まあ、皆ほんとに労働しない(と思われている)人嫌いだよね

 野宿者に対する、あるいは野宿者排除に反対する人へのバッシングに向ける、「フツーの」人々の大変な熱意、というのにはおどろかされます。これは、「まあ、皆ほんとに労働好きだよね」の正確なうらがえしである、「まあ、皆ほんとに労働しない(と思われている)人嫌いだよね」だと思うのですが、すこしそのへんに関連する話を紹介してみます。
 さて、大人たちのなかには、若者をバッシングして「フリーターだのニートだの、仕事をする気のない怠け者の若者が増えているのはこまったことだ」と言う人もいます。しかし、「そうした見方は誤解だ、若者は仕事をしたがっているのであり、若者に正社員の仕事がないのがいけないのだ。増えているのは、怠け者の若者ではなく、非正規雇用で過酷な条件で労働をしているワーキングプアーの若者だ」という考え方もあります。左翼の日本共産党のスローガンはそうした考え方をふまえています。街にはってある日本共産党のポスターには「若者に仕事を」というスローガンが書いてあります(youtubeの日本共産党のチャンネルにも大きく掲げられています)。
 ところが、ボブ・ブラックという人は、1985年に書かれた「労働廃絶論」という文章で、こう言っています。

リベラル派は、雇用差別を終わらせるべきであると言う。
私は、雇用を終わらせるべきであると言いたい。
保守派は労働の権利を主張する。
カール・マルクスの義理の息子で気まぐれなポール・ラファルグに習って言えば、私は怠ける権利を主張する。
左翼は完全雇用がよろしいと考える。
シュールレアリストを真似て言うと、 −私はふざけているわけではない− 私は完全失業がよろしいと考える。

http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/black1.html

 ボブ・ブラックという人の考え方は、左翼の一種の、アナーキズムに分類される考え方でしょうが、こうした考え方にたいして、最初にあげた若者バッシングの大人も、共産党をふくむ若者擁護の人も、両方、「ふざけるな」と怒るかもしれません。とくに後者は、こう言うでしょう。若者が仕事がなくて困っている(つまり「労働の権利」が奪われている)のに、「怠ける権利」だの、「完全失業がいい」などとは、どういうことだ!そんなことを言うから、「怠けたがっているニートの若者が増えている」などという誤解が生まれるのではないか!……と。
 しかし、そのような怒りが生まれるのは、「人間は働くものだ」という考え方、あるいは「働くということは人間にとって大事なことだ」という考え方が、空気のように、当たり前のことになっているからではないでしょうか。だから、ブラックのような「労働を廃止するべきだ」などという主張をきくと、多くの人は「ふざけている」とか「できっこない」と思ってしまうのです。
 ところで、岩波新書に、今村仁司という人が書いた『近代の労働観』という本があります*1

近代の労働観 (岩波新書)

近代の労働観 (岩波新書)

 1998年に発行されたこの本で、今村さんは、「労働が人間の本質であるとか、労働は本来的に喜ばしいとかいった思想」*2」は、「空気のように自明なもの」となっているけれど、それは本当のことだろうか?という疑問を出します。「労働は大事だ(労働は人間の本質である)」という考え方は、労働者を搾取する資本家や、資本主義に賛成する人たちはもちろんですが、彼らと対立する、労働者の味方である社会主義の人たち(左翼)も、共通してもっている考え方なのです*3。労働が大事なのは当たり前なのであるから、「労働者の味方をする」というのは、苦しい労働をしている労働者がいるなら、その「苦しさ」をなくして(労働環境の改善)、労働を、本来の「喜ばしいもの」にすることであって、「労働が苦しいから労働そのものを廃止してしまえ」なんてとんでもない主張だ、というわけです。
 ところが、今村さんは、こうした「労働は大事だ」という考え方があたりまえになったのはそんなに昔のことではなく、その考えは、たった300年か400年前のヨーロッパで生まれて世界にひろまっていったものでしかない、ということを教えてくれます。近代以前においては、多くの社会で、「忙しく働く」ということは「悪いこと」であり、「ぶらぶらしている」「なにもしない」ということは、むしろ「いいこと」である、という価値観は、普通のことであったのです。何千年もまえの古代ギリシャでは、手仕事をすることは卑しいこととされていました。手仕事をする奴隷は、卑しいものだった(もちろん、これは、奴隷制度という差別的制度ときりはなせないわけですが)。

太古的な労働経験とは、少ない生業の時間と余暇を享受する経験であった。近代以前の生活の社会的評価機軸は、余暇である。古代では一部の人間集団だけの余暇であったにしても、階層の上下を問わずすべての人々の価値意識を方向づける文明の価値基準は余暇(自由時間)にあった。多忙(時間がないこと)はマイナス価値であった。(p.25-6)

 今村さんの本には出てきませんが、日本だってそうです。昔私のブログでも昔紹介しましたが*4、クイズお江戸でござるで有名な、江戸時代のことについてものすごく詳しい杉浦日向子さんは、江戸時代も、町人とっては「ぶらぶらしてめったに働かない」というニートのような暮らし方は、別に普通の暮らし方だった、ということを教えてくれます。
 もうひとつ、今村さんが言っているのは、古代にだって、たとえば農民が農作業でいそがしく働いていたように見えるのですが、その場合の農民の行為は、道具を使って自然を変革し、何かを生産する、という近代的な労働としてはとらえられていなかったようだ、ということです。それはむしろ、宗教的な行為であり、宗教儀式と切り離せないような行為であった。だから、農作業の中にリズムがあったとしても、それは、宗教的な、儀式のリズムであった。
 さて、今村さんは、それまで普通だった、「なにもしないのは良い、いそがしいのは悪い」という価値観が、近代にはいると180度ひっくり返ったのだ、と言います。

近代では余暇と無為は、道徳的に悪になり、多忙さ(ビジネス)が道徳的にプラス価値になる。太古的な労働経験の崩壊過程はそのまま近代の出現課程になる。壮大な価値転倒が起きた。(p.26)

 今村さんによると、その「価値転倒」がおこったのは、17世紀の初頭のヨーロッパにおいてです。このころの都市には、農村から都市に流入した多くの貧民たちがいました。彼らは、「浮浪者」または「乞食」でした。もちろん、いつの時代にも貧しい人たちはいたのですが、この時代、多くの貧民が、「犯罪者」ないし「犯罪者予備軍」として、収容される、ということがおこります。

(……)貧乏であること、あるいは貧民であることは、罪であった。ひとによっては貧乏を道徳的罪とみなすこともあったが、たとえそうではないにしても、国家の行政的観点からみればひとつの犯罪の可能性であった。だから浮浪者や乞食という形をとる貧民は、特定の場所に収容されなくてはならない。この空間は、道徳的罪と犯罪の可能性を防止するための空間、つまり収容所になる。それは当時は「矯正院」あるいは「労働の家」と呼ばれた。(p.29)

 では、収容してどうするのか。犯罪者は、悪いことをしているのだから、つかまえて「罰」をあたえる、ということになります。その「罰」が「労働」だったわけです。「罰」は、いやなことをさせるから「罰」になります。みんながよろこんで牢屋に入りたいなら、監禁は罰にはなりません。しかし、罰としての労働は当初から二重の意味をもっていたのです。「強制労働」は、悪いことをした人への「罰」であると同時に、悪い人を、まっとうな人に治すための「治療」であり「教育」でもあったわけです。したがって、労働収容所は、監獄であり、病院であり、学校だったわけです。というか、労働収容所は、近代的な「監獄」「病院」「学校」の起源なのです。

 労働収容所の中で、貧民を労働させ、労働によって懲罰する。労働は仕事を教えると同時に教育する手段であった。(p.29)

 といっても、この収容は、貧民を「救済」する「慈善事業」という建前ももっていました。しかし、この「慈善」は、「監禁」と「拷問」と表裏一体だったのです。
 さて、当時の統治者(つまり「お上」ですね)は、貧民を、「貧しい人々」(ポーヴル)と「人間の屑」(ミゼラブル)という二種類に分類したそうなのです。お上が特に問題にしたのは、「人間のくず」(ミゼラブル)のほうです。お上は、「人間のくず」を、社会にとっての「異物」とみなしました。

 「ポーヴル」は社会的規範と生産体制にとって「受け入れ可能な」人々である。反対に「ミゼラブル」は、どうにも規範になじまず、生産体制を撹乱する存在であり、政治的にも経済的にも、さらには宗教的にも異物である。(p.38)
 政治と経済の秩序には到底受け入れがたい「人間の屑」が存在する場合には、そうした「屑」を特定の空間に集中的に収容して、彼らを「受け入れ可能な人間」に教育して「まともな人間」に変換させなくてはならない。「人間の屑」はその存在自体において「罪であるのだから、この罪に「罰」を加えて、再教育しなくてはならない。「罰」とは人間を矯正する強制的「労働」である。(p.40)
 近代における怠惰との闘争は、17世紀において開始するのだが、この時期の怠惰対策が怠惰な人間、「人間の屑」を施療院や矯正院に封じ込めて、彼らを近代経済にふさわしい労働人間に作り替えることであった。(p.45-6)

 つまり、現代の「労働者」「勤労者」の「祖先」は、「浮浪者」「人間のくず」「怠け者」であったともいえるのです。ところが、改造人間、つまり、「人間のくず」から「まっとうな人間」に改造されてしまった「勤労者」の子孫が、現代、自分たちの祖先である「浮浪者」を、「人間のくず」とさげすんでいるのです。なんという皮肉でしょうか。(つづく)
↓こちらもたいへんわかりやすくかいてありますのであわせてお読みください。
スタンダード反社会学講座http://mazzan.at.infoseek.co.jp/lesson6.html
「労働廃絶論」http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/black1.html
「(元)登校拒否系」 http://d.hatena.ne.jp/toled/20080119/p1

*1:昔、私のブログでちょっとだけ触れたことがあります http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20060625/p3

*2:p.199

*3:「労働は人間の本質であり、人間は労働を通して人間性を完成させていくだろうし、労働をとりまく否定的社会的条件または環境を改善するなり変革するならば、人間は労働のなかで、そして労働によって、人間にとって基本的な事柄や大切なことを実現するだろう(p.198)」という「労働中心主義的人間論(p.197)」は、20世紀の社会主義が盛んにふりまいてきたものでもあります。

*4:と思ったら、消した記憶ないのに、記事が消えてる!!??どういうこと?http://b.hatena.ne.jp/entry/2070496