プラネテスのポリティカ その3

先日の「プラネテスのポリティカ その2」というエントリーには、ブックマークやコメント欄で多くのコメントをいただきました。そのほとんどが「ロックスミス問題」についてのものでした。というわけで、いくつかのコメントについてもう少し答えたいこと、というよりは言いたいこと、があるのですが、少し長くなりそうなので、エントリーとして立てました。
※あいかわらずネタバレあり。そして長いです。

英雄化と相対化

>大きな目的のためなら300人の犠牲がOKかと問われれば、二つ返事でうんと肯けるはずがないのですよね。(BWさん)

こはちょっと象徴的な表現だと思います。「二つ返事でうんと肯けない」というのは、324人もの人を殺すことが、「通常の」道徳では肯定できないからです。そして、ロックスミスは、その「通常の」道徳では肯定できない恐ろしいことを実際に行った。ところが、そのことによって、ロックスミスは、通常の道徳の枠の中で大きな罪を犯したのではなく、通常の道徳の枠を超えるほど大きなことを行った、と解釈されるのです。「歴史の英傑」は「悪魔のように嫌われ憎まれた」というコメント(tyokorataさん)がありましたが、悪魔のようなことを行ったロックスミスは、通常の道徳では裁けないほどの大物(英雄)なのです。これはつまり、犯罪者の英雄化のからくりです。このからくりの中では、「英雄」は、ちっぽけな一般人がとらわれている通常の道徳などというものを超えた、もっと「大きい」ことにかかわっているがゆえに「英雄」(ヒーロー)だとされるわけです。これはある意味、殺しをしたヤクザのほうが「ハクがつく」という例のやつと同じからくりです。「一人を殺せば犯罪者だが、百万人を殺せば英雄となるOne murder makes a villain, millions, a hero.」という有名な言葉があります。チャップリンの『殺人狂時代』の中に出てくるものが有名ですが、映画では、この言葉のあとには「数が聖化するNumbers sanctify」と続くそうです。
ところで、チャップリンが「一人を殺せば犯罪者だが、百万人を殺せば英雄となる」という言葉を使ったときには、「英雄」に対する批判的視点があったはずです。彼は、本当の意味の大量殺人犯である権力者が、「英雄」とされて罪を問われない現実はおかしい、と考えていたはずです。ところが、最近では、この言葉を、チャップリンとは違った意味で受け取る人も多いようです。そういう人々にとって、「一人を殺せば犯罪者だが、百万人を殺せば英雄となる」のあとにつづく言葉は「そんなものさ」です。「殺人者も英雄も同じようなものさ」「善も悪も同じようなものさ」と、彼らはすべてを平板化します。つまり彼らは、「通常の道徳」から、いや「あらゆる価値判断」から距離をとる(つもりになる)ことによって、高みにたちます。彼らにとっては、ロックスミスは「善でも悪でもない」わけですし、また逆に、ロックスミスを殺人者として告発しようとする人々も「善でも悪でもない」わけです。彼らは「どちらもやりたいようにやればいい。どちらが正しいかそのうち歴史が判断するだろう」などとう言ったりもします。「正しさ」があるとしても、その「判断」をするのはあくまで「未来の歴史」とやらであって、決して自分ではありません。ここからどのような態度が生まれるかといえば、「どっちもどっちなんだから、どっちにもコミットしない」か、あるいは「自分はたまたまロックスミスの部下だから、上司の言うとおり一生懸命「いい仕事」をする。それで何が悪いんですか?」というものでしょう。
というわけで、いずれにせよ、結局は、英雄=大量殺人犯は減刑され、免罪されるというわけです。大きな犯罪に、それを超える「大きなもの」や「高みからの視点」が対置されることにより、犯罪そのものが相対化されます。『プラネテス』においても、ロックスミスは作中で「悪魔」といわれていたり、「ヤマガタは私が殺した」と罪を認めているようにも見えますが、しかし、こうした「大きなもの」や「高みからの視点」がつねに背景にみえかくれすることによって、結局、殺したものとしてのロックスミスの具体的な責任は相対化され、矮小化されています。

ロジックの反転

さて、『プラネテス』におけるロックスミスは、以上のように、一方では、どんな価値判断からも距離をとっているつもりの自称「相対主義者」を喜ばせるような描写になっています。ところが同時に、『プラネテス』では、実はさまざまな価値判断が、自明なものとして提示されています。たとえば『プラネテス』では、「大きな目的のためなら324人の犠牲がOKか」という問いが、いかにも重々しく判断保留に付されているように見えますが、その反面、「324人の死よりも大きな」目的、とやらが存在する、というのは自明のこととされています。そもそも、実験で「貴重なデータがとれた」というけど、324人の命とくらべてそれはどれほど「貴重」なのか?(その「貴重さ」はどうやら偉大な科学者のロックスミスにしかわからないということになっているようなので、暗澹たるきもちになります)とか、データをとるためにほんとうに危険な実験をする必要があったのか?とか、というかそもそも、ほんとうに木星に行く必要なんてあるのか?とか、さまざまな重要な問いも、まったくスルーされています。
さらに、18話のせりふの中で、ロックスミスは、ヤマガタについて「みんなの幸せのために働いてくれた」といっていました*1が、『プラネテス』では、ロックスミスがかかわっている「大きなもの」の一つとして、「みんなの幸せ」「人類の幸福」がさりげなく示されています。このように、ロックスミスは「あたりまえの」道徳を超えていることが強調されますが、なんだかんだいって結局「最大多数の最大幸福」というありきたりな道徳が回帰しています。この「みんなの幸せ」とう「より大きな価値」がもちだされていることによって、「300人の犠牲がOKか」という問いは、実はすでに答えが出されているのです。ロックスミスは324人をはるかに上回る「みんな」の幸せ、という「大きなもの」を生み出したのだから、悪魔のように見えるロックスミスの方が、実は「道徳的にも」偉大な人物なのである、という道筋がひそかにつけられているのです。
けっきょく、すべては、「通常の道徳」が否定されることへの恐怖から説明できる、ともいえます。「すべての道徳はあらかじめ死んでいたんだ」とつよがる「相対主義」も、「通常の道徳」をやっつけてくれるより「大きな価値」を召還する態度も、つまりは、目の前の道徳を自分で葬ることが怖い、という、恐怖の表れなのです。
さて、この、より「大きな価値」がもちだされると、一種倒錯的な事態さえ生じます。たとえば、ありきたりな詐欺の手口を考えてみてください。高額な羽毛布団とか英会話セットを買わせる詐欺師は、自分が売りつける商品の値段をあえて高額にします。すると被害者は、うたがうどころか、目の前の商品が特別に高額だからこそ(つまり自分が支払う犠牲が大きいからこそ)そこには特別に大きい価値が「あるはずだ」と考えてしまうわけです。これと同じように、通常の道徳が否定されればされるほど、そこにはより大きな道徳的価値が「あるはずだ」とされます。そうなると、(通常の道徳に照らして)大きな罪をおかしたものは、だからこそ、道徳的に偉大だ、ということにさえなります。道徳からより大きくそれたものが、より道徳的になる、というこの倒錯的事態について、スラヴォイ・ジジェクという思想家が、ジャック・バウアーと緊急時の倫理というエッセーで書いています。

イェルサレムアイヒマン」においてハンナ・アーレントは、ナチスの処刑者たちが自らの恐るべき行為に耐えた方法を正確に説明した。彼らのほとんどは全然邪悪ではなかった。彼らは自らの行動が犠牲者に屈辱や苦しみや死をもたらすことを知っていた。この苦境に対する彼らの逃げ道はこうであった。
「『私は人々になんと恐ろしいことを行ったのだろう!』と言う代わりに、殺人者たちはこのように言うことが出来た。『職務を果たすときに、なんという恐るべきものを私は目撃しなければならないのだろう! 私の肩に背負われた務めの、なんと重大なことよ!』」
このようにして彼らは、誘惑に抵抗するためのロジックを反転することができた。彼らの「倫理的」な努力は「殺さず、拷問せず、恥をかかせないという誘惑」への抵抗に向けられたのだ。こうして、哀れみや同情という自然な倫理的衝動に背くという、まさしくその行為こそが、倫理的に崇高であることを証明するものとなってしまった。職務を果たすことは、誰かに危害を加えるという重荷を引き受けることを意味したのだ。

http://d.hatena.ne.jp/flurry/180009#20

この「ロジックの反転」が行われてしまえば、「その行為を行うときの道徳的な抵抗が大きいことをした人こそが、より道徳的な英雄だ」となってしまう。一つ返事で肯けることをした人より、(道徳的な抵抗感があって)百返事でも肯けないことをした人、さらに一万返事でも肯けないようなことをした人の方が、まさに「道徳的に」よりすごいことをした、ということになってしまうのです。こうなると、倫理の問題は、「いかに倫理的抵抗感と戦うか」という問題にすりかえられてしまいます。「いかにして殺さないようにするか」ではなく、「殺すことへの抵抗といかに戦うか」が「倫理的な努力」となってしまうのです。これが、権力者が犯罪を遂行し、また遂行させる際に、どれほど都合のいい事態であるかはあきらかです。

トリアージの論理

ところで、少し前にはてなで「トリアージ論争」というのがありました。トリアージとは、災害救助などの「緊急時」において、医師や医療資材などが限られているときに、「助かる可能性がない」と判定された重傷者の治療を一番あとまわしにする、という仕組みです。これは、より多くの命を救うための措置、とされます。トリアージの論理の中に「より多くの人命を救う」という「大きな道徳」が持ち出されていることで、多くの人は「(重傷者を治療せずに放置するというような)通常の道徳に照らせば許されないことも、場合によってはむしろより道徳的なことなのだ」と納得させられてしまいます。このトリアージという仕組みそのものに含まれる詐術についてはid:toledさんのこのエントリー(あのー、それ、普通にかわいそうなんですがーー「トリアージ」という自己欺瞞 - 登校拒否への道(とうこうきょひへの みち))で明快に指摘されていますが、問題はこのトリアージという一見もっともらしい理屈が、殺人者の英雄化の理屈に容易に転じる、ということです。
「非国民通信」さんは、「トリアージの論理」が、ジジェクが言っていた「ロジックの転換」に進むことを喝破して、つぎのように述べています。
他人の犠牲を善行に見せるには - 非国民通信

 AならばBである、しかしBならばAである、そうは限らないわけです。クマならば哺乳類ですが、哺乳類ならばクマという訳ではありません。ですから「助かる人を最大にする」選択が「助けられない人を捨てる」選択を常に伴うとしても、「助けられない人を捨てる」選択が「助かる人を最大にする」ことに結びつくとは限らないわけです。なのですが、この一方通行の関係を理解せず、主客転倒したままトリアージの論理を拡大させていくと「助けられない人を捨てる」ことこそが「助かる人を最大にする」ことであり、往々にしてそれが最善だと言うことになってしまいます。そして「助けられない人を捨てる」人は「助かる人を最大にする」ヒーローとして想起されるようになる、と。
 このヒーローとは、小泉純一郎竹中平蔵であり、橋下徹でもあります。つまり彼らは「助けられない人を捨てる」行為に邁進してきた、邁進しているわけですが、その支持者から見ればそのトリアージは「助かる人を最大にする」ための積極的な善行なのです。一方でその選別に反対する人や手を緩める人は「助かる人を最大にする」ことを阻む抵抗勢力であり害悪と、そう位置づけられもします。そしてここで求められている「主」は「助けられない人を捨てる」ことの方にあり、いかに人を選別し切り捨てていくかが追求され、いかに人が選別され切り捨てられたか、その被害の度合いが大きければ大きいほど、「助かる人を最大にする」ための改革は進んでいるとしてヒーローへの支持は高まるのです。

http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/625334246bb0be75f6532962061f4597

ロックスミスも、「ダーク」ヒーローかもしれませんが、やはり「ヒーロー」として描かれています。そして、小泉や竹中や橋下が支持されるのも、たぶんに「ダーク」ヒーローとしてであるわけです。
とにかく、フィクションの登場人物とはいえ、ロックスミスに魅かれる『プラネテス』読者が多い*2ということと、小泉や竹中や橋下が支持されることは、無関係ではありえないと私は思います。

犠牲の論理

予想外に長くなってしまったのですが、『プラネテス』でもう一つ気になることがあります。それは、「殺したもの」としてのロックスミス英雄化が、「殺されたもの」としてのヤマガタ(をはじめとする324人)の聖化とセットになっているところです。
たとえば、靖国神社に参拝した小泉元首相は、談話の中で繰り返し「戦没者尊い犠牲の上に戦後日本の平和と繁栄があるのであり、その犠牲に敬意と感謝をささげるべきだ」というようなことを言っています。また、ある大学の薬学部で行われた「実験動物慰霊式」で、実験動物センター長は「医療、薬学の教育研究のために尊い犠牲となった動物たちに対して、心から感謝と追悼の念を表し、その冥福を祈る」という慰霊の言葉を述べたそうです*3。こうした「犠牲の論理」は、いたるところに見られるものです。チャップリンは「数が聖化する」といいましたが、「犠牲の論理」とは、権力者が、自らが殺したものを「英雄化」「聖化」する論理です。
「犠牲」という言葉は、死を上回る「大きな」もの(みんなの幸せ、国益、人類の幸せetc.)を捏造・召還し、それと特定の「死者」とを結びつける魔術的な言葉です。そして、権力者によって恣意的に殺されたものたちが、「犠牲者」とされる、すなわち「聖化」されると、彼ら「殺されたもの」の被害者としての性格は薄められ、相対的に、殺したものの加害者としての性格も薄められることになります。この「犠牲の論理」が、「殺す側」にとって都合のいいもの、つまり、「殺した者」の具体的な責任を隠蔽し、「殺す側と殺される側」の敵対構造を隠蔽するために用いられるものであることはいうまでもありません。「犠牲の論理」によって、「殺したもの(加害者)」と「殺されたもの(被害者)」は、ともに「崇高なもの」にかかわった、「崇高な存在」になります。両者の決定的な断絶が隠蔽され、あまつさえ、両者は、あたかも、聖なるもの、大いなるもの、崇高なもののために、ともに身を捧げ、ともに戦った仲間なんだという印象、つまり「どちらも英雄(ヒーロー)なんだ」という印象与えられます。いまさら言うまでもないことですが、死者を「英霊」化する靖国神社とは、このようなごまかしを行うための装置に他ならないわけです。
プラネテス』でも、そのようなからくりがあからさまに用いられています。id:uedaryoさんもコメント欄で問題にしていますが、第18話では、ほかならぬ「殺した」側の(しかも生き残っている)人間であるロックスミスと、「殺された」側のヤマガタが、同じグスコーブドリなんだ、と示唆されています。コメント欄でtyokorataさんは「つまりヤマガタ=ロックスミスという図式が出来上がります」と書いていますが、まさにそのとおりです。グスコーブドリ(や宮沢賢治)の「崇高な」イメージが、対立や責任を隠蔽し、あいまいにしてしまうための都合のいい道具として使われています。自分がグスコーブドリと言われていたことを聞いたロックスミスは、それを否定せず、その上で彼は、遺族であるヤマガタの妹を侮辱し、さいごには星空を見上げて、恥知らずにも「悲しくなった」などと感傷にふけってみせるのです。「殺す側」の具体的な責任も、「殺される側」の具体的な怒りも悲しみも、すべては星空のような大きなもので塗りつぶされてしまいます。あとには、英雄の感傷が残るだけ、とでもいうのでしょうか*4


参考
人は「全体」のために生きているのではない

「かわいそうなぞう」はなぜ「かわいそう」か - 過ぎ去ろうとしない過去

「残酷な現実」の内面化、あるいはオメラスの発掘 - 過ぎ去ろうとしない過去

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5 読み応えがありました。
4靖国問題』とセットで!
1 思想から始まる論理
4 国家のための犠牲は、簡単に尊いと言えるのか?
2 人は他人のために生きている

*1:ロックスミスは、実際「悪魔」というより私には俗物にしか見えないのですが。

*2:ジジェクのエッセーの全体を読むと、「なぜ人はロックスミスに魅かれたがるのか」ということは、人々の「倫理的不安」(これはサルトルの『存在と無』に出てくる言葉ですが)と関係がある、ということかもしれません。

*3:高橋哲哉『国家と犠牲』p.30

*4:殺された者を、「尊い犠牲」として「聖化」しようとする「犠牲の論理」、というか「犠牲の物語」は、殺す側の人間、権力者の側の人間によって提供されるのですが、やっかいなことに、殺される側の人間が進んでこの物語を受け入れ、深く内面化することもあります(『プラネテス』のヤマガタもそうかもしれません)。