語法を語る語法について

http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20060408/p1
 「言い方」とか「語法」の問題が大事だ、という話はよく聞く。特に、左翼的な主張について、「内容はともかくああいう「言い方」(「審問の語法」とか)では多くの人々の賛同を得られない」とか、「共感を得られないのはああいう言い方をする人も悪い」というようなことがしばしば言われる。もちろん、そうした指摘は当たっている面はあると思う。そして、「言い方なんかどうでもいい」とは言えないことは確かである。しかしそれにしても、それはあくまで「言い方「も」大事」ということであって、言い方のことしか問題にしない、という(例えばいわゆる左翼に対する)批判には、やっぱり違和感がある。
 たとえば、「あの商品はパッケージのデザインが悪い。あんなんじゃ売れない。」とどこかで言っている人がいたとする。で、そういうことを言っている人が、「その商品が売れたらいい」と思っていて、その思いからそういう発言をしているなら、まだわかる。だが、その商品のことなんか実はまったくどうでもよくて、買ったことすらなかったりするのに、そういうことを言う人も結構いたりする。
 「納豆はあの臭いがいやだ。あの臭いさえなければ……」などと言っている人のどれぐらいの人が、超爽やかフレーバーの納豆が開発されたとして、「こんなのを待っていた」とそれを食べるだろうか。結局納豆嫌いだってだけちゃうんかと。ちょっと話ずれだけど。
 だいたい、左翼的ではない言説、あるいは左翼を批判する言説の中にだって(いやむしろそっちのほうが)、例えば下品で攻撃的な言説などいくらもある。だが、例えばだけど、テレビ番組の中の、下品で差別的な「言い方」を批判する人がいたら、左翼の「言い方」を批判してたその同じ人が、「面白ければいいじゃないか。言い方を変えたって、言葉を変えたって差別はなくならない。言葉狩りだ」とか言ったりする、ような気がするんだよな。しかしそれっておかしくないだろうか。まあいいんだけど。
 あと、「戦略」の問題だけど、「左翼はもっと戦略を考えるべきだ」的な、指南のような「言い方」。実はそういう風に「戦略」をことさらに問題にすること自体が、「戦略」として機能しているように思う。左翼の戦略のまずさだけをことさら取り上げる言説が氾濫する、てことは、より、その主張に共感しない人を増やす効果を持つんじゃないか?そういう「効果」についてはどうなんだろうか。
 まあでも、誰かの「戦略」を云々するのは、高みから語る事自体が持つ快感から来ているのかもしれない。私もやってしまっているように思う。「なんでそこでピッチャー変えないんだ。」とテレビの前で監督の戦略を批判するような。とりあえず監督より偉くなれるわけだ。ただ、世にある多くの「左翼批判」のようなものは、どっちかっていうと、巨人ファンが阪神*1の戦略の下手さを冷笑するような感じで、感じが悪いんだよね。

*1:昔の弱かったときのね