「時代/遅れ」について

id:t_keiさんの、コヤニスカッティ――平衡を失った世界を、まったくそうだな、と思いながら読んだ。

僕は冒頭の応答を読んでいる間、「まるで僕たちはマリー・アントワネットみたいじゃないか」という思いを抑えることができなかった。自分たちの狭い世界の中で、自分たちの振る舞いがどのような結果を招いているのかを見ることもなく、現実を置き去りにして、「"やられても仕方がない"という発想は不謹慎だ」だとか、「誤謬や偏狭や怨嗟を認識し、感情の"自然状態"を克服すべき」だとかおしゃべりをしている。まるでマリー・アントワネットが、無邪気に「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」、と言い放ったかのように。

http://d.hatena.ne.jp/t_kei/20080123/1201095856

世界がむちゃくちゃになっている。そのむちゃくちゃな世界を目の前にしての(「自然に」発せられた)「叫び」、というかむしろ「呻き」のようなものが、辺見庸の言葉からはいつも感じられる(私はそれほど熱心な辺見の読者ではないのだけれど)。
さて、「乱暴な世界」に反応して、言葉が発せられる。するとすかさず、「乱暴な世界に反応して発せられた言葉」に反応した言葉が押し寄せる。「なんて乱暴な言葉だ!」と。言葉への不快感をあらわにする人々によって、「世界の乱暴さ」の方はスルーされつづける。
これはいわば、「火事だ!」と叫んでいる人に対して、「夜中にそんな大声を出すなんて迷惑だ!」といっているような奇妙さがあるのだが、どういうわけかこの奇妙さは意識されない。
「私は審問の語法で語らない」という内田樹のお上品なおしゃべりは、大うけにうけている。一方、辺見庸の痛々しい呻きは、暴力的だとか「暗く闘争に彩られていた」旧態依然のサヨク・スタイルだとか、要するに「時代遅れ」のレッテルを貼られて冷笑される。
しかし、「時代遅れ」とはいったいなんなのだろうか。
子供のころ読んだ恐竜の本では、恐竜は神経の伝達速度が遅く、手足の刺激が脳に痛みとして伝わるまでかなりの時間がかかる、と書いてあった。
対岸の火事」という言葉があるが、対岸どころか周り中が火の手に包まれているのに、涼しい顔で語法談義をしているというのは、むしろそちらの方にこそ、どこかに致命的な「遅れ」があるのではないか、と思えてならない。