もらうのは何か

日本テレビのドキュメンタリー番組を流したまま仕事をしていた。ドキュメンタリーは、コウノトリの繁殖で有名な兵庫県豊岡市で、環境保護のような活動をしている小学生の話。ながらでちらちら見ていたのだが、主人公と思われる女の子が、子供たちでやっている有機農法の田んぼのわきで、インタビューに答えていた。田んぼのそばにコウノトリの巣があって、農作業をしているとコウノトリが見える。で、彼女は、コウノトリの姿を見ると「私たちももっとがんばろうと勇気をもらえると思うので、これからもがんばっていきたい」というようなことを言っていた。
たぶんいろいろな人が指摘していそうだが「勇気をもらう」とか「元気をもらう」という表現は、最近よく聞かれるようになった表現だ。この表現の流行の起源が何かあるのかどうかは知らない。
……とここまで書いてググってみたら、去年の8月に書かれた山口ともみ氏の文章を見つけた。
http://diary.jp.aol.com/mywny3frv/291.html
と思ったら、これは発表時にすでに読んで関心をもった記事だった、ということを思い出した。
この記事には、デイリーヨミウリの記者によるコラムもリンクされている。
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/learning/english/20060414us01.htm
というわけで、コメント欄を含めて、山口氏の記事ですでにいろいろなことが言われていてつけくわえることはあまりない感じでもある。
がせっかくなのでなんとなく考えたことを書いてみる。
たぶん「もらう」というのは、使っている本人としては謙虚さを出しているつもりなのだと思う*1。まあ要するに、「元気」とか「勇気」は、「良い物」なわけだけど、そのような「良い物」を自分で作ったり出したりした、などと言うのはおこがましい、というわけだろう。逆に言うと、「病気」など「悪い物」は、すべて自分が作ったものだ、と言っておかないとまずい。「すべてわたくしの不徳のいたすところであります」と言っておくのが正解である。
自分が「もらう」立場だ、と言うことの裏には、自分は何かを「与えて」感謝されるような人ではない、という意味あいがある。つまり「謙遜」、ということなのではないかと思う。「もらう」人は、「感謝する人」である。「感謝の心を忘れずに」、というのは、実は、常に、与える立場ではなくて「もらう」立場にあれ、ということなのである(「感謝される」立場にたってしまったら、何を言われるかわからない。バッシングの対象になりうるということである)。
その意味では、元気を「もらう」という言葉は実はあまりよくなくて、「いただく」という言葉の方が、上記のような意図にはより適しているだろう。というわけで、「元気をいただいた」という言葉でググってみると、案の定かなりヒットする。「元気をもらう」と「元気をいただく」のどっちが気持ち悪いか、というのは微妙なところだけれど……。
「元気」とか「勇気」は「がんばる」ということと関連するワードである。で、「がんばる勇気をもらう」、と言わなければならない、というのは、「がんばる勇気を出す」と言ってはいけない、ということである。もちろん大前提として「がんばらねばならない」というのがある。しかし、それだけではない。「がんばる」というようなすばらしいことを「自発的に行った」などと主張することは、傲慢なのである。あくまで「がんばらせていただく」ということでなければならない。「がんばりました」とまず言わないといけないのだが、それで終わってはだめなのである。必ず「がんばれたのは、みんなのおかげです」と付け加えねばならない。
「がんばる」というのは、たいていの場合「自己を犠牲にして何かをやること」と同義であったりするが、そのように考えると、われわれは、「自己犠牲」を強いられているだけではなく、「自己犠牲を自発的に行う自己」を抹消すること、をも求められている、ということになりそうだ。*2
というわけで、野宿者の人を見て、「あの人たちを見て、呑気をもらいました。ありがとうございます。これからもがんばらずにいきたいです」などコメントするのは、もちろん不正解である(というか皮肉にとられてしまう)。野宿者の人が実は空き缶集めなどで「がんばっている」ことを知って、「ホームレスの人たちから勇気をもらいました。」と言うのは正解。
追記:ちょっと関連するようなしないような気もするのだが、「命をもらう」とか「命をいただく」という表現は、かつては「殺し屋のセリフ」以外には聞こえなかったが、最近はどうやら食材としての牛さんや豚さんに「感謝」しつつ食べる、というニュアンスでも使われているようだ。

*1:しかしもちろん、山口氏も言うように、そこには「見下す視線」が見え隠れするわけで、たしかにそれも気になるわけだが

*2:ある意味、唯一許される自発性は、「自発的な自己を抹消する自発性」だけである。