呉の単純な悲単純性(小田実『日本の知識人』を読んで 1)

呉氏は、小田氏が「単純な反戦派」ではない、つまり、「単純ではない」と指摘する。それを指摘する自分ももちろん「単純ではない」と言いたそうである。
では、呉氏が言う「単純ではない」とは、果たしてどういう意味なのだろうか? 実はそれは、非常に「単純」なのである。呉氏は、どういう意味で「小田は単純ではない」といっているのか? それはつまりこういうことだ。「小田は大東亜戦争の二面性を40年前に強調していた。だから、小田は二面性をもっていたのであり、単純ではなかったのだ」。呉氏は、小田氏の主張を引用しつつ、こう言う。

日露戦争でアジアの新興国日本が大国ロシヤを破ったことはトルコなどを力づけた。太平洋戦争(大東亜戦争)も、結果的には敗北であったが、日本の奮闘はアジア・アフリカ諸国の励みになった。

ここから見ると、呉氏が言う「大東亜戦争の二面性」とは、どうやら「大東亜戦争は良い面と悪い面の二面があった」という、ただそれだけのことであるようだ。やれやれ、40年前の呉学生は、小田氏の本を読んで、そんな単純なことしか読み取れなかったようだ。
さて、呉氏は、自分(だけ)が小田氏の二面性を読み取っている、と自慢する。では、それを読み取れない「単純な」小田観の持ち主とは誰なのか。それについて、呉氏はこう言う。

朝日新聞は追悼記事で、これと関連づけるかのように小田の市民運動の“偉業”を讃えた。来月の保守系論壇誌には小田の“単純な反戦派ぶり”を皮肉ったものが並ぶだろう。

ふむ、これを読むと、どうやら呉氏の言う「二面性」とは、「アサヒとサンケイの二面性」ということでもあるらしい! で、大東亜戦争の二面性の話とつなげると、つまり、呉氏的世界においては、「大東亜戦争は100%悪かった派(つまりアサヒ)」と「大東亜戦争は100%良かった派(つまりサンケイ)」の二つに分かれるようだ。なんという単純な世界観だろうか。いや、もう少し正確に言うと、呉氏の「複雑ぶりっ子」というのは、実は、読者が「アサヒ・サンケイ二元論」という実に単純な世界観を持っていることを前提にし、それを利用した芸なのである。「あなた方は、世の中にはアサヒかサンケイしかないと思っているでしょう?そして、小田実というのはアサヒだと思っているでしょう?ところがどっこい!小田実はサンケイのようなことも言っていたのですよ!」というわけである。
さて、問題の小田実『日本の知識人』であるが、まだざっとではあるが、一応全体に目を通してみた。で、どうだったか、というと、確かに小田氏のこの本はそんなに「単純」なものではなかった。だが、小田氏が「単純ではない」というのは、呉氏が言うような、「純粋アサヒではなくサンケイの血も半分流れている」というような(単純な)意味では決してない。
とにかく、引用された部分を、同書の全体の文脈から切り離して強調する呉氏の書評こそが、むしろ、小田氏を呉氏にとって都合のいい「単純な」枠組みの中に押し込めるものであるといえる。(つづく)