ボルシェビキー

 さて、『週間ダイアモンド』では、齋藤孝氏は「齋藤孝の仕事脳の鍛え方」という連載コラムももっているようです。「仕事」というネーミングはさすがにキャッチーだな、と思わせますが、今回は、「勝つか破産か モノポリーで知る 資本主義の本質」と題された、ゲーム「モノポリー」の分析です(p.57)。氏は、「モノポリー」が「相手から搾取し、たたきのめし、破産に追い込む」「快感」を持っていると言います。このゲームでは、勝った者は「一抹の罪悪感とたまらない優越感」を感じ、負けた者は「尋常ではない悔しさ」を感じる。「これほど熱くなるゲームは、ほかにあまり例がないだろう」という氏は、その後で、「モノポリー」に関する様々なデータを紹介してくれます。曰く、「モノポリー」は1935年アメリカ生まれ、今日までに世界80カ国で2億セットも売れている、云々、云々……。なるほど、興味深いですね。さて、その後、齋藤氏はこのゲームと「資本主義」の関係を論じています。

 そもそも、”モノポリー”とは「独占」という意味だ。ゲームとして発売される前は、大学の経済学・経営学の教材だったともいわれている。確かに、このネーミングといい、”一人勝ち”を産み出すルールといい、資本というものの本質を理解させるには最適だ。富める者は「レンタル料」という名の不労所得でますます富み、奪われる者は骨の髄まで奪われる。運と勘と交渉術で一等地にホテルを建てることもできるし、一歩間違えば即退場である。そこには善意も温情もない。共産主義にケンカを売っているようなゲームだが、だからおもしろいし、熱狂するのである。
 考えてみれば、共産主義ではこうはいかない。全員が平等で、計画どおりに働き、時々ストライキやデモを起こしてみるといった程度では、ゲームにならない。あったとしても退屈で、労多くして幸すくなそうだ。つまりゲームの世界においても、資本主義は共産主義を凌駕しているのである。

 ……私は今まで、「ストライキやデモ」というのは、資本主義社会で虐げられた労働者たちが行うもので、共産主義社会というのは(少なくとも建前上)ストライキとかデモがなくなる社会なのだと思っていました*1……眼から鱗が落ちました。まあ細かいことにこだわってはいけない、ということだと思います。「共産主義者というのはストとかデモとかそんなことをするやつらだ」というアバウトなイメージが大切なのでしょう。
 それから、齋藤氏は、共産主義をモデルにしたゲームはつまらなそうだ、と考えているようですが、そうでしょうか。スターリニズム下のソ連の党官僚たちの世界なんて、スリル満点で、退屈どころではなかったのではないでしょうか。密告あり、陰謀あり、失脚あり……運と勘と交渉術で幹部に上り詰めていくこともできるし、一歩間違えばラーゲリ送り。そこには善意も温情もない。どうでしょうか、「モノポリー」ならぬ「ボルシェビキー」とかいうゲームを作ったら、結構売れてしまうかもしれません……なーんて言おうと思えばいくらでも言えそうです。逆に、「資本主義世界の労働者は、退屈で、労多くして幸すくない生活を送っている。だから、資本主義モデルのゲームなんてつまらない」とも言えそうですしね。
 いや、そんなことは関係ないのですよね。とにかくこの文章で著者が言いたかったことは、

  • 共産主義とは「全員が平等」だったからダメだったのだ
  • 平等ではなく「一人勝ち」を生み出す「おもしろい」社会だから「資本主義は共産主義を凌駕している」のだ

 と、いうことですよね。その主張はとてもはっきりと伝わってきました。これは非常によく聞かれる大変「わかりやすい」共産主義批判(にもなっていないけど)ですよね。だとしたら、最初からみんなが思っていることを主張すれば、「説得力」が増すことも当然ですね。
 それから、この文章は、たくさん本を書いて売れている大学教授である、という著者の肩書き、また、最初に述べられるさまざまな蘊蓄、などによって、「説得力」を高めるテクニック(?)が使われています。論理学では、そういうやり方は「権威による論証」とかいって批判されたように思いますが、もちろん説得力は論理力とは違いますから、そういうものも積極的に利用していけばいい、ということなのでしょうね(やれやれ)。

*1:あったとしてもそれは「共産主義に反対するデモ」ではないかと