「実現」とは何か、と言えば、結局「やりたい仕事で食っていける」つまり「プロになれる」ということだ、ということが含意されているのではないでしょうか。だけど、「プロになれなかった」からといって、なぜ、「やりたいこと」が「実現できなかった」と考えるのか。そこを疑うことだってできるわけです。というか、フリーターは「やりたいこと」を「夢見て」いるだけで、プロだけが夢を「実現」させてやりたかったことを「やっている」、とどうして考えるのか。また、どうして「プロ」になれなかった場合、努力が「無になる」と考えるのか。「夢をもつから絶望感が生まれる」のではなく、「今はまだ夢だ(実現していない)」、あるいは、「夢で終わりそうだ(実現できない)」と思うからこそ、「絶望感」が生まれる、という側面もあると思うのです。
 しかし、こう言う私の考え方自体が、おそらく「甘い」と言われるのでしょう。著者の山田氏は、「生活に対する考え方を転換させて不安定な社会を乗り切ろう」という(例えば森永卓郎氏の)発想に批判的です。著者としては、今は緊急事態であり、とにかく具体的な対策をたてないと大変なことになる、というような感じなのかもしれません。が、何か違和感が残るのです。上の引用箇所では「諦めなければいけないのに夢を持つから絶望してしまう。だから、徐々に諦めさせるようにカウンセリングするのだ」みたいに言っていますが、何か変だ。そんな「カウンセリング」をするぐらいなら、「そもそも『諦める』必要などなく、今実現しているのだ」と「考え方を変え」てなぜいけないのか。著者はこう言います。

考え方を変えて、このような〔スローライフやローカルライフなど、あくせく働くことを是とせず、マイペースで働いて、時間的、精神的ゆとりを得るという〕ライフスタイルを実践できる人というのは、他人(この他人には、家族や親戚、友人も入る)の目を気にしないでいられる、よほどの「自信家」に限られる。そのような自信をつけるためには、相当のインテリジェンスとお金が必要である。結局、この方策も、そのままでは、勝ち組の「もう一つのライフスタイル」になってしまう公算が大きいのだ。(p.239)

 「徐々に諦めさせるカウンセリング」は提案するけど、なぜか「自信をつけさせるカウンセリング」は提案しないんですね?*1 自信をつけさせることはすぐ「諦めて」、「若者を諦めさせること」は根気よく(諦めずに)進めよう、というのは……。
 いや、私のこういう言い方は、的はずれと言われるのかもしれません。著者の主張は、「希望(夢)が煽られるから、絶望する。そしてかつての日本*2では、社会の仕組みが、うまく諦めさせる(逆に言えばそこそこ希望をかなえさせる)ようになっていた」という感じなのだと思います。それは何となく分かるし、近代がいわば「希望を煽る」社会だ、という非常に根深い問題については、私も考えなくてはならないと思います。が、上記のような著者の具体的な提案を読むと、どうも違和感がわいてくるのです。たしかに希望を煽る社会も問題かもしれないけれど、「うまく諦めさせられる」社会だって、それはそれでずいぶん嫌なものだと思うのです。どうも著者は、今の危機を問題にするのに急すぎて、やや、かつての日本を美化しすぎているきらいがあるように思いました。希望を煽られて絶望が爆発するのか、徐々に絶望させられて軟着陸させられるのか、どちらかしかないのでしょうか(著者は後者の方がまだ「まし」だと言いたいのでしょうが)。第三の道はないのでしょうか。
 結局、著者の「思想」に根本的なところで「希望」が見えてこないのです。実際この本の内容の講義を聞いた学生は「先生の話を聞くと暗くなる」と言っていたとか(p.253)。著者はむしろ、安易に「希望」を与えるのは無責任だ、と言いたいのでしょう。「『今、充実した人生を生きることはすばらしい』と賞賛することは危険である」とか、「現在に逃げて」はいけない、と著者は言う(p.4)。そして「いくら『ひとそれぞれ輝くものをもっている』と言われても、フリーで成功するのは抜きんでた能力をもった少数の人々であることを、多くの人は知っている(p.5)」とも言う。しかし、「少数の」(一流の)プロになれたことが「成功」なのでしょうか。今充実しているならば、それが「成功」ではないか。なぜそう思うことが「現在に逃げている」と言われなければならないのか。
 とにかく、希望が失われる社会を批判しているように見えて、実はこの本自体が絶望を煽っているんじゃないか、と思えてしまうのです。
 ところで著者はこう書きます。

「今まで研究したことを生かすべく」、というより「無駄にしたくないため」、せめてどこかの大学の先生になりたいと思う。それゆえ、修了後も、非常勤講師や塾講師など不安定雇用に就いて生活費を調達し、研究を続け論文を書きながら、ポストが空くまで何年も待つことになる。(……)何年も待ってポストに就ければよい方で、二〇年後には、滞留したままラインに乗ることができない中年のフリーター博士が一〇万人を超える規模で出現すると私は予想する。(p.167)

 ていうか、私は別に「無駄」とは思っていないんですが。ていうか、私の現状が「ラインに乗れ」ずに中年になった負け組研究者、と的確に(?)しかも、「勝ち組」の著者に規定されてなんかムカツいた……というのが、この本に対する私の感想に多分に影響していることは、事実なのですが(笑)。
 

*1:ていうか、「諦めさせるカウンセリング」が「充実」している社会、いやそもそも「カウンセリング」が「充実」している社会なんて、私にはおぞましいとしか思えないけど。

*2:著者は高度成長期の日本の社会システムを、よりよい(ましな)ものと考えているようです。