救急車

あまり詳しく書かないほうがいいのかもしれませんが、今日、あるお店にいたら、近くで、一人で来ていたお客さんが倒れて、とっさにPHSで救急車を呼びました(はじめて119に電話しました)。はっきりと確認したわけではないので心配は心配なのですが、結果的にはそれほど大事ではなかったようでよかったです。
電話して場所や症状などを説明したのですが、雪の影響で出動が多くて、到着まで30分ぐらいかかる、と言われて、そのときはどうしようかと思いました。電話を切ったあとも、折り返し消防署(救急隊?)から何度か電話があって、状況説明とかを少ししました。折り返しかかってきた番号は、やはり医療関係だからか、070のPHSの番号でした。
「救急車!」と思ったとき、とっさに、id:yskszkさんのエントリーのことが頭に浮かびました。

このところ、救急車濫用批判の声が高まっている。個人的には「禁煙ファシズム」とやらよりも悪質だと思っている。テレビをひねればアナウンサーが「タクシー代わりに安易に救急車を利用していては、本当の重病人の命が助からない」とわめき散らし、当の医師までもがそのアナウンサーの口真似をするのだから救いがない。まあ、この手合いは日本医師会に属して自民党にひょこひょこと投票している「意思なき医師」であろうので、話半分に聞き流すのがよろしい。またこうした意見はいまにはじまったことではなく、オレが確認できる範囲内では隆慶一郎は「新潟日報」に連載していた*1エッセイで、同紙が1986年9月18日の夕刊に掲載した「救急車の利用・困るタクシー代わり」という記事に反論し、「救急車をタクシーと思うべし」というタイトルの文章を寄せている(出典『時代小説の愉しみ講談社文庫)。20年以上前から「問題」になっていたというか、させられていたわけだ。
なぜこんな話を始めたかというと、オレの亡父がつねづね「自分のからだに異変があるのに気付いたら、ためらわずに救急車を呼べ」と家族に言い聞かせていたのを思い出したからである。そんな父の職業は国立病院に勤務する内科医であった(念のために申し添えれば、国立病院の勤務医は医師のなかではもっとも所得の低い部類に属する。また父が阪神ファン社会党支持者であったことも大急ぎで付け加える)。おそらく父は研修医時代に、救急車が到着するのが遅れなければ助かるはずだった患者を目にすることが何度かあったのだろう。
だいたい自分の病状が我慢していればすぐに治るのか、一刻も早い治療を必要とするのか、素人には判断が難しい。しかも休日や深夜ともなれば、病院の診察を受けるどころか、市販の医薬品すら買えないこともある。さらにひとり暮らしともなれば、いよいよ進退窮まった。同居人がいれば当座の熱さや痛さをしのぐものをコンビニまで買って来てほしいと頼める。しかし歩くのもままならない独身者はどうすればいいのか。オレは大学生のときに夜中に猛烈な喘息の発作を起こし、手持ちの経口薬や吸引器がまったく効かず、119にダイアルを廻したことがある。こうした救急車の利用法は間違っているのだろうか。
続けて問いたい。「タクシー代わりに安易に救急車を利用したせいで、命が助からなかった重病人」の数は統計的に有意なのだろうか。そもそもそうしたデータがあるのだろうか。もし核たるデータもないままに「救急車をタクシー代わりに使うな」と声を上げているのだとするなら、それはただのプロパガンダにすぎない。
と、文章が熱を帯びすぎるのはみっともないのでそろそろ終わらせるが、隆慶一郎は「特に地方から出てきた一人暮らしの若者に、救急車はタクシーだと思って気軽に使えよ、と常日ごろからいってい」たそうである(前掲書より)。これにはオレも同意する。20年前といまでは時代が違う、と言われたらそれまでだが。

http://d.hatena.ne.jp/yskszk/20071126#p1

すいません、どこも省略できそうになくて、結局全部引用してしまいました。