分断する思考とデモ

分断する思考

「若者はどうしようもない」と言う老人。
そう言う老人に対して「老人はどうしようもない」と言う若者。

「モテはどうしようもない」と言う非モテ
そう言う非モテに対して「非モテはどうしようもない」と言うモテ。

「デモするようなやつらはどうしようもない」と言う非デモ。
「デモしないようなやつらはどうしようもない」と言うデモ。

 こうした思考を、サルトルは「集列的思考pensée sérielle」と呼ぶ。サルトルはそれが「わたし自身の思考ではなく〈他者〉となったわたしの思考」であり、「無力さimpuissanceの思考」である、と言う。サルトルはまた、それを「分断する思考pensée qui sépare*1」「分離主義的思想idée séparatiste*2」とも呼ぶ。

 いま一つの企業を想像してみよう。そこでは二〇年か三〇年このかた、ただの一度もストライキが起こらず、だが「物価高」のために労働者の購買力はたえず減少しているとしよう。労働者の一人ひとりが、賃上げ要求の行動に出ることを検討しはじめる。けれども二〇年に及ぶ「社会的平和」は労働者のあいだに少しずつ集列性の関係を確立してしまった。いっさいのストライキは――たとえ一日だけのストであっても――労働者が再び集団化することを要求するであろう。このときに集団の思考の最初の表明に対して、集列的思考――分断する思考――は頑強に抵抗する。*3

 二〇年か三〇年、「社会的平和paix sociale」によってストライキが起こらない状態、とは、まさに現代の日本にも当てはまると言えるだろう。そして、こうした状態、すなわち、「分断の関係性」「関係性を否定する関係性」を内面化した人々の「集列的思考(分断する思考)」は、ストを呼びかける集団の思考に対して「頑強に抵抗する」のだ、とサルトルは言う。

 その集列的思考は人種差別的なものであり(移民労働者はおれ達についてこないのではないか)、女性蔑視の思考であり(女どもには俺たちのことが分かるまい)、他の社会的カテゴリーに敵意を持つものであり(小商人も田舎の百姓も俺たちに協力しないだろう)、不信の思考であり(俺の隣のやつは〈他者〉だ、だからやつがどんな風に反応するか俺には分からない)、その他もろもろの形をとるだろう。こういったすべての分離主義的命題は、労働者自身の思考を表すのではなくて、他者となった彼らの思考を表現しており、その他者は、みなが同一identiqueでしかもばらばらに分離している状態を維持しようとしている。。*4

分断への抵抗としてのコミュニケーション

 だが、サルトルは、「集団」が作られたとき、こうした集列的思考は自然と消滅する、と断言する。

 再集団化が成功すれば、この悲観主義イデオロギーはもはやその痕跡も見いだせまい。それは、集列的秩序と、半ば人が身に蒙り半ばすすんで受け入れた無力さimpuissanceと、この両者の維持を正当化する以外になんの機能も持ってはいなかったのである。*5

 集団が作られると差別的思考が消滅する。これはあまりにオプティミスティックな空想とも思える。だが、サルトルにとってはこれは断固として「現実に起こりうる」ことだし、「現実に起こった」ことなのである。サルトルは、ヴォージュ地方の工場に「定着」*6したマオ派の活動家ジャンの報告を紹介している。

 具体的な行動action concrèteが――たとえ一時的であれ――統一を要求するや否や、集列的思考はもはや表明される機会も見いだせなくなる。なぜなら、集団は集列的に考えることも行動することも決してあり得ないからだ。ジャンは、人種差別や女性蔑視が行動の開始とともに消えてゆくこと、それも言葉によって指摘され名づけられ糾弾されたからではなくて、こういったものがもはや人の必要としなくなった分離主義的思想の諸側面だからであるということを、的確に示している。*7

 世代の分断について単に語ったり、嘆いたりすることは、決して分断をなくすことはできない。「分断の思考」をなくすことは、「分断」をなくすことによってしかできない。そして、分断をなくすのは、結合の「行動」によってしかできない。「分断」とは関係性の否定であり、すなわちそれはまさしく「コミュニケーション」の否定である。そして、逆にいえば、コミュニケーションとは、「分断への抵抗」そのものなのである。コミュニケーションとは、コミュニケーションについておしゃべりすることではなく、「分断に抵抗すること」である。
 デモも一つのコミュニケーションであろう。しかし、分断への抵抗はデモでなくてはならないわけではない。「権力が生を対象とするとき、生は権力に対する抵抗となる」(ドゥルーズ)。

反戦落書き」のK氏は、「野菜炒め」と「豚汁」を作ることを中断し、スプレーを手にして公園に向かった。それはまったく私的な振る舞いだが、いっさいの「功利的な問い」から離脱しているという意味で、公的な行動ともいえる。トラックの運転手についても同様である。彼にとって、デモは手段ではない。「路上で踊るという行為自体」を実現することが、そのままで政治的なものとなる。生政治においては「欲望に忠実」な抵抗が公共性と重なり合うのであり、そこで出来しているのは、みずからの生と世界に対する肯定である。われわれはその肯定を真に享受しているだろうか? 生政治を生きるとは、ネオリベラリズムの生の統治に抗して、手放してはならない感性的なものの地平に降り立つことにほかならない。*8

 分断への抵抗としての「コミュニケーション」は、いっさいの「功利的な問い」から離脱している。それは「役に立たない」しかし「具体的な」行為であり、「目的を持たない」行為である。いや、「集列から離脱する」という唯一の目的をもった「行為」である。したがって、それは瞬間的なものであらざるをえない。その意味で、具体的な行動が要求する統一についてサルトルが付している「たとえ一時的provisoirなものであれ」という言葉は、非常に重要なものであると私は考える。

何かやるときに、成功させようと思わない方がいい。やっても無駄なんだと、最初から高を括ってもいいと思う。すくなくとも、無駄じゃないのって言われたら、それに反論する必要はない。(……)たとえば、デモで戦争止められないと言われたら、反論できないわけです。でも、それは、やっとかなきゃいけないからやるんだ、と。(……)それは自分の楽しみを忠実に模索していくことでもあって、たとえばストライキをするときも、その結果を気にするのではなくて、ストで楽しいとか、明日も楽しいとか、そういうことを大事にしていけばいいのではないか。自分の欲望が十分に開花しているかどうか、それを注意深く見ていけばあんまり間違えない。地図がなくても歩いていけます。*9

*1:Sit.X,p.79.

*2:SitX,p.44.

*3:サルトル「まぬけ狩り選挙」」『シチュアシオンⅩ』p.79,鈴木道彦訳p.75. この論文の主題は、人々を孤立化させ、無力にするものとしての「選挙」の批判である。

*4:同書p.79邦訳p.75-6.

*5:同上

*6:活動家が工場に入り込み、労働者に混じって働きながら活動をすること

*7:サルトル「フランスにおけるマオ派」『シチュアシオンⅩ』p.43-4.,鈴木道彦訳p.40.

*8:白石嘉治(白石嘉治・大野英士編『ネオリベ現代生活批判序説』p.145.)

*9:矢部史郎談(『ネオリベ現代生活批判序説』p.177-9