イエスでもノーでもない消極分子(色川大吉)

 以下は、かつてネットに発表するつもりなく書いたメモです。書きなぐったものなのでかなり素朴な見解、表現等あるのですが(いや推敲したって大して変わらんのだが)ちょっと最近の話題に関連するのでのせます。しかし、長いので、これに関するコメントは別エントリーにします。

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色川大吉『近代日本の戦争』(岩波ジュニア新書)

近代日本の戦争
色川 大吉著
岩波書店 (1998.6)
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を読んだ。ジュニア新書だから基本的なことが短くまとまっていて、不勉強な私にはとても勉強になった。
 日中戦争は明らかに侵略戦争だった。そして、太平洋戦争も、南方のエネルギーが欲しかった軍部によって引き起こされたもので、ABCD包囲網があったからとか(むしろ逆に日本が警告を無視して南進したから包囲網が引かれた)、西欧列強からのアジアの解放というのは、後付の理由でしかない。
 日中戦争になぜ勝てなかったのか。それは中国の民衆の抵抗があったから。日本の軍部は民衆の力を舐めていた。
 そして、日本が軍国主義で一色になっていた、というが、それはむしろ中流階級の一部のもので、その時代も庶民は沈黙してしたたかに生きていた。そのエネルギーが戦後噴f出した。
 おそらくこのしたたかな庶民と、したたかに抗日戦争を戦った中国の民衆はつながるものがある、ということだろう。しかし、実際に殺したのは日本の「庶民」でもあるんだけど……。
 したたかな日本の庶民に関しては、例えばこうある。

 私の考えでは当時、積極的に戦争の目的を信じ、銃後で国策に協力し、「尽忠報国」の精神で奮闘していたのは、内地にいた日本人八〇〇〇万人のうち、七,八〇〇万人ぐらいではなかったかと思う。その積極分子は日本社会の上流階層にはいない。下層階級にも少ない。ほとんどは中流階級、中間層に属する人びとであったろう。全国の市町村(行政)の助役以下の役付き公務員、小・中学校の教頭や教師の一部、神官や在郷軍人会の幹部、愛国婦人会や青年団の世話役、町内会長や部落長や隣組長、警察官や憲兵、それに軍需工場の下級職制や実直な勤め人、職人、農民の一部、最後に多いのは軍国主義に洗脳された純情な学校生徒たちであった。彼らの一部は予科練や少年戦車兵、女子挺身隊や満蒙開拓義勇団などに応募して悲惨な状況におちいった。
 他の二,三千万人は、その人たち(積極分子)の近くにいたため煽られて同調した人々であり、残りの国民はイエスでもノーでもない、時勢まかせの庶民、物いわぬ消極分子であったと、私には思える。この消極層の存在が積極分子をいらだたせていたのである。
 一九四三、四四年ごろは決して「一億火の玉」とか「一億一心」などではなかった。私はそのことを動員令で千葉県や静岡県の農村に一、二ヶ月も滞在し、農家でいっしょに暮らしていたとき、はっきり感じた。(中略)日本の消極層のあいだには、すでに厭戦気分が色濃くただよっていたのである(この人たちが活性化するのは敗戦直後、積極分子が「虚脱」したときだ)。
 どんなにお上が敵性英語の使用禁止を指示しても、このイエスでもノーでもない人びとは、「ストライク」を「よし一本」といったり、「オーライ」を「発車」、「バック」を「背々」、「アウト」を「ひけ」などとはいわなかった。ムラでも木炭自動車が走っていたが、だれもが「発車オーライ」といっていた。軍の命令で、レコード会社のコロムビアを「日蓄工業」といったり、キングを「富士音盤」、ビクターを「日本音響」などとすぐ改名したのは、上の方の時局便乗組の人だったのである。(71-3ページ)

 もう一つ、太平洋戦争は、アメリカとの国力の差を無視した、無謀な戦争だったということが繰り返し書かれている。無謀な戦争を引き延ばし、多くの国民を死なせたことに、軍部と天皇は責任を持つ、と書かれている。
 さて、色川氏は本書で戦後も振り返っている。その中で、ベトナム戦争にも長い章を当てている。
 そこでは、日中戦争と同じく、なぜベトナム戦争アメリカが勝てなかったかというと、それは民衆(むしろ人民というマルクス主義的言葉を使った方がいいのかもしれないが)の抵抗があったからだ、というようなことが書いてある。
 色川大吉は実はちゃんと読んだことがないのだが、この本はわかりやすく大変面白かった。
 ただ、やはり疑問がわいてくる。
 それは、ベトナム戦争のことだ。太平洋戦争は、アメリカに無謀な戦いをいどんで日本は必然的に負けた、というような感じで書かれている。
 一方ベトナム戦争は、やはり当初は無謀な戦いと言われたと思うが、民衆の抵抗によって必然的にベトナムが勝った、というような感じで書かれている。そこに、ややひっかかりを感じた。
 むろん、軍部の侵略戦争に巻き込まれた日本の庶民と、アメリカ帝国主義に対する自発的な抵抗を戦ったベトナムの民衆は立場が違う、というような理屈はおそらく予想できるし、それも一理あると思う。
 が、ベトナムの民衆だって、スターリンソ連米帝の覇権争いに巻き込まれたという見方もできるかもしれない。やはり、いちいちの戦争の勝利に民衆の抵抗というファクターを入れた必然性を問うことは、それ自体がイデオロギーではないか。
 これ自体、またもや、歴史に意味はあるのか、的サルトル的議論につながるが。
 戦争の勝敗自体は偶然に決まるのか、必然的に決まるのか。というか、国家の戦争の勝ち負けなどどうでもいいということか。
 いや、民衆は「戦争」を「戦い」はしないのだ。国家の戦争を「戦う」主体などというものがあるとするならば、それはそれ自体が民衆に敵対する国家でしかない。
 庶民は国家の戦争に巻き込まれるが、常にそれをしたたかに生きるのだ、と。
 最後に民衆が勝つ、みたいな話。
 なるほど。
 そこで、国家の戦いと民衆の戦いという二つの戦いを区別すれば簡単だけど、それは簡単すぎる。
 しかしひっかかる点もある。「物いわぬイエスでもノーでもない人」が一番強いんだ、そう言う人を馬鹿にするのがチシキジンだ、と、いうことだろう。
 軍国主義「積極分子」がいらだってもこういう人はけっして動かすことはできなかった、と。逆に言うと、こういう人は反戦主義「積極分子」がいくらいらだっても動かない。反戦運動などしない分子である。だから、戦争を起こすことはしない(できない)かもしれないが、戦争を止めることもしないのではないか。しかし、戦争が起こったら消極分子も大きな被害を受ける(立ち直りも早い?ということなのだろうが)
 また、システムとしての戦争を支える作業は、結局消極分子も担う。赤紙を拒否したりはしない(ノーではないから)。
 では、ノーの積極分子である反戦の人は(これも中間層だろう)どうすればいいのか。どんな役割を持っているのか。役割を持っていると考えるような古典的チシキジン論がだめだったということか。では何もせず時局のなすがままにいるのが一番いいとでもいうのか。難しいところである。

 さてでは、話を変えて、国家の戦争の勝敗はどうやってきまるか。もちろん、さっき書いたように、偶然というファクターも無視できないだろう。元寇の時の神風とか?
 が、太平洋戦争に負けたのは、国力の差だと言われる。その「国力」の差とはなにか。アメリカの資本の原始的蓄積は、黒人奴隷の搾取によってなされた、と言われる。とすると、まわりまわると、黒人達が搾取されたおかげで日本は負けた、と。
 民主主義がファシズムに勝った、なんてうそっぱちなのはもちろんだ。