すばらしい民主主義国家ニッポン──議論があるっていいことだ!

「死刑反対派」であったはずの法務大臣が死刑執行を行いました。その際、このような発言をしたそうです。

記者会見した千葉法相は執行に立ち会ったことを明らかにし「あらためて死刑について深く考えさせられた」と述べた。その上で「国民的な議論の契機にしたい」として、(1)法務省内に死刑制度の勉強会を設置(2)東京拘置所内の刑場を報道機関に公開する―を指示したことを明らかにした。

http://www.47news.jp/CN/201007/CN2010072801000271.html

まず、「国民的な議論の契機にしたい」という言葉が印象的です。
千葉氏は、「死刑反対派」として、死刑は〈悪いこと〉である、と考えていたのではないのでしょうか?ところが、その〈悪いこと〉をしてしまった。また、自分のかつての主張をうらぎる行為をしたことは〈悪いこと〉に見える。ところが、その〈悪いこと〉をしてしまった。だから、千葉氏は、自分のした〈悪いこと〉は、何か〈よいこと〉のために「やむをえず行った」ことなのだ、と言わざるをえなかったのかもしれません。しかし、考えてみれば、死刑推進派の論理とは、まさに、殺人(死刑)という〈悪いこと〉を、〈よいこと〉(たとえば犯罪抑止など)のために「やむをえず行う」というものだったはずです。だから当然、千葉氏としては「犯罪抑止のために死刑を執行した」という論理を用いることはできません。そうすれば「推進派」であることになってしまいます(もっとも、千葉氏と推進派のあいだに結局は本質的な違いがないことがまさに今回あきらかになったといえるわけですが)。そこで、千葉氏が苦しまぎれに採用した論理が「議論の契機」でした。いいかえると、千葉氏が今回の死刑執行を「やむをえないもの」として正当化するために採用した〈よいもの〉が、「議論」だったのです。「議論を起こす」という〈よいこと〉のために、やむをえず死刑執行という〈悪いこと〉を行った、というわけです。
現代のニッポン社会においては、「議論があること」は、アプリオリに〈よいこと〉です。なんといっても、ニッポンは、すばらしい民主主義国家です。ニッポンは、言論の自由がないどこぞの独裁国家ではないのです。そう、「議論があること」は〈よいこと〉です。逆にいえば、「議論がないこと」は〈悪いこと〉です。ところが、残念ながら、この平和なニッポン社会には「議論を避ける」という悪い風潮があるようです。やさしいニッポンジンは、平和にくらしていたおかげで、平和ボケになってしまいました。だから、「議論」をおこさねば!……と、いうわけです。
この世界には、通り魔殺人があります。テロがあります。戦争があります。死刑があります。これらは〈悪いもの〉かもしれません。さて、この世界にはまた、Aという意見があります。Bという意見があります。多様な意見があることは〈よいこと〉でしょう。そして、そうした意見をたたかわせる「議論」がセッティングされました。議論が行われることは、もちろん〈よいこと〉です。つまり、この多様な世界の中に、「議論」というひとつの〈よいもの〉が付け加わったのです。まことに喜ばしいことではないでしょうか?こうして、現実に存在する敵対性は、すべて、「議論」における「意見の対立」、「意見の多様性」、に還元されてしまいます。

え?「ゴキブリ○○人は日本から出て行け」と言っている人がいる? 表現はきついですがそういう「意見」を持つ人もいるでしょうね。え? あなたはそれに反対? では、「議論」をしましょう。そこであなたの「意見」をぞんぶんに表明してください。……さて、さまざまな意見が出ましたね、よかったですね。

それで終わりです。何も変わらないし、最初から変える気などない。ただ、議論がありました。波風がたって、もまれて、またひとつ、この社会は成長しました。「それ以上何を求めているんだ?」というわけです。「何も変わっていない」と言われると、彼らはこういいます。「なるほどまだ問題は解決していないのですね。また議論しましょう。え? まだなにか文句があるのですか? あなたは「議論」を否定し、「民主主義」を否定する〈悪い〉人なんですか?」
逆にいえば、どんな〈悪いこと〉を言った人も、それは、「議論を引き起こす」という〈よいこと〉をした人に変換されてしまいます。むしろ、あえて嫌われ者になっても言うべきことを言った勇気ある人、として賞賛されます。彼らは、この平和ボケしたぬるま湯社会に「一石を投じ」「波風」を立てたのです。私はこれを「ビートたけし現象」と呼んでもいいかな、と思っていますが、もちろんあの「佐藤優現象」も、これと密接に関係しているはずです。
ところで、以前私は、酒井隆史氏の『暴力の哲学』の次のような話を紹介したことがあります。

キングにとって、平和とはたんに「波風の立たない」状態なのではなく、「ダイナミックな抗争状態さえはらんだ、たえざる力の行使によって維持、拡大、深化されるべき力に充ちた状態」である。酒井は、キングのこのような言葉を引用する。「非暴力直接行動のねらいは、話し合いを絶えず拒んできた地域社会に、どうでも争点と対決せざるをえないような危機感と緊張をつくりだそうとするものです」。

http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20050108/p1

しかし、現代ニッポン社会においては、つまり id:Romance さんが言う「船上パーティ」においては、マーチン・ルーサー・キングの戦略もまた、船上パーティに吸収されてしまうのです。
地上での嵐から目をそらしている人に対して、波風を立てることで、その嵐に正面から向き合わせる…。これがキングの考え方だったのかもしれません。しかし、船上パーティの人々は、いまや「目をそらしすら」しないのです。彼らは地上の嵐すらも、船上パーティの出し物のひとつとして取り入れてしまいます。彼らは、地上の嵐を、むしろ積極的に「見に」いきます。少しも動揺しないどころか、それをスペクタクルとして消費します*1
船上パーティに興じる人は、しばしば「リアリスト」を自称するのですが、彼らにとっての「現実」とは何でしょうか。「現実の中には〈よいこと〉も〈悪いこと〉もある」。彼らにとって、まさに「それが現実」です。これは結局、「現実の中には〈心地よいこと〉も〈心地よくないこと〉もある」という意味でしかありません。〈心地よくないこと〉も含めて「現実を受け入れる」こと、それこそが、思慮深い、大人の態度だ、というのです。「現実」の中にあるあらゆる不正義は、「過酷な運命」に翻訳されます。彼らにとって、「現実を見すえる」とは「あきらめる」の同義語です。現実を変えようとするあらゆる現実の運動は、「非現実的な子供の遊び」に翻訳されます。彼らにとっては、「あきらめる」ことが「大人になること」です。
そう、彼ら「リアリスト」にとって、「現実は現実である」それだけのことです。「現実は変えられない」、それこそが、「現実」です(そのことは、死刑反対派の法務大臣ですら死刑執行を中止できなかった、という事実によって如実にしめされています)。彼らにとって、「現実」とは、「肯定するしかないもの」の言い換えにしかすぎません。ただ、肯定の仕方の問題は残っています。つまり「何も考えずに肯定する」か、「考えて肯定する」かの違いです。あるいは「議論をしてから肯定する」か、「議論をせずに肯定する」かの違いです。結局、「考える」とは、「議論」とは、「民主主義」とは、現実を肯定するまえに、あるいは現実を肯定したあとで行う「儀式」でしかないのであり、そしてまた、だからこそ〈よいもの〉なのです。
平和ボケのおろかな大衆は、何も考えていません。「何も考えない」とは、つまり、現実の中の楽しくない部分、心地よくない部分を「見ていない」ということです。一方、現実について「考えて」いる人々は、おろかな大衆から一歩ぬきんでています。なにしろ彼らは、現実を肯定するときに、楽しくない部分、心地よくない部分、についてちゃんと「目をそらさずに肯定」します。つまり、ちゃんと「考えて肯定」するのです。千葉氏が「あらためて死刑について深く考えさせられた」と言っていたのも象徴的です。「考えるとは見ることである」cogito est percipio 。これが、現代の「リアリスト」たちの格言なのです。現実の中にある不正義に異議申し立てをするする人々、というのは、そうした「リアリスト」にしてみれば、現実の中にある〈心地よくない部分〉が、〈肯定するしかない現実〉の不可欠の部分をなしていることがわかっていない、知識も経験もない思慮の浅い人々、ということになります。
参考
死刑は悪いので死刑執行に反対します(過ぎ去ろうとしない過去)
プラネテスのポリティカ 3(猿虎日記)
プラネテスのポリティカ 2(猿虎日記)
プラネテスのポリティカ 1(猿虎日記)
サルトル『○○人』──排外主義者の肖像──(1)(猿虎日記)

*1:実は『スペクタクルの社会』て読んだことないのですがたぶんそんなこと言っているのではないかと思います。違ってたらごめんなちゃい。