小田実「正義の戦争はあるか・世界対論の旅」 その1

先日夜中テレビをつけたら、たまたま小田実の番組をやっていて、すでに番組開始から20分ぐらいたってしまっていたのだが、その後最後まで、録画しながら見ることができた。
私が見たのは、2000年8月に放映された「正義の戦争はあるか・世界対論の旅」という番組で、追悼の意味で今回再放送されたようだ。なかなか興味深い内容だった。番組収録に関しての小田実自身の文章はこちらで読むことができる。http://www.odamakoto.com/jp/Seirai/000725.shtml
この番組は、小田が、アメリカとドイツを訪れ、様々な人々と対話する、というものなのだが、対話の話題の中心となっていたのは、番組収録1年前に行われた、NATO軍のユーゴ空爆である。ちなみに、番組収録時は、アメリカ軍によるベトナムへの空爆の25年後であり、アフガン空爆の1年前、イラク空爆の3年前、ということになる。ユーゴ空爆は、「人道的武力介入」と言われ、この言葉が、かつてのベトナム反戦グループに亀裂を生んでいる、というのがこの番組の大きなテーマである。
(私が見た)最初の対論の相手は、「筋金入りの人権擁護派」であり、かつ、人道的介入としてのユーゴ空爆を熱烈に支持した、ホリー・バークハルターである。彼女は、ミロシェビッチに対する軍事行動は絶対に必要なものだった、とまくし立てる。

バ「(……)みなさんが望む外交努力は、一年もの長い間やったんです。その間にも、何千人ものコソヴォアルバニア人が殺されました。軍事介入の後に虐殺行為は悪化しましたが、これはNATOのせいではなく、ミロシェビッチのせいです!結果はというと、コソヴォへの介入に反対した人たちは、「何も変わらなかった、以前と同じようにひどい」と言いたくてたまらないようですが、間違いもはなはだしいです。」
小田「1500人が殺されました」
バ「間違いもはなはだしい」
小田「その軍事介入で1500人が……」
バ「もっと行儀よくやりましょうよ」
(……)
小田「世界は虐殺を防止すべく国際警察軍を設立しなくてはならないなら……」
バ「賛成です。」
小田「その性格付けは大事です。空爆よりも地上戦のほうがずっと大切になります。」
バ「大賛成です。」
小田「陸軍や中間兵力のあり方も、今後は変わらなければなりません。同意しますか?」
バ「もちろん同意します。」
小田「では次。そのような新しい軍事力を作ったとして、虐殺が起きたとき、これが虐殺であると、誰が決めるのです?(強調は引用者、以下同様)出動を決定するのは誰です?人権侵害が起こっているとして、虐殺防止の名目で、また別の人権侵害が行われるかもしれません。良い悪いは、誰が決めるのですか?」
バ「……私にとっては……」
小田「国際委員会でも作りますか?」
バ「誰が、何が虐殺であると決定するかというのは、私にとってはそれほど問題ではありません。おのずと明白なものです。大量犯罪が行われるときには、大量犯罪らしい行為が行われます。ロシアがチェチェンに対して行ったような行為です。一番の問題は何が責任であるかをどうやって決めるかですよ。(……)」

その後彼女は、国連はあてにならない、「私たちは理想的な世界に生きているのではない」のだから、国連加盟国の全件一致がなくてもホロコーストの停止は開始されるべき、と主張。それを聞いた小田は、「OK、わかりました」と会話を終了。「これで終わりなの?」と拍子抜けする彼女。
次の対論相手は、チョムスキー

チョ「アメリカは、ベトナムで負けて平和主義になったわけではありません。戦争反対ではなく、残酷な戦争犯罪に反対なのです。世論調査では、戦争は正しくないし非道徳的であるが、戦争をしたことは間違いではなかったという結果が出ます。戦争が再び起きたらこんどは戦わない、というようにはならないのです。〔アメリカ人は〕戦争一般に反対なのではなく、戦争犯罪に反対なのです。コソヴォへの介入の動機はどう見ても人道的な理由ではありませんでした。空爆が始まると人道主義という理由付けが行われたのです。まさに恐れていたことです。約80万人が国を追われ、数千人が殺されましたが、これはNATO空爆の後のことです。人道主義による戦争など、もともとないのです。ではなぜ、西欧諸国は、コソヴォ空爆を支持したのでしょう?それは、大掛かりなプロパガンダが行われたからです。虐殺だ、アウシュビッツだ、と。これは全くのウソです。日本の満州侵攻も「人道的介入」でしたね? 地上の楽園を建設するとか。中国で民衆を守るとか。」
小田「アメリカの支援を受けてね。」
チョ「ああ、そうそう。まさに、人道的介入の理想に満ちていました。過去の帝国主義的介入は、すべて、人道的介入の仮面をつけて行われたといえます。世界の大半の人々は、まさに小田さんと同じことを心配しているのです。

(つづく)