夢見る機会不平等

悪夢のはじまり

汝、神になれ鬼になれ
諸星 大二郎著
集英社 (2004.11)
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 1974年11月に『週刊少年ジャンプ』誌で発表された諸星大二郎の短編「夢見る機械」*1の主人公健二は、都会に住む平凡な中学生である。彼は、代わり映えのしない平均化された毎日を「たいくつで味気ない」ものと感じ始めている。

なぜだろう……いつごろからか……ひどくたいくつで味気ないんだ ぼくじゃなくてまわりが…… なぜか生彩がなくて…単調で……… 白じらしいんだ…!

 健二はこの不安を、近所のボロアパートに住む万年大学生(?)*2のシブさん(本名渋川立彦)に相談する。彼は健二の不安をこう分析する。

つまり……この社会はできるだけ個人をおしつぶしてなりたっているんだ みんながやりたいことやってたら 社会はバラバラだろ…… 法律だの道徳だのでがんじがらめにされてるんだ だから…だれも理想をなくして無気力になっていくのさ ケンだってだ… 子どもの時から勉強をおしつけられ 高校 大学と進み サラリーマンにでもなり…… 結婚でもして働いて…働いて その子をまた学校へやる… これが まあおおかたの人間のきまった生き方だな… なにをやるにしても社会の中にあるていどきまったレールがしかれてるんだ 現代では とびぬけた人間は必要としないんだ 才能も個性もつぶされて みんな平均化された人間ばかりにされていく……

 シブさんの話を聞いた健二もこう言う。「そういえば父さんも サラリーマンだけど 昔は音楽家になりたかったっていってたなあ…」。だが、健二の感じていた日常の「退屈」と「味気なさ」は、違う意味を持っていた。
(以下ネタバレあり)
 実は前日、健二は母親が目の前で壊れていくのを目撃してしまったのだ。といっても比喩的な意味でなく、二階に上がる階段で足を踏み外した健二の母親は、文字通り「壊れて」しまった。健二の母親はロボットだったのである。健二はそのことをシブさんだけにうち明け、屋根裏に隠した母親の「ボディー」をシブさんに見せる。アパートに帰り、健二に借りた『トイレット博士』を読みながら

井の哲学者であるこの渋川立彦が考えるに 現代ほど夢のない時代はない… 断絶 インフレ 社会不安…… 社会全体をおおう無気力と無関心… そんな中で平凡な毎日をすごしていた感じやすいひとりの少年がいて………ある日突然自分の母親がロボットだったと気づく…かれはどうするだろう!?

 と一人思索を巡らすシブさんだったが、結局この後シブさん自身がロボットに入れ替わってしまうのだった。いったいどうして……?
 次の日、再び退屈な一日がはじまり、健二はいつも通り登校した。だがその日はいつもと少し違った。いや、「同じ過ぎ」たと言うべきか。教壇に立った先生がいつものように退屈な授業を始めたのだが、そのせりふは昨日と全く同じだったのだ。不審に思った健二は「先生そこはきのうやりました……!?」と訴えるのだが、そのとたん、先生は「ガガ……ビビ……プ…プ…」と異音を発して壊れてしまう。先生もロボットだったのだ。ところが、生徒達はそれを見てもまったく驚く様子もなく無表情で坐っている(彼らもロボットなのだろう)。教室を抜け出し家に逃げ帰った健二を、いつの間にか「修理」された「母親」が出迎えた。健二はシブさんのアパートに駆け込むが、妙に冷静なシブさんはこう言って健二をなだめる。

だいたいね 日本人のなん人かがロボットだったとしても べつに さしさわりはないじゃないか たとえばだね…ケンの母さんがロボットだとしても 本ものの母さんとおなじことをするなら… ケンの母親の条件をそなえてることになるだろ…… 先生だってそうだ ちゃんと授業さえするなら ロボットでも先生だし べつにふつごうはないじゃないか…

 「そんな 気もち悪いよ それに本ものの人間は どこにいったの……」と言う健二だが、シブさんはまったく取りあわない。実はそのとき、シブさんもすでにロボットと入れ替わっていたのだった。
 こうした「異常事態」の背後に「世界財団ユートピア配給会社」なる謎の組織の存在があることを突き止めた健二は、新宿西口地下の「新宿の目」の奥にある*3この会社の本拠地に一人で乗り込む。そこで健二が目にしたのは、棺桶のような透明なカプセルに横たわった無数の人間たちだった。頭部に電極をつないだ彼等は、大脳に直接刺激を与えられることによって、「現実とまったくかわりない体験」をしている。そこで働く社員の説明によると、彼等は、「ユートピア配給会社」と契約し、ここで人工的につくられた「第二の人生」を生きている。ロボットたちは、ユートピア配給会社が現実社会に送り込んだ身代わりロボットだったのである*4。健二の両親も健二に黙ってこの会社と契約していたのだ。契約者は当初は一部の金持ちだけだったが、「夢をなくした一般大衆にこそユートピアは必要なんだ」と考えたこの会社の理事長の熱意によって一般の契約者が募られるようになった。政府からの多額の補助金、企業の融資などのせいもあるが(そもそも政財界がすでにほとんど身代わりロボットなのだが)絶対強制はしないにもかかわらず、喜んで契約を結ぶ人々が後を絶たないのだという。社員たちと理事長(もちろん彼等もすでにロボット)に「たいくつな毎日などロボットにまかせ……」「永久に夢がかなう世界へ」と強い勧誘を受けた健二は……?

個性=優性と内なる格差

 それにしても、漫画の冒頭でシブさんが語る社会分析は極めて凡庸なものだ(もちろん身代わりロボットでも充分考えつくレベルのものだ?!)。しかしなかなかに興味深い。いわく、「社会の中にあるていどきまったレールがしかれて」いて、そのレールを進む人々は「才能も個性もつぶされて平均化された人間ばかり」になっていく。そして、平均化され、誰かと同じ、昨日と同じ、退屈な日常を送る人々は「理想をなくして無気力になって」しまう。
 だが、なぜ平均化された人間は無気力になるのだろうか。平均、つまり「とびぬけて」いない、ということが「理想」を失わせるのならば、結局、人々にとっての「理想(夢)」とは「とびぬけた人間」になることなのだろうか? 実際、カプセルに入った健二の父親は、「夢」の中で「名ピアニストとしてはなばなしい音楽家の人生」を送っているらしい。つまり、家で趣味のピアノを弾いているだけでは、彼の「理想」は満たされなかったわけで、「名」ピアニストとは、人より「とびぬけた」ピアニストということなのだ。健二の母親の見ている「夢」は、もっと強烈である。

ここでは おかあさまは大富豪の独身女性で 豪華なヨットで世界中を旅行し… 流行の服をきこなし 社交界の花形で… パーティーではなん人もの貴族や映画スターにかこまれ……この世界ではだれの母親でも妻でも国民でもなくなんの義務もおわないですむのです

 「とびぬけた人間」とは、何のことはない、とびぬけた金持ち、とびぬけた(いわゆる)「勝ち組」だったというわけだ。こうしてみると、平均化した社会で「おしつぶされる」とされる「個性」とは、実は「優性」のことなのだ。「とびぬけた貧乏人」は決して「個性」とは言われない(ちなみに、上の例でもあきらかなように、平均化を逃れたいという人々の「夢」自体が、実はきわめて平均化され、規格化されているのだが)。
 ところで、ユートピア配給会社の社員は「規格化された管理社会では個人の夢や理想をかなえることはほとんど不可能」だと言うが、それはそうだろう。彼らの「夢」とは、多くの「夢をかなえられなかった人」(つまり多くの「負け組」)が居てはじめて成り立つようなものだからである。この夢は「格差」を燃料としているのだ。そして、「母親」「妻」「国民」「サラリーマン」等々……そうした人生は「夢をかなえられなかった」人生とみなされる。と同時に、それは誰かがはたさねばならない「義務」ともされている。「みんながやりたいことやっていたら社会はバラバラになる」とシブさんは言っていたが、社会を支える(とされる)「みんなのやっていること」こそが、「やりたくない」ことなのだから、それは当然のことである。そうした「やりたくない」こととは、「誰かのため」であると同時に「誰がやってもいい」ものでしかない。言い換えればロボットでもつとまるということだ。つまり、人々は身代わりロボットを立てる前から、すでにロボットだったわけだ。ただし、このロボットは夢を見てしまう。まさしく、「夢見る機械」なのだ。
 結局、「格差社会」の「格差」とは、社会階層間の格差であると同時に、いやそれ以上に、個々人にとっての内なる格差なのだ。すなわち、「理想(夢)の自己」と「現実の自己」の格差、「あるべき(本当の)自己」と「いまある(ニセの)自己」の「格差」、である。夢見る機械たるわれわれはいわば「同一性障害identity disorder」に陥っているわけだが、これを「治療」するにはどうすればいいのか。
 一つの方法は、身体を捨象し、「理想の自己」と同一化してしまうことだ。簡単なことだ。「会社」と契約し、「桶の中の脳」になってしまえばいい。そこには定義上理想の自己、理想の人生しかない。内なる分裂、内なる格差は解消される。
 もう一つの方法は、精神を捨象し、「現実の自己」と同一化してしまうことだ。これも簡単だ。「理想」を捨て、「夢」を捨て、「あきらめ」ればいいのだ。自分でできなければ、「職業カウンセリング」でも受ければよい。そうして、われわれはまぎれもない「ロボット」になる。心配しなくても仕事はいくらでもある。「会社」が派遣先を決めてくれるだろう。やはり内なる格差は解消される。

夢見ぬ機械

 ところで、『希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』の山田昌弘氏(やそれを評価する内田樹氏)の考え方は、実は上記の第二の方法に限りなく近いものではないだろうか。そして、私はどうしても、斎藤貴男氏が『機会不平等 (文春文庫)』で紹介した三浦朱門氏の発言を思い出してしまうのだ。

 学力低下は予測し得る不安というか、覚悟しながら教課審をやっとりました。いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。つまり、できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。
 トップになる人間が幸福とは限りませんよ。私が子供の頃、隣の隣に中央官庁の局長が住んでいた。その母親は魚の行商をしていた人で、よくグチをこぼしていたのを覚えています。息子を大学になんかやるもんじゃない、お陰で生活が離れてしまった。行商も辞めさせられて、全然楽しくない、魚屋をやらせておけばよかったと。裏を返せば自慢話なのかもしれないが、つまりそういう、家業に誇りを与える教育が必要だということだ。大工の熊さんも八っつあんも、貧しいけれど腕には自信を持って生きていたわけでしょう。
 今まで、中以上の生徒を放置しすぎた。中以下なら”どうせ俺なんか”で済むところが、なまじ中以上は考える分だけキレてしまう。昨今の十七歳問題は、そういうことも原因なんです。
 平均学力が高いのは、遅れてる国が近代国家に追いつけ追い越せと国民の尻を叩いた結果ですよ。国際比較をすれば、アメリカやヨーロッパの点数は低いけれど、すごいリーダーも出てくる。日本もそういう先進国型になっていかなければいけません。それが”ゆとり教育”の本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ。(単行本版p.40-41)

 「ゆとり教育」とは、上記の発言に見られるように、学力の「平均」化を否定する教育なのだ。それは即ち、「いたずらに夢を与えない教育」でもある。「なまじ中以上は考える分だけキレてしまう」という下りは、不良債権化した「夢見るフリーター」の増加を問題視する山田氏の口振りと似てはいまいか。そう、だからこれからは「考えさせない」こと、「夢を見させないこと」が大事になってくる、というわけだ。いみじくも三浦氏は「トップになる人間が幸福とは限らない」と言う。「とびぬけた人間」は不幸なのだ。「母親」「妻」「国民」「サラリーマン」たることに「誇り」を持って、「貧しいけれど腕には自信を持って」生きていけばいい。ロボットに精神はいらない。円滑に機能させるための「実直な精神」回路を除いて……。*5

別の夢?

 ではお前は、「夢」を煽り、競争社会を肯定するのか? みんなが「とびぬけた」存在になろうとする「夢」を肯定するのか? と言われるかもしれない。しかし、そもそも「夢」とは、そのようなものでなくてはならないのだろうか? そのことを考えたとき、われわれは、われわれの「夢」が実は最初から「会社」によって配給されていたのではないか、ということに気づくのである。新宿の目の地下、「会社」の本拠地には、巨大な「高性能コンピューター」がある。このコンピューターは、身代わりロボットのコントロール、カプセル内部の人間の新陳代謝コントロール、会社運営、など「すべて」を行っているのだが、それはまた、カプセル内部の人間たちに「夢」を見させる「ドリームマシン」に接続されているのである。つまり、このコンピュータは「夢見させる機械」であったのだ。そして、ひょっとすると、夢見る人々は、カプセルに入る前から、すでに機械によって夢を配給されていたのではないか? われわれはすでに桶の中の脳だったのではないか?
 さてでは、われわれは、われわれに夢を配給すると同時にわれわれの生を機械にしてしまうこの「機械=会社=社会」の外に出ることはできないのだろうか? われわれは「機械=会社=社会」によって配給されるのではない、別の「夢」を見ることはできないのだろうか? 漫画のラスト、健二は、「うそだ どこか狂ってる こんなものユートピアなもんか!」と叫んで、ロボットをコントロールし、カプセルに夢を供給するする巨大機械(コンピューター)を破壊し、外に、地上に出る。だが、そこで健二を待っていたのは、動きを止めたロボットの群だった。実は健二以外の人間はすべてロボットと入れ替わっていたのだった。健二は「夢なんだ… これこそ悪夢なんだ……」とつぶやきながら町をさまようが、そのとき、巨大コンピューターの内部では自動修理が進行していた。「10分で自動修理可能! 地上社会秩序に大きな影響はないと思われる… ピピ… ピ」

なにも動かない……死んだ町……
だが 10分たてば…
また 平凡で たいくつな毎日が…………

蛇足

 ところで、最後に一つ気になることがある。「ケン ゆるせ オレももう浮世につかれた…」と言って結局「会社」と契約したシブさんだが、マンガの中では結局明らかにされない、シブさんが見ようとしていた「夢」とは何なのだろう。やはり、しがない市井の哲学者ならぬ「大哲学者」として、知識人界、はたまた文壇で活躍する、はなばなしい人生だったのだろうか*6

*1:上記の文庫版自薦傑作集が現在もっとも入手しやすいと思いますが、私が持っているのは単行本の『夢みる機械 (ジャンプスーパーコミックス)』です。

*2:希望格差社会』の山田氏に言わせると「不良債権」化した高学歴フリーターとかいうことになるのだろう。

*3:実在する「新宿の眼」を見るたびに私はこの漫画のことを思い出す。

*4:誰もが気づくように、この名作マンガのストーリーは映画「マトリックス」(「ブレードランナー」も?)をはるかに先取りしている。

*5:私はhttp://www.iwanami.co.jp/moreinfo/026714+/mokuji05.htmlhttp://www.geocities.co.jp/CollegeLife/6142/ronbun/machine.htmlなどでは上記とはやや違ったアプローチでロボットの問題について考察しています。興味がある方は参照していただけると幸いです。

*6:例えばサルトルのように!?