ジョルジュ・ソレル『暴力論』第4章 プロレタリア・ストライキ 第2節(抄訳)

マルクス主義を完成するためになされた諸研究

いまや我々はさらに先に進み、ゼネストによって示される絵〔タブロー〕が本当に完全なものなのか、すなわち、現代の社会主義によって認められた闘争のすべての要素を含んでいるかということを問う必要がある。しかし、まずはじめに、問題を明確化しておく必要がある。この絵の構成の本質について以前行った説明から出発すれば、それは容易なことだろう。我々は、ゼネストが不可分の総体として考えられるべきであることを見た。したがって、ゼネスト実行のいかなる細部も、社会主義の理解のためになんら利益をもたらさないのである。さらに、この総体を諸部分に分解しようとすることで、この理解から何ものかが失われてしまう危険が常にある、ということを付け加えなければならない。我々は、マルクス主義の主要なテーゼと、ゼネストの絵が提供する全体的様相との間に、根本的な同一性が存在することを示すことにしよう。
〔後略〕

A ゼネストから出発してマルクス主義を解明する方法:階級闘争

〔1〜2略〕

政治屋たちが、自分たちがブルジョア制度におけるプロレタリアの影響と呼んでいるものを印象付けようとする試みにおいて成功しているこということは、階級闘争の概念を維持するにあたって、非常に大きな障害となっている。世界はつねに諸党派間の取引によって成り立っているのであり、秩序はつねに暫定的なものである。多くの新しい出来事が予想し得ないしかたで生じた現代のような時代においては、不可能とみなしうる変化は、ありえない。現代の進歩が実現されたのは、相次ぐ妥協によってである。なぜ、これほど成功した方法によって、社会主義の目的を追求しないのだろうか?不幸な階級にとってのもっとも差し迫った欲求を満たす多くの手段を構想することができる。長い間、そうした改良計画というのは、保守的、封建的、あるいはカトリック的な精神によって思いつかれてきた。改良計画の発案者たちは、大衆をラディカルな勢力の影響から奪い取るのだ、と言っていた。ラディカルな勢力は、古い敵よりもむしろ、社会主義政治家によっておびやかされ、今日では、前進的、民主主義的、自由思想的色合いをもったさまざまな計画を構想している。我々はついに、社会主義的妥協によって脅かされ始めたのだ!

多くの〔一見反ブルジョア的な〕政治組織、行政システム、財政制度が、ブルジョアジーの支配と両立しうることについて、警戒が払われないこともある。ブルジョアジーに向けられた暴力的な攻撃に、常に大きな価値を与えるべきだ、ということはないのである。そうした攻撃は、資本主義を改革し、それを完成させる欲望によって動機づけられているかもしれないのだから。*1今日、サン・シモン主義者のように、資本主義体制の消滅をこれっぽっちも欲していないくせに、進んで財産を投げ捨てようとする人々が少なからずいるように思える。*2

ゼネストは、あらゆる可能な社会政策がもつイデオロギー的な帰結をすべてとりのぞく。ゼネストの支持者は、さまざまな改革を、たとえそれがもっとも大衆的なものであれ、ブルジョア的性格を持ったものとみなす。*3彼らにとっては、階級闘争に対する根本的な対立があるならば、何であろうとそれを和らげはしないのである。社会的改革の政策が優勢になればなるほど、社会主義にとって、この政策が実現しようとする進歩の絵に、ゼネストが完璧な仕方で示している全面的な破局の絵を対置する必要が高まる。

B 革命の準備とユートピアの不在

〔1〜2略〕

マルクス主義は、ユートピア主義者が未来について作り上げたすべての仮定を断罪する、というこの事実は、いくら強調してもしすぎるということはないだろう。ミューニッヒのブレンターノ教授が語るように、1869年に、マルクスは友人のビースリー(労働者階級の未来についての論文を発表したばかりだった)に対して、それまで自分は君をただ一人の革命的イギリスとみなしていたのだが、これからは一人の反動派とみなす、と手紙を書き、その理由は「未来に対するプログラムを立てるものは、反動派だからである」*4と書いている。プロレタリアートは、社会的解決法を発明する学者先生方の説法に従う必要はまったくないのであり、ただ単に、資本主義の後を引き継げばいいのだ、とマルクスは考えた。未来のプログラムは必要ない。プログラムはすでに作業場の中で実現されているのだ。技術的継続という観念は、マルクスの全思想を支配している。

ストライキの実践によって、我々はマルクスと同じ構想に導かれる。労働を中止する労働者たちは、雇用者たちに対してよりよい労働組織の企てを示すのではないし、事業をもっとうまく経営するために彼らに協力を申し出ているわけではない。ひとことで言うと、経済的対立において、ユートピアはどこにも居場所をもたないのだ。ジョレスとその友人たちは、そこに、社会主義を実現する方法に関する彼らの構想に対する恐るべき異端者が存在することを強く感じていた。彼らは、ストライキの実践の中に、社会学者の先生方によってでっち上げられ、労働者によって受け入れられた産業プログラムの断片がすでに導入されていることを望んでいる。彼らは、自分たちが産業的議会主義と呼ぶものが出来上がるのを見たいと望んでいる。政治的議会主義とまったく同じように、そこには、指導された群衆と、彼らを一方向に導く弁論家が含まれている。それは、これからはじまるはずの嘘つき社会主義の予行演習となるだろう。

ゼネストとともに、これらのご立派なものはすべて消え去る。革命は純然たる反乱revolte〔反逆〕としてあらわれ、社会学者、社会改革を愛好する社交界の人々、プロレタリアートの代わりに考えることを職業としている知識人、彼らの居場所はどこにも残らないだろう。*5

C 革命の改革不能な性格

〔略〕

*1:例えば、独特の激しい口調でフランスのブルジョアジーに対する軽蔑を表明する一人の非常に聡明なカトリック信者を私は知っている。しかし、彼の理想は、アメリカニズム、すなわち、非常に若く活動的な資本主義なのである。

*2:P・ド・ルジエールは、アメリカ合衆国で、裕福な父親たちが、息子たちに生活費を稼がせていることがいかに多いかを見て、非常におどろいた。彼は「いわゆるアメリカの父親たちのエゴイズムにショックを受けているフランス人たち」としばしば遭遇した。彼らには、豊かな人間がその息子に生活費を稼がせ、身を立ててやらないことは、見るに耐えないことに思えるのである。(『アメリカ人の生活、教育と社会』9ページ

*3:訳注:ベンヤミン『暴力批判論』岩波文庫51ページ

*4:この問題についてベルンシュタインはこう言っている。ブレンターノは少し誇張したかもしれないが、しかし「彼に引用された言葉はマルクスの思想と大きく異なっていない。」(『社会主義運動』1899年9月、270ページ)ユートピアは何でできているのだろうか? それは、過去によって、そしてしばしば、遠い過去によってできているのだ。みながビースリーの革命的大胆さに驚嘆していたにもかかわらず、マルクスが彼を反動的とみなしていたのは、おそらくそのためである。中世の空気の中で眠り込んでいるのはカトリック信者だけではない。イヴ・ギュイヨは、ラファルグの「集産主義的中世吟遊詩人主義」を茶化している。(ラファルグ、Y・ギュイヨ『財産論』〔訳注:ラファルグの『財産進化論』にギュイヨの反論を付して出版した「珍妙な本」だそうである(木下訳注より)。〕121-122ページ。)

*5:訳注:ベンヤミン『暴力批判論』岩波文庫51〜52ページ