集列と同一性

 コメント欄でこっそり書いていたものを(笑)id:sumita-mさんに引っ張り上げられてしまったのでhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060416/1145158222こちらにもあげておきます。

# sarutora 『「地域みまもりネットワーク」は、まったくの私の思いつきだったのですが、ひょっとして、と思ってググってみたら……やはり実在しました!石川県です。 http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/law/pref_plan/xp170101.htm

・民生委員が、担当地区のねたきり高齢者等の災害弱者の所在を明らかにしたマップを作成

・市町村、地区民生委員協議会、民生委員が保有し、災害時や日頃のみまもり活動に活用

とのこと。

 それはともかく、「相互扶助ネットワークのようなもの」と言えば簡単ですが、色々難しい。「もう一度破壊された「中間的共同体」を再構築すること」というようなことなら内田樹だって言ってるわけで(「ふれあいをもう一度」かな、わあ気持ち悪い)。一方で「日本的中間集団こそが差別の根源」みたいなことを言う人もいる。

 我田引水すれば、その辺のことは、後期サルトルの重要なテーマだったと思います。(システムに取り込まれた)「バラバラ」な人間の集合をサルトルは「集列」と呼ぶわけですが、そこからの離脱としての「仲間作り」の契機が「集団」、そしてその純粋なあり方はバスチーユ襲撃のときのような「溶融集団」なわけです。しかし、それは瞬間的なものでしかなく、集団はすぐさま集列に変質していく。つまり「仲間はずれ」が生まれてしまう。

 自発的「集団」としては、JR脱線事故の直後、(詳しいことは知らないのですが)近くで働いていた人たちが自然と集まって救助活動を行ったという話を思い出します。神戸震災の時もそういうことはあったでしょう。しかしそれは瞬間的なものです。そこでの結びつきを「固定」し、「持続的」組織にしたら(たとえば「救助団」とか)もはやそれは集列への変質が起こっている。ましてや、行政や警察のイニシアチブで作られる、自発的ではない組織など、サルトルの言う「集団」とは言いがたいわけです。

 一方、別の問題として、関東大震災の時は、朝鮮人の虐殺が起こった。もちろん警察の扇動があったのは明らかですが、しかしこれも、自発的集団だったようにも思える。安易に結び付けてはまずいですが、フランス革命の時も、初期から民衆による虐殺事件が起こっているわけですよね。集団は、解放の契機とも差別の契機ともなりうるようにも見える。

 しかし、サルトルは、虐殺のようなものが起こるのは、人々に「集列的思考」が内面化されてしまっていたせいで、集団そのものは差別的なものではありえない、という風に言います。サルトルは、1968年、ヴォージュの工場定着運動の中で12年ぶりのストが組織されたとき、労働者の間からそれまであった差別的思考が次々と消えていった、という話を書いています。このオプティミスムにはちょっと虚をつかれる思いもしますが、私はこの辺がサルトルのすごいところではないか、という気がするのです。

 いずれにせよ、サルトルは、「集団」というのを何か固定的な「これこれこういうもの」として称揚しようとしていたというより、脱疎外(脱集列化)としての集団化の「運動」を肯定しようとしていたのではないか、と思います。』 (2006/04/14 00:11)

 まあちょっと単純化した説明ではあるのですが。その上で、sumita-mさんが紹介されているYoungさんの議論ですが、引用していただいたものからだけではよくわからないところもありますが、

Youngによるサルトルというのは、サルトルのオリジナルからはやはり外れたものなのだろうか。

 うーん、やはり私にはそう見えます。とにかく、集列sérieないし集合態colletif*1を肯定的にとらえる、というのは、サルトル的にはないと思います。それから、Youngさんは集列性をidentityと対立するものであるようにとらえているようですが、その辺も、『弁証法的理性批判』の枠組みからするとちょっと違和感があります。むしろサルトルにおいては、「集団」こそ、identityと対立するものです。
 サルトル哲学は、「自己同一的な精神に還元できぬ他者、多数性、差異さらにはそういったものの無限に行う運動・生成を排除してしまう哲学」である、という風にしばしば批判されるわけですが*2、北見秀司さんは、そういう悪しきイメージに基づいたサルトル観を批判し、サルトル哲学を

様々な同一性を破壊し、「多」と「他」と「差異」を発見・肯定する過程として捉えること*3

を主張していますが(そして私もまったくそうだと思っているのですが)別の論文で、『弁証法的理性批判』における「同等者Même」という概念についてこのように解説されています。

この[溶融集団の]空間で肯定されるのは複数である限りでの自由である。「同等者Même」は「同一的なものl'identique」を意味しないし、『同等者』の集団の統一性(unité)は概念的同一性(identité)に還元され得ない。*4

 というわけではあるのですが、たとえサルトルのオリジナルとずれたものであれ、サルトルの、特に『弁証法的理性批判』について肯定的に取り上げる論者がいる、ということ自体が、興味深いです。なにしろ、サルトルなど、しかも『弁証法的理性批判』など、「読むべき価値などない」と思っている人が非常に多いようなので。

*1:この二つはほぼ同じ意味で使われ、集団groupeと対立します。

*2:サルトルにおける二つの「他者」−『道徳論手帳』の問いかけるもの−」『現代思想』1987年7月p.114

*3:同上

*4:「後期サルトルヒューマニズム-ポスト構造主義の後で-」『理想』「特集サルトル・今」2000年no.665、p.60