『鋼の錬金術師』について

だいぶ前に5巻あたりまで読みながら中断していたのを、最近一気に最終巻まで通読しました。忘れないうちに簡単にいくつか書いておきたいことがあります。
まず、なんで5巻あたりで中断したのか、という理由ですが…。「イシュヴァール」という設定に、微妙に違和感を感じたから、でしょうかね。つまり、「アメストリス」と「イシュヴァール」というのは、あきらかに、「アメリカ」と「イスラムorラク」です。もちろん、この漫画では、最初から「アメ」が悪いということは暗示されてはいるのですが、その「アメ」に侵略された中東を思わせる国の男が、復習に燃える「テロリスト」となる、という設定が、やっぱりちょっと安易じゃないかな、というふうに思った*1
そもそも、そういう風にリアルな社会問題ともリンクさせてあるところが、この漫画の評価されるポイントでもあるんでしょうが、結局なんだかんだいって、アメ(文明、軍事大国)VSイスラム(宗教、砂漠、貧困、テロリスト)、みたいなステレオタイプを出発点にして、「でも、アメ悪いんだよ」程度の中途半端なものにしかなってない(ならない)んじゃないか、という予感がしたのです。まあその違和感は、最後まで読んで完全になくなったわけではないのですが…*2*3
ただ、そのほかの点で、いいところがいろいろあると思いました。しつこいようですが、昔だらだら書いたプラネテス』と対比してみたいと思います。
ハガレンは、上述したように、リアルな社会問題もとりいれつつも、基本的には「愛と勇気と友情」みたいな少年漫画的なところがあります。それにたいして、『プラネテス』の方が、より「リアル」で、より「テツガク的」で「深い」、とか思っている『プラネテス』ファンは多そうです。しかし、ぜんぜんそうではないと思います。むしろ、ハガレンは、プラネテスの、というか特にロックスミス的な、一見深そうだけど実は底の浅い中二病的な大人ぶりっ子を、軽く一蹴しているところがあって、そこが好感がもてました。別にハガレンの方が「深い」っていうわけではないのですが、ロックスミス的エセ「深さ」を一蹴している点で、いい表現はないですが、ハガレンの方がずっと「ちゃんとした」漫画だと思います。
まず12巻154ページ、エンヴィーとドクターマルコーの会話。

今のあんたに何ができる?今まで何もしなかったあんたに!!「余計なことをしたらこの村を消してやる」と脅されて…この国の人民が危機に陥りつつある事に気づきながら何もしなかっただろう?天秤にかけりゃ簡単なことなのに!この国の人口とあんたが医者をしていたあの村の人口とを天秤にかけりゃどっちが多いか一目瞭然なのに!ちっぽけなあの村を見捨てりゃ、より多くの人間を助けられたかもしれないのに!

このエンヴィーが言っているようなことを、だらだらだらだらもったいつけて引っ張って、作者と読者で「深っかいわー!」と言って終わるのが『プラネテス』(のロックスミスエピソード)ですが、ハガレンでは、次のコマでドクターマルコーがこう言います。

…人の命は足し算や引き算ではない!!

……はい、終了。次行きましょう。
第23巻19〜21ページ、キンブリーとアルの会話。

キンブリー「まったく、賢者の石の力はみごとなものです。私も使った事があるので良くわかります。それゆえにわからない。なぜ、その石の力を自分の身体を戻すために使わないのですか。石があれば私達から逃げる事など容易い。逃げきったなら石を使い、二人で元の身体に戻る。それであなた達の旅は終わりではないのですか?」
アル「…それだと皆を救えない」
キンブリー「悲願を達成するためです。何かを得るためには何かを切り捨てねばならない。」

よくあるあれですね。5人の作業員を救うためにはポイントを切り替えて一人の作業員を犠牲にしなければならない(トロッコ問題)とか、こういうのやたら流行りなんですよね、最近。キンブリーって、なんか顔も言ってることもロックスミスに似てるなあ。しかし、ハガレンの場合は、アルに一蹴されています。

あのさぁ、なんで二択なの?「元の身体に戻って皆を救えない」のと、「元の身体はあきらめて皆を救う」のふたつだけじゃないだろ。なんで「元の身体を取り戻してかつ皆も救う」が選択肢に無いんだよ。*4

最近、「何かのためには誰かが犠牲にならねば」みたいな二択というか犠牲の論理を提示したり、「何が善か、何が正義かわからない」みたいなのを「現実」として暗示したりして、「深っかいわー」とうなずきあってるみたいな話がどうも多いような気がします*5。そういう意味ではハガレンは最後まで安心して読めました。
(ちなみにストーリーが違うとかいうアニメ版は新旧どっちも見ていないです。そのうち見るかも)

*1:同じように、浦沢直樹の『PLUTO』も、イラク戦争が題材で、同じくアメリカ批判にはなっているのだけど、やっぱりなんか微妙に違和感は残った。後述する『プラネテス』にもやっぱり「中東出身のテロリスト」が出てくる。

*2:だいたい、アメストリスは悪くなかった、ホムンクルスが悪かった、て話だし、「国を守るべき軍隊が変な実験のために人殺しをしたのがいけなかった」という感じで、「国を守る」軍隊自体は必ずしも否定されてはいない。

*3:あとはまあ、誰かも書いていましたが、体育会的なシゴキが肯定的に書かれているところとか、「働かざるもの食うべからず」てセリフとか(これは北海道の牧場で働いていた作者自身のモットーだとか確かあとがきに書いてあった)気にはなりますが。

*4:ちなみにこのあと、キンブリーは「等価交換の法則は?」とアルに聞きます。そう、ハガレンでは最初の方で、「何かを得るためには何かを犠牲にする」という「二択」が「等価交換の法則」という錬金術の大原則として出てきて、一見それを軸に物語が進んでいくように見えるのですね。しかし、このキンブリーの問いにアルはこう答えます。「原則に縛られずに可能性を求めるのも人類の進歩には必要だと思うよ?」というわけで、ハガレンは最終的に、人間が「原則」を乗り越えて可能性を作っていく、というような話になっていきます。しかしアルのセリフ、これはこれで、「「可能性」とか「人類の進歩」の名のもとに悲惨な大量殺戮が行われたのが20世紀共産主義の負の歴史ではないか!」とか言う人がいそうですが…。それはともかく急に話を変えますが、サルトルの『実存主義とは何か』で出てくる「戦争に行くか、母の元にとどまるか」ていう有名な話、一見まさに「二択」を考える「倫理」ですよね。これと、俗流ロッコ問題がどう違うのか、あるいは違わないのか、を説明しないといけないと思うのですが、宿題です。

*5:まあ『デスノート』だってそういうところで受けてたんでしょうし。読んでないけど「まおゆう」とかいうのもそういう話みたい?