正学校論

 http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070919/p1についての話です。
 アルジェリアがフランスの植民地だったころ、アルジェリアの独立という考えは非常に「ラディカル」なものだったわけです。そして、今ある植民地体制は悪いが、「今とは異なる(より良い)植民地体制」を考えようとした「良心的」フランス人もたくさんいた。彼らを、サルトルは「新植民地主義の欺瞞」と批判しました。サルトル

良い植民者がおり、その他に性悪な植民者がいるというようなことは真実ではない。植民者がいる。それだけのことだ。

と言っています*1
 「植民地のない世界」は、当時としては非常に「非現実的」なものに思えたでしょうが、現在、「植民地のない世界」が非現実的である、などと考える人はほとんどいないのではないでしょう。それと同じように、「学校が存在しない世界」だって非現実的とは決め付けられない。常野さんid:toledや貴戸さんがおっしゃりたかったのは、そういうことではないか、とさしあたり私には思えました。
 良心的フランス人たちは、アルジェリアの食糧問題や経済問題の改善、といったことについては大いに語るわけですが、「独立」という「政治問題」については、語ろうとしないばかりか、それについて語ることを、逆効果とか非現実だとかいって封殺しようとした。それに対して、サルトルは、植民地問題とは、植民地の食糧問題や経済問題といった個々の具体的な問題のことではなく、植民地「体制」の問題なのであり、その解決は、独立、すなわちアルジェリア人自身による植民地体制の廃棄以外によってはなされえない、と言った。

新植民地主義は、植民地体制を整備しうるとなお信じているおろか者である──それとも、改良が無効なのを知るゆえに改良をとなえる悪賢い奴である。そうした改良は、いつか時がくればなされるであろう。つまり、改良を行うのはアルジェリア人民なのだ。*2

 こう言い換えてもいいかもしれません。良心的フランス人が語るのは、植民地バージョン1を、より問題の少ないバージョン2にバージョンアップするとか、そうしたことだけだったわけです。それにたいしてサルトルは、植民地というソフトをアンインストールすべし、といったわけです。植民地をアンインストールした世界、つまり植民地のない世界とは、いわば、世界2.0です。サルトルが、ファノンの「地に飢えたるもの」の序文の末尾で、「別の歴史」という言葉を使っているのは象徴的です*3。つまり、独立によって歴史2.0がはじまるのです。
 これを学校の話に置き換えてみます。すると、常野さんたちの話というのは、「これまで、学校バージョン1を学校バージョン2にするとか、1.1を1.2にするとか、そんな話だけがされてきた。けれど、そろそろ学校をアンインストールする話もしませんか?」というメッセージなのではないか、と思える訳です。そういうメッセージを出し続けても、賛成も反対もほとんどなかった。つまり、スルーされ続けてきたわけです。それは、おそらく、多くのひとにとって、学校というソフトのアンインストールなどということが「論外」の奇想に思えているからでしょう。
 さて、常野さんの「学校廃棄論」についての、id:mojimojiさんのエントリーですが、最初読んで、

学校を廃棄した後に何を持ってくるのかを、そろそろ考えないとダメだろう。

http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070919/p1

という表現に、どうしても違和感を感じました。常野さんは、「学校の廃棄の話もそろそろしませんか」と呼びかけているのに、それに対して「学校を廃棄した後にどうするかそろそろ考え」ないと「ダメ」だろう、というのが、どうしてもかみ合っていないように感じたわけです。常野さんは、別に「学校廃棄の話以外しちゃダメだ」などとは言っていないのではないか。「学校廃棄以外の話しか誰もしない」という現状があるからこそ、そろそろ学校廃棄の話をしませんか、と訴えている、そう、私は感じたわけです。それに対する反応が、どうして「そろそろ学校廃棄以外(以後)の話もしないとダメだ」というものになるのかが、よくわからなかったわけです。
そのほか、常野さんの意見を「見慣れたラディカルさ」というわけだけれど、そうおっしゃるmojimojiさんの意見も、ラディカルな意見に対する「見慣れた」反応のように見えてしまう。たとえば、戦争の話に置き換えれば、反・反戦派による、「戦争廃棄論は見慣れたラディカルさでしかない」とか、「戦争を廃止したその後についてそろそろ考えなくてはならない」という意見は見慣れたものです。「ビジョンをもたないラディカルなだけのラディカルさはお祭りで終わる」というのも、反・反戦派がよく言うセリフです。そうしたところがどうしてもひっかかったというのがあって、ちょっと(id:sarutoraの名前で)コメントしました。
とりあえず

たとえば酒井隆史『暴力の哲学』では、「「暴力はいけません」という漠然とした「正しい」モラルこそが、むしろ暴力の容認と、暴力の圧倒的な非対称性、そしてそれへの無感覚を肥大化させている一つの動力なのです」(p.14)と述べていますが、それと似たようなことがここに生じています。同じように、教育というものの「暴力性を認識しつつ、その中に線を引く」という作業が不可欠なのです。そのように考えています。

http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070919/p1#c1190206484

に対して

コメントの最後の方はかなり違和感があります。たとえば、最後の酒井隆史の引用は、単純な暴力否定論と、学校廃棄論を重ねていらっしゃるようですが、むしろ逆のような気がします。「暴力はいけません」が蔓延しているのと同じように、「学校は必要です」が蔓延しているわけで、その意味では「「学校は必要です」という漠然とした「正しい」モラルこそが、むしろ学校の容認と、学校の圧倒的な非対称性、そしてそれへの無感覚を肥大化させている一つの動力なのです」とでも言うべきなのではないでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070919/p1#c1190226828

とコメントしたのですが、それに対してこういう応答をいただきました。

酒井の引用について。学校肯定論もそのように機能している、とはご指摘のとおりです。しかし、その点については、本文中にて、「「漢字や九九」のために、「今ある学校をそのままにしよう」と言う人たちはアホであり」とあるように、まず、論外、という位置づけです。戦争に対する態度で言えば、これは正戦論に相当します。酒井の論では、正戦論と素朴な暴力否定論の両方が退けられているはずです。

http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070919/p1#c1190243201

mojimojiさんは、「今ある学校をそのままにしよう」と言う意見は「論外」だといい、「論外」な立場を正戦論にたとえているのですが、しかし正戦論というのは、「今ある戦争をそのままにしよう」という立場ではないように思うわけです。正戦論とは「いい戦争と悪い戦争を区別する」というものであり、つまり今ある「悪い」戦争については、「そのままにしよう」どころか、いい戦争によってそれをやっつけよう、という立場です。
それで、mojimojiさんの引用の仕方では、「暴力の中に線を引く」というのが、そういうまさに正戦論的な、「いい戦争と悪い戦争を線引きする」とか「いい学校と悪い学校を線引きする」というのとどう違うのかがやっぱりよくわからない。

長くなってしまうのですが、それから、新しいエントリーでも続いている、「人間は徹底して受動的であるところから出発するのです」や「このどうしようもなく受動的な場面」などの「形而上学」の話への展開ですが、これも、よくわからないのです。
たとえば、反・反戦派は、反戦派に対して、よく「そもそも戦いは人間の本能である」というような大きな話をもってきて批判しようとするわけですが、mojimojiさんの話の展開の仕方も、どうしてもそうしたものに見えてしまうのです。
パソコンの比ゆでいえば、「学校というソフトのアンインストールの話をそろそろしませんか」と言っているときに、「そもそもコンピュータというのは不可避的に学校的なものである」というような次元の話をもってきているように、思えてしまうのです。たとえばですが、こういうところです。

その意味で、生きることは、まさに、(学校という目に見える装置が現にあろうとなかろうと)学校の中に生きることそのものである。学校がアプリオリアウシュヴィッツだと言うならば、それ以前に、この世界は不可避的にアウシュヴィッツである。残念

どうしても、「学校の存在しない世界はありえない。今よりいい学校があるだけだ」という話にもどっているように聞こえる。そして、最初からそれをこそ常野さんは批判していたのではなかったか、と思うのです。

*1:植民地主義は一つの体制である」人文書院『植民地の問題』33頁

*2:同書52頁

*3:同書87頁