ジョルジュ・ソレル『暴力論』第5章 政治的ゼネスト 第4節

強力と暴力

政治的ストライキの研究によって、我々は、現代の社会問題について考察するときにつねに心に浮かぶ一つの区別について、よく理解できるようになった。人々は、強力forceと暴力violenceという語を用いるとき、あるときは権威autoriteの諸行為について語り、またあるときは反抗revolteの諸行為について語る。この二つが、まったく異なった結果を生じるのはあきらかである。いかなるあいまいさも生じさせない用語法を採用することは大きな利点をもつが、私は、暴力という語は二つ目の語義のために取っておくべきであると思う。したがって我々は、強力が、少数者が支配するなんらかの社会秩序の組織を強制することを目的としており、一方暴力は、この秩序を破壊しようとする傾向を持っている、と言うだろう。ブルジョアジーは近代のはじめから強力を用いてきたのであり、一方プロレタリアートは、現在、強力と国家に対して、暴力によって抵抗reagirしているのである。

強力についてのマルクスの観念

長い間私は、物質に作用する力学的な力forceと大いに比較しうる社会的な力puissannceについての理論を深めることが、きわめて重要だと考えてきた。しかし、私は、ゼネストについて考察する以前には、ここで問題となっている基本的な違いを把握することができていなかった。さらに、マルクスも、強力とは違う社会的な力contrainteについて検討していたとは私には思えない。数年前、私は、『マルクス主義批評論』の38-40ページにおいて、資本主義の諸条件への人間の適応についてのマルクス主義的テーゼについて、次のように要約しようとしたことがある。

「(1)そこでは人間が真の自然法則に従うように見える、ある種機械的なシステムがある。古典派経済学者たちは、資本主義体制の最後の産物である自動作用automatismeを、起源に置いた。マルクスは言う。「教育、伝統、習慣によって、体制の要求を、四季の変化のごとく自然に受け入れる労働者たちの階級が形成される。強制において知性的意志が巧みに介入するのは、例外的なこととなる。」 *1

「(2)人々を伝統的な障害から退け、人々がつねに新しいものを追い求め、より良いものと思える条件を想像するように促す、競合と大競争の体制がある。マルクスによると、ブルジョアジーはこの革命的な任務において優れていた。」

「(3)歴史のなかできわめて重要な役割をもち、異なったいくつかの形態をとった暴力の体制がある。」
「(a)最も低い段階では、分散した暴力があった。これは生存競争に似ており、経済条件を媒介にして作用し、ゆっくりした、しかし確実な収奪を行う。このような暴力はとりわけ徴税制度とともに現れた。*2

「(b)次に、労働者に対して直接作用する、集中化され組織化された国家の強力が現れた。それは、「賃金を調整するため、すなわち賃金を適当な水準にまで抑え込み、労働日を延長し、労働者自身を適度な依存状態に維持するためである。そこにこそ、本源的蓄積の本質的契機があるのだ。*3

「(c)最後に、本来の意味での暴力が現れる。これは、本源的蓄積の歴史において非常に大きな位置を占め、歴史における主要な対象を構成している。」

ここでいくつか補足的考察を行っておくことも無駄ではあるまい。

まず、以下のことを捉える必要がある。すなわち、これらのさまざまな要素は、有機体を思い起こさせるような国家、またいかなるはっきりした意志も現れていないような国家から出発し、熟慮されたreflechis計画を意思が明白な形で立てるような国家にまで至る、ある論理的段階におかれている、ということである。しかし、歴史的秩序はこれとは正反対のものである。

資本蓄積の起源においては、各時代において、特有の性質を持って、また、年代記に書きとめられるほどに十分印象的な状況において現れる、はっきりとした歴史的事実が見出される。農民からの収奪が見られるのは、また、「農奴制と産業ヒエラルキー」を構成する古い法律の廃止が見られるのは、ここにおいてである。マルクスはこう付け加えている。「こうした収奪の歴史は、疑いの余地があるようなものではない。それは、人類の年代記に、決して消えない血と火の文字によって書き記されているのだ。*4

さらにマルクスは、近代の黎明が、アメリカの征服、黒人の奴隷化、植民地戦争といったものによっていかに刻印されているか、ということを示している。「資本主義の時代が開花させた本源的蓄積のさまざまな方法は、まず、多かれ少なかれ年代順に、ポルトガル、スペイン、フランス、イギリスによって利用されたが、イギリスは、17世紀の後半にそれらの方法をすべて結合し、植民地制度、国債制度、近代的租税制度、保護貿易制度を同時に含んだ、体系的な全体を作り上げた。これらの方法のうちいくつかのものは、野蛮な強力〔訳注:マルクス原語はGewalt〕の使用に基づいている。しかし、すべての方法は例外なく国家権力〔訳注:Staatsmacht〕、すなわち、社会的な、集中化され組織化された強力を用いている。それは、封建的経済秩序から資本主義的経済秩序への移行を乱暴に早め、過渡期を短縮するためである。」マルクスが強力を助産婦にたとえ、強力は社会の運動を加速する、と言ったのはこのときである。*5

こうして我々は、経済的な潜勢力が政治的な潜勢力と緊密に結びつき、ついには資本主義が、きわめて例外的な場合を除いて国家の強力force publiqueに直接訴える必要をもはやもたないまでに完成されることを見るのである。「事態が通常に進行する場合は、労働者は社会の自然法則にゆだねれらる。すなわち、生産のメカニズムそのものによって発生し、保証され、永続化される資本に対する従属のもとにゆだねられる。*6歴史の最終段階に達したとき、明確な意志による行動は消滅し、社会の総体は、独立して機能する有機体の様相を呈する。そのとき観察者たちは、彼らにとっては物理的自然についての科学と同様に厳密なものと見える、経済的科学を作り上げることができる。

多くの経済学者たちの誤りは、彼らが自然なものないし原初的なもの*7とみなしているこの体制が、生じなかったこともありえたような、また、その組み合わせがつねにきわめて不安定なものでありつづけるような──というのも、それは、強力の介入によって作り出されたのと同様に、強力によって破壊されるかもしれないのだから──一連の変容の結果であるということを見ていないところにある。さらには、現代経済学の文献は、自然法則を撹乱する国家の介入に対する呪詛の声に満ちている。

今日、経済学者は、そうした自然法則への敬意が、「自然」に対して払うべき敬意によって強制されると信じるつもりはほとんどない。彼らは、人々が、後になってから資本主義体制に到達したのだということをよくわかっている。しかし彼らは、資本主義体制への到達は、明晰な人々の魂を魅了するはずの進歩によってなされたと考えるのである。実際そうした進歩は、三つの注目すべき事実によって表現される。〔第一に〕経済についての科学を構築することが可能となったこと。〔第二に〕債権法が、進歩した資本主義を完全に支配したがゆえに、法が、最も単純で、最も確実で、最も美しいその定式化を達成しえたということ。〔第三に〕国家の首長のきまぐれがもはやなくなり、人々が自由に向かって歩み始めたこと、である。彼らにとって、過去への回帰はすべて、科学と、法と、人類の尊厳に対する侵害に見える。

社会主義は、そうした進化を、ブルジョアの強力の歴史とみなす。また社会主義は、経済学者たちが異質性を発見したと信じているところにも、〔同一物の〕様相をしか見ないのである。強力が、歴史的強制行為、租税的抑圧、征服、労働立法、というさまざまな側面において現れるとしても、また、それが経済に完全に包摂されるとしても、問題はつねに、資本主義的秩序を作り出すために巧妙に働くブルジョア的強力なのである。

プロレタリア暴力のための新しい理論の必要

マルクスは、この進化の現象を記述するために、多大な細心さをもって没頭した。しかし、彼はプロレタリアートの組織の詳細についてはきわめて控えめであった。彼の著作におけるその部分の欠落の理由については、しばしばいろいろと説明されてきた。彼はイギリスにおいて、よく整理され、経済学の論争に既に付されていた、資本主義の歴史についての膨大な資料を発見した。したがって、彼はブルジョアジーの進化のさまざまな特殊性について深く掘り下げることができた。しかし、彼はプロレタリアートの組織に関して論議するための要素をあまり多くもっていなかった。したがって彼は、革命的闘争の時期に達するためにプロレタリアートが経過すべき道程に関して作り上げた観念について、きわめて抽象的な仕方で説明することで満足しなくてはならなかった。マルクスの著作のこうした不十分さは、結果としてマルクス主義をその真の本性から迂回させることになった。

正統的マルクス主義者であることを誇っている人々は、師〔マルクス〕が書いたことに対して、重要なものを何も付け加えようとしなかった。また彼らは、プロレタリアートについて議論するために、ブルジョアジーの歴史において学んだことを利用しなければならないと考えていた。したがって彼らは、権威に向かって進んで行き、自動的な従属の実現しようとする強力forceと、そうした権威を破壊しようとする暴力violenceの間に、解明されるべき違いがあるのだということに気づかなかった。彼らによると、プロレタリアートは、ブルジョアジーが獲得したように強力を獲得しなければならないのであり、ブルジョアジーが用いたように強力を用いなければならないのであり、そしてついには社会主義国家にブルジョア国家の跡を継がせねばならないというのである。

国家はかつて、古い経済を廃止する革命において主要な役割を果たしていたが、いまだに、資本主義を廃止するのは国家だというのだ。したがって、人民のために資本主義を破壊する、と仰々しく約束する人々に権力を与える、という唯一の目的のために、労働者は全てを犠牲にしなければならない。このようにして、議会派社会主義政党が形成されるのである。ささやかな地位を与えられた古い社会主義の闘士たち、教養があり、機動力をもち、名声に飢えているブルジョアたち、そして、株式市場の投機家たちは、伝統的国家に大きく手を入れないような賢明な革命、実に賢明な革命の後で、彼らにとっての黄金時代が到来することを予想している。彼ら未来の世界の支配者たちは、まったく当然ながら、ブルジョアジーの強力の歴史を再生させることを夢見ている。また彼らは、この革命からできるだけ多くの利益を引き出すために、自らを組織する。顧客たちの大集団は、新しいヒエラルキーの中で上位を占めることができる。ポール・ルロア=ボーリューが「第四身分」*8と名づけたこの集団は、下層ブルジョアジーとなるだろう。*9

民主主義の未来は、真にプロレタリアート的な組織の強力forceを、より大きな個人的利益を得るために利用しようとする、こうした下層ブルジョアジーによって左右されるだろう。*10政治屋たちは、下層ブルジョアジーが常に平和的傾向を持つだろうこと、それがよく訓育されうること、これほど賢明な組合の指導者たちも、彼らと同じように国家の活動を理解していること、この階級が優秀な顧客となるだろうこと、を信じている。彼らは、下層ブルジョアジープロレタリアートを統治するために役に立つことを望んでいる。これこそ、フェルディナン・ビュイッソン*11とジョレスが、下級官吏の組合の支持者である理由である。下級官吏の組合は、労働市場に入り込むことによって、プロレタリアートに、自分たちの穏健で平和的な態度を模倣するという考えを抱かせるのである。

政治的ゼネストは、こうした構想を、理解しやすい一つの絵tableauの中に集約する。政治的ゼネストは、いかにして国家がその強力を失わないか、いかにして〔強力が〕ある特権者から別の特権者に推移するか、いかにして生産者大衆が主人を変えることになるか、ということを我々に示す。*12これらの〔新しい〕主人たちは、今日の主人たちよりも悪賢くはないだろう。彼らは資本家たちよりももっと上手に演説をするだろう。しかし、すべては、彼らが先代の主人よりもずっと過酷でずっと傲慢であると信じさせるのである。(続く)

(ほぼ自分用の)メモ
ベンヤミンのためにはじめたソレルの紹介だったのだが、ソレルそれ自体もなかなか面白くて、ベンヤミンそっちのけになってしまった。
前回の、「妬みの感情」を利用する政治屋と、「崇高の感情」にもとづくプロレタリア・ゼネストの対比も興味深かったが(愛国心は敵を憎む心だ、と言っていた幸徳秋水の話ともつながるが)、今回の、強力と暴力の区別、そして、ブルジョアジーの暴力(強力)を『資本論』の本源的蓄積と結びつけた議論は、サルトルの『弁証法的理性批判』の実践的惰性態と暴力についての議論に通じるものであり、大変興味深い。ここで詳しく述べることはできないが、とりあえずメモ。
第5章第4節の残りと、あとは緒論の一部も後で紹介する計画。

*1:資本論』第一巻327ページ、第1欄。〔訳注:『資本論』のページ数はフランス語版のもの(以下同様)。『フランス語版資本論』の邦訳もあり、原書ページ数も乗っている。ドイツ語版(ディーツ版)の対応する箇所は、765ページ。「一方の極に労働条件が資本として現われ、他方の極に自分の労働力のほかには売るものがないという人間が現れることだけでは、まだ十分ではない。このような人間が自発的に自分を売らざるをえないようにすることだけでも、まだ十分ではない。資本主義的生産が進むにつれて、教育や伝統や習慣によってこの生産様式の諸要求を自明な自然法則として認める労働者階級が発展してくる。(……)経済外的な直接的な強力Auserokonomische, unmittelbare Gewalt も相変わらず用いられはするが、しかし例外的でしかない。」(岡崎二郎訳)〕

*2:マルクスは、オランダにおいて、最も必要な物資を人工的に値上げするために、税金が用いられた、ということを指摘している。これは政府の原則の適用であった。この体制は、労働者階級の上に有害な作用をもたらし、農民や職人や、その他の中産階級の構成要素を崩壊させた。しかし、それは、労働者のマニュファクチュアの経営者に対する全面降伏を保障した。(『資本論』第1巻、338ページ、第2欄。〔訳注:ディーツ版784-785ページ〕)

*3:資本論』第1巻、327ページ、第1欄。〔訳注:ディーツ版、766ページ〕

*4:資本論』第1巻、315ページ。〔訳注:ディーツ版743ページ。〕

*5:資本論』第一巻、336ページ、第1欄。ドイツ語のテクストでは、強力が経済的潜勢力?konomische Potenz であると書かれている(『資本論』第4版、716ページ)。フランス語のテクストでは、強力が経済的要因agent economiqueであると書かれている。フーリエは等比級数をpuissanciellesと呼ぶ(『産業的、社会的新世界』376ページ)。マルクスは潜勢力Potenzという語を明らかに乗数multiplicateur の意味で用いている。『資本主義』フランス語版176ページ第1欄における、「増加〔累乗〕されたproductivite multipliee生産力の労働」の意味での「潜勢的労働 travail puissancie」という言葉を参照のこと。〔訳注:ディーツ版779ページ。「暴力Gewaltは、古い社会が新たな社会をはらんだときにはいつでもその助産婦になる。暴力はそれ自体が一つの経済的な潜勢力Potenzなのである。」(岡崎二郎訳)〕

*6:資本論』第一巻、327ページ、第1欄。〔訳注:ディーツ版765ページ。〕

*7:マルクス主義的な意味においては、「自然」とは物理的運動に類するものであり、すなわち、知性的意志による創造と対立するものである。18世紀の理神論者たちにとって、自然的なものとは神によって創造されたものであり、同時に原初的かつ優れたものであった。G・ド・モリナリの見方もまたそのようなものだった。

*8:訳注:「第三身分」はブルジョアジーのことであり、「第四身分」とは議会派の社会主義政治屋のこと。

*9:『ラディカル』誌のある記事(1906年1月2日)で、フェルディナン・ビュイッソンは、現在最も優遇されている労働者のカテゴリーは、他の労働者の上位に立ち続けるだろう、と述べている。よく組織された、炭鉱労働者、鉄道労働者、国営ないし公営工場の労働者たちは、「労働貴族」を形成する。そしてこの「労働貴族」たちは、「人権、国民主権普通選挙権」を表明する集団と議論しなくてはならないのだから、なおさら容易に成功するのである。この妄言の下に、人々はただ単に、卑屈な顧客たちと政治屋たちの関係の承認を見るだけである。

*10:公務員の組合を擁護するために書かれた書物の中で、「国民の一部は権利を要求するためにプロレタリアートに加入する」とマクシム・ルロアは言っている。(『公権力の変貌』216ページ。)

*11:訳注:ビュイッソン 1841‐1932 Ferdinand Edouard Buissonフランスの政治家,教育学者。パリのプロテスタントの家庭に生まれる。エコール・ノルマル・シュペリウールに入学するが病気のために退学し,独学で哲学の教授資格を取得する。その自由主義的思想から皇帝に対する宣誓を拒否し,スイスに亡命,そこでしばらく大学の教壇に立っていたが,普仏戦争が始まるとともにパリに帰り,戦争孤児収容所を開設した。1871年にパリ市初等教育視学官に任命され,79年には文部省の初等教育局長,さらに96年パリ大学ソルボンヌ校の初代教育学教授となる。1902年以降急進社会党の代議士を2期つとめ,教育,平和,慈善事業に尽くした。13年人権同盟会長。27年ノーベル平和賞受賞。1881‐82年,J. F. C. フェリーの教育改革(公立学校の無償,義務教育制度の確立,宗教と教育の分離など)の素案を作成するなど,初等教育の改善に大きく貢献した。彼の編纂した《教育学辞典》(1882‐93)は今日でも最高の評価を得ている。(古沢 常雄)(平凡社世界大百科より)

*12:ベンヤミン『暴力批判論』岩波版50ページ。