デモの行き方改めデモのつぶし方

アブナイ人たち

 先日の「デモの行き方1」という記事では、まずさしあたり、私が参加した「ただ歩くだけのどうってことのないデモ(と私が思っていたところのもの)」について紹介し、デモがいかに「敷居が高くない」かを訴えるつもりでした。で、2では、私が参加したことのあるいわゆるサウンドデモ系のデモのことを書いて、そっちはちょっと雰囲気が違って、おびただしい警官の数(下手するとデモ隊以上)とものものしい警備がある、というようなことも書こうと思っていました。そこでは、using_pleasureさんの言うような

たしかにデモに参加すると、なんだか政治活動を行ったという「実感」を得ることができるし、満足感もあるような気はする。警官隊が間近にいるから、国家権力と直に対峙しているような気になれる。けれど、それはそれで劇場化された見世物(この場合のオーディエンスは自分自身)にすぎないように思うし、結局そこでは「誰に向けて」デモンストレーションを行っているのか、ということがまったく問われていないように思われる。デモを行う側の問題として、歩道を歩いている人たちへ何ごとかを伝達する気が感じられない、というのは確実にあるようにも思う。
http://d.hatena.ne.jp/using_pleasure/20060502/1146517134

 という、いわば「デモに行く人」の側の問題も、触れたほうがいいかもしれない、とは思っていました。
 ところが、まず、「1」の段階で、「やっぱりむちゃくちゃ敷居高いじゃんか」というぶくまコメントが多数寄せられ、認識が甘かったことが思い知らされました(笑)
 さらに、前回の「デモなんか行かなくていい。むしろジョギングを。」を書いていたその瞬間にまさにとんでもないデモの弾圧が行われていた、ということを後で知りました。
http://d.hatena.ne.jp/using_pleasure/20060502/1146583947
http://mayday2006.jugem.jp/?eid=15
http://mayday2006.jugem.jp/?cid=4(小倉利丸氏による分析)
http://jointly.seesaa.net/article/17285464.html池田雄一氏による当日の様子)
http://black.ap.teacup.com/despera/157.html(黒目さん)
 落書きしただけで逮捕、ビラをまいただけで逮捕、に続いて、デモに行っただけで逮捕、ということです。
 つまり、現在の日本では、「デモに行くこと」は残念ながらとても敷居が高いものであることになってしまいました*1。しかし、いうまでもなく「敷居を高くしている」のは、デモに行く人の方ではなく警察の方です。そこには、小倉さんも言うように、警察による「恐怖」もあるのでしょう。

警察の過剰反応には一体どのような「心理」が働いているのだろうか。警察は、今回の集会、デモの主催者を、ワールドピースナウなどの大手反戦運動とは一線を画す周辺的な存在とみなして、暴力的な弾圧を行っても大きな批判や反発はないとみなしているふしがある。他方で、渋谷の若者ウケするDJとサウンドシステムは、多くの若者の飛び入り参加を生み出した「実績」があるために、その可能性にビビッている側面もある。http://mayday2006.jugem.jp/?cid=4

 しかし、「恐れられる対象」となること自体によって、その対象が「恐ろしいもの」として作りあげられてしまうわけだ。

「デモ」を「デモ」として演出しているのはいったい何なのだろう?
答えは単純で、半分はデモの隊列なのだが、あと半分は警官隊が演出しているわけだ。警官の数が増えれば増えるほど、そのデモ隊は(リスキーではなく)デンジャラスなものとして演出されていく。警官隊は言ってみれば「この人たちはアブない人たちですよ」というメッセージを伝えるシンボルとして機能しているわけで、実際に犯罪的な行為を行ったわけでもないのに、公権力があたかも危険人物集団のようにあらかじめ指し示すというのはやっぱりとんでもない話だ。http://d.hatena.ne.jp/using_pleasure/20060502/1146517134

 敷居というのは、「デモに行くこと」よりも、「デモに行く人」に対して作られている。「デモに行くことは怖い」ではなくて、いまや、どちらかというと「デモに行く人は怖い」なのである。いや、もっとかもしれない。「政治にかかわる人は怖い」「何か主張する人は怖い」。いやもっとだ。「何を考えているかわからないから怖い」ではなくて、「何か考えている人は怖い」だな。余計な事を考えずに、自のことだけ、何が自分の本かということだけ考えて、まじめに働いていればいいのである。そうすれば、いいことがある……てことはないかもしれないが、少なくとも悪いようにはならない、のである。てか。

アブナイ国のこと

つーかグーグルニュースで「メーデー 逮捕」で検索しても、現時点で出てくるのは三件で、うち2件はレイバーネットで、後の一件は

メーデーのフィリピン、マニラで反政府デモ
読売新聞 - 2006年5月1日
... この日、国家警察はメーデーでの暴動を企てたとして共産ゲリラ「新人民軍」のメンバー8人を逮捕したと発表したが、テロ行為や暴動などは確認されていない。

というものであるというような事実が、このような事を可能にしているという事は、あまりにも明らかなわけだが。

http://news.google.com/news?hl=ja&ned=jp&q=%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%BC%E3%80%80%E9%80%AE%E6%8D%95

なんか最近は、テレビのおかげで、「北朝鮮における言論抑圧状況」については誰でもが知っており、「日本における言論抑圧状況」については誰も知らない、という、まるで「北朝鮮のような」社会が実現しつつあるようだ。
http://black.ap.teacup.com/despera/157.html(強調引用者)

 前も書いたけど、http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20060423/p2

多くの今の日本人のイメージとしては、たとえば「中東」、というのは(それがイスラエルなのかパレスチナなのかイランなのかイラクなのか、などはほとんど興味をもたれない)たぶん、

なんだかいつもデモ「や」暴動「や」テロ「や」そんな物騒なことばかりしている物騒な国

 というようなものだと思う。「デモ」にまつわるイメージは「時代遅れ・物騒・後進国」ていうところだろう。

 「共産主義者というのはデモとかストしかすることがない人たち」なんて明治大学教授(斉藤孝)が雑誌コラムで書くわけだし。http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20060410/p2
 「デモ」ていうのはもう、(「中東」とか「フィリピン」とか?)そういう「アブナイ」よその国の出来事、という意識であろう。日本で前代未聞のデモの「弾圧があった」以前に、そもそも日本でも「デモが行われている」ということ自体がほとんど関心をもたれてないからな。まあラーメン屋行列レベルの参加者100人じゃあ無理もないって気もするけど……。
 ていうか、たとえばこのデモ弾圧事件のニュースを聞いた人の中に「ええ?日本でもそんなデモをするような人が出てきたの?怖いわ。日本もだんだん危なくなってきたわね。テロとか大丈夫かしら」なんて反応を示す人、いるんじゃないかしら。

*1:もちろん同時にワールドピースナウなどの「パレード」といわれる方のデモは、サウンドデモなどに比べると警備のされかたは比較にならないほど軽微なわけで、デモ自体も「安全」なのと「危ない」のに分断されている、ということでしょう。