マルコムXとジャズ

 数年前、twitterマルコムXbothttps://twitter.com/MalcolmX_bot)をフォローしはじめました。ところが、ここで(自動的に)投稿されるマルコムXの言葉が、(bot運営者による的確な文章の選択によるところも大きいと思いますが)どれもすばらしくて、これまでリツイートしまくっています。というわけでこのbotをきっかけに実はあまりよく知らなかったマルコムXについて、関連する本をいくつか読んだりしました。しかしやはり、最高に面白かったのは、『マルコムX自伝』です。これは自伝とは言っても、実際に執筆したのは後に『ルーツ』で有名になるアレックス・ヘイリーで、彼がマルコムXに長時間のインタビューをしてまとめたものです。マルコムXの生き生きとした語りとヘイリーの文章力がみごとに融合したこの本は、めちゃくちゃ面白くて、一気に読みました。
 この本は、もちろん、マルコムXの思想を知るためにも必読の本ですが、今回(ひさしぶりの)このブログでは、この本の、ジャズに関連する箇所を紹介したいと思います。
 1925年に生まれたマルコムXは、高校を中退した後、ボストンのナイトクラブで靴磨きの仕事をしていました。その後、彼はニューヨークに出て、1946年に20歳で逮捕・投獄されるまでの数年間、ハスラー(チンピラ)としての波乱万丈の生活を送ります。ところで、このころの記述には、当時活躍していたトップ・ジャズ・ミュージシャンの名前が次々に登場します。そういう意味で、この本はおそらくジャズ史的にも貴重な本だと思いますが、ジャズに興味がある人は、ぞこの部分だけでもぜひ読んでみたらいいと思います。ただし、1925年生まれのマルコムは、マイルスやコルトレーン(ともに1926年生まれ)と同世代なのですが、1946年に投獄されて長く獄中にあったからか、自伝の中にビバップ以降のミュージシャンは出てこないです。

ボストン時代(ベニー・グッドマン、ペギー・リーなど)

 まずは、ボストンのナイトクラブで靴磨きをはじめたころの記述を見てみましょう。マルコムは、ベニー・グッドマンBenny Goodman(cl)楽団や、当時その専属歌手だったペギー・リーPeggy Lee(vo)を間近で見て感激しています。

 「きみかね、新しく靴磨きをやるというのは?」と、彼はたずねた。そうなるだろうと思う、と私は答えた。すると彼は笑って、「それじゃ、きみもたぶん、ナンバー賭博を当ててキャディラックを手に入れるだろうよ」といった。「フレディは二階のトイレにいるだろう」二階に上っていく前に、階下で二、三歩すすみでて、ボールルームの内部を一瞥した。ワックスで磨いたフロアの広いことといったらなかった。はるか端のほう、柔らかなバラ色の明かりの下にステージがあって、ベニィ・グッドマン楽団のミュージシャンたちがあちこち動きまわりながら、笑ったり、話したり、楽器や譜面台を整えていた。(マルコムX、濱本武雄訳『完訳マルコムX自伝 上』中公文庫、2002年、98ページ。(以下「邦訳」))

 今までレコードで聞いたことのある、いろんなベニィ・グッドマン楽団の曲が、われわれのいる場所まで、まるで滲みとおるように聞こえてきた。次の客が来るまでのひまをみて、フレディはもう一度そっと聞きにいくのを許してくれた。ちょうどペギィ・リーがマイクに向かっていた。なんて美しい声だ!彼女はまだ楽団に加わったばかりだということ、ノース・ダコタの出身だということ、あるグループの一員としてシカゴで歌っていたときにベニィ・グッドマンの夫人に見いだされたのだということなど、お客が話しあっているのが耳に入った。彼女が歌い終わると、客はいっせいに拍手した。彼女は確かに大物だった。(邦訳、101ページ)

ベニー・グッドマン楽団で歌うペギー・リーの映像です。↓

ローズランドでのダンスは、大部分、白人だけのために行なわれた。白人のダンスでは白人の楽団が演奏した。ここで開かれた黒人のダンス・ハーティでかつて演奏した唯一の白人楽団は、私の記憶するかぎりではチャーリィ・バーネット楽団だった。黒人ダンサーたちを満足させることができただろう白人楽団はほとんどなかった、というのが事実である。だが、チャーリィ・バーネットの『チェロキー』と『レッドスキン・ルンバ』は、黒人たちを熱狂させた。(邦訳、104ページ)

「チェロキー」というのは、ビバップで超高速で演奏することが多い有名な曲ですが、チャーリー・バーネットCharlie Barnet(ts)のオリジナルはこんな感じです。

ボストン時代2(エリントン、ベイシーなど)&びっくりする誤訳について

 さて、つぎの箇所では、彼が靴を磨いたミュージシャンとして、デューク・エリントンDuke Ellington(p)、カウント・ベイシーCount Basie(p)、ライオネル・ハンプトンLionel Hampton(vib)、クーティ・ウィリアムズCootie Williams(tp)、レスター・ヤングLester Young(ts)、ハリー・エディスンHarry Edison(tp)……などの名前が綺羅星の如くずらっと並んでいるのですが、とりあえず、長いですが引用します。

 バンドマンたちのある者は、八時ごろになると男子用トイレに上がってきて、仕事にかかる前に靴を磨いてもらうのだった。デューク・エリントン、カウント・ベイシィ、ライオネル・ハンプトン、クーティ・ウィリアムズ、ジミィ・ランスフォードJimmie Lunceford(ts)らは、私の椅子に座って靴を磨いた人たちのうちのほんの何人かにすぎなかった。私は磨き布で中国の爆竹さながらの音を出したものだ。デュークは偉大なアルト・サックス奏者であるし、ジョニィ・ホッジズJohnny Hodges(as)──彼はショーティの崇拝の的だった──はいまなお、靴を磨いてもらったことで、私に借りがあるはずだ。ある夜、彼は私の椅子に座って、そばに立っていたドラマーのソニィ・グリーアSonny Greer(dr)と親しげに論じあっていた。そのとき私は磨き終わったという合図に彼の靴の下方を軽く叩いた。ホッジズは私に代金を払おうとしてポケットに手をのばしながら磨き台から降りてきたが、次の瞬間、さっとポケットから手を出して何か身ぶりをしたかと思うと、そのまま私のことは忘れて、立ち去ってしまった。私としてもわずか十五セントを請求することで、『デイドリーム』ですばらしい演奏ぶりを披露した人を、わずらわすにしのびなかったのだと思う。
 カウント・ベイシィ楽団の偉大なブルース歌手であるジミィ・ラッシングJimmy Rushing(vo)と、靴を磨きながらちょっとした対話をはじめたことも忘れられない(彼は、『昨日呼んでも今日くるあなた(セント・フォー・ユー・イエスタデイ・ヒア・ユー・カム・トゥデイ)』のような歌で有名な歌手である)。ラッシングの足は大きくて、おもしろいかたちをしていたのを覚えている──たいていの大きな足のように長いわけではなく、ラッシングその人のように丸くてずんぐりしていた。それはともかく、彼は私をベイシィのほかの仲間たち、たとえぱレスター・ヤング、ハリィ・エディスン、バディ・テイトBuddy Tate(ts)、ドン・バイアスDon Byas(ts)、ディッキー・ウェルズDicky Wells(tb)や、バック・クレイトンBuck Clayton(tp)といった人たちに紹介してくれた。それからは連中が一人で手洗いに来た帰りに、「やあ、レッド(※当時のマルコムXのあだ名)」などといって椅子に腰かけてくれた。そこで私が、自分の頭のなかでくるくる回っている連中のレコードにあわせて、パチパチ音をさせて磨き布を動かすのだ。およそどんなミュージシャンでも、私ほど熱心な靴磨きのファンをもったことはないはずだ。(邦訳、104-5ページ)

 いかがでしょうか。おそらく、少しでもジャズに関心がある人は、すぐに気づいたと思いますが、「デュークは偉大なアルト・サックス奏者であるし」というとんでもない誤訳があります(笑)。翻訳は、とても読みやすいとは思いますが、この箇所は、単なるケアレスミスかもしれませんが、もし訳者の濱本武雄さんがデューク・エリントンがピアニストであることすら知らなかったとするなら、残念ながら彼はほとんどジャズのことは知らないのかな、と思わざるを得ないですよね。というわけで、原文がどうなっていたのか気になってしまって、確認したところ、原文はこうです。

Duke's great alto saxman, Jhonny Hodges--he was Shorty's idol--still owens me for a shoeshine I gave him.(Malcolm X, Autobiography of Malcolm X, Ballantine Books,1987, p.52.)

 つまり濱本さんは、おそらく「Duke's(デュークの)」を、「Duke is(デュークは)」ととってしまったのですね。念のためここはこういうことです「デューク楽団の偉大なアルト・サックス奏者であるジョニィ・ホッジズ──彼はショーティの崇拝の的だった──はいまなお、靴を磨いてもらったことで、私に借りがあるはずだ。」
 さて、上の箇所にも出てくる「ショーティー」とは、マルコム・"ショーティ"・ジャーヴィスMalcolm "Shorty" Jarvisという、マルコムXの親友だった男ですが、その後ジャズ・ミュージシャンになります。彼の演奏もぜひ聴いてみたいのですね。ショーティーもすでに故人ですが、没後の2001年に、The Other Malcolm, "Shorty" Jarvis: His Memoirという回想録が出版されているようです。

 彼〔ショーティ〕は、デューク・エリントン楽団のアルト・サックス、ジョニィ・ホッジズを尊敬していた。だが、あまりにも多くの若いミュージシャンが、同じ楽器をつかって、楽団の名前を力ーボン紙で複写するようなまねをしている、と話した。とにかくショーティは自分の音楽のことと、自分たちの小さなグループでボストンを演奏してまわれるようになる日のために働くことだけを、真剣に考えていた。(邦訳、119ページ)

たぶんけっこう後の映像かと思いますが、ショーティーのアイドルだった、そしてマルコムXが靴磨きの代金をとりそこねた、ジョニー・ホッジスのAll of me↓すばらしいです。

 ジミー・ラッシングが、ベイシー楽団で歌う「Sent for you yesterday」です↓

ニューヨーク時代1(ライオネル・ハンプトンなど)

 次はニューヨーク時代です。エリントン、レイ・ナンスRay Nance(vn,tp,vo)、クーティー・ウィリアムズ、トミー・ドーシーTommy Dorsey(tb)などの名前が見えます。

 ニューヨークは私には天国だった。そしてハーレムはこの上ない天国だった。私はスモールズやブラドック・バーにいりびたったので、バーテンたちは私がドアから入ってくるのを見るなり、私の気に入りのブランドのバーボン・ウィスキーをついでくれるようになった。そして、両方の店の常連が、スモールズではハスラーたちが、ブラドックでは芸能人たちが私を、"赤毛"と呼ぶようになった。私のあざやかな赤くコンクした頭からすれば、当然のニックネームだった。(……)
 私の友人には、このころ、デューク・エリントン楽団の偉大なドラマーであるソニィ・グリーア、それにバイオリン奏者として有名なレイ・ナンスがいた。彼は例の激しい"スキャット"スタイルで「ブリップ・ブリップ・ド・ブロップ・ド・ブラム・ブラム」と歌っていた。それにクーティ・ウィリアムズ、エディ・"坊主頭"・ヴィンスン──彼の頭はきれいさっぱり頭皮しか残っていなかったが、コンクをすればこうなるぞと私をからかった。そのころの彼は『ヘイ、きれいなねえさん、俺をあんたのでかい真鍮のベッドに放りこんで』という歌をヒットさせていた。私はまたシィ・オリヴァーを知っていたが、彼は赤ら顔の女性と結婚してシュガー・ヒルに住んでいた。シィは当時トミィ・ドーシィの編曲をたくさん手がけていた。シィのもつとも有名な曲は『イエスインディード!』だったと思う。(邦訳、152ページ)

1942年のエリントン楽団のC Jam Blues↓レイ・ナンスのヴァイオリンとソニー・グリアのドラムが聴けます。レイ・ナンスはヴァイオリンだけではなく歌やトランペットもできたそうです。

 次のところは、ニューヨークのハーレムの歴史についてマルコムが語っている箇所で、興味深いです。ジャズ史の教科書のようです。

 一九一〇年に、ある黒人の不動産屋が黒人の二、三家族を、どういうふうにしてかはっきりしないが、このユダヤ・ハーレムの、あるアパートに住まわせた。ユダヤ人がそのアパートから逃げだし、やがてそのブロックから逃げだし、あいたアパートを埋めるように、さらに黒人が流れこんだ。すると全部のブロックからユダヤ人が逃げ去り、さらにまた多くの黒人が北へ移動してきて、あっという間にハーレムは今日のような状況──実質的には黒一色──になった。
 それから一九二〇年代初頭、音楽や娯楽が産業としてハーレムに起こった。これがダウンタウンの白人の人気を得て、白人たちは毎晩アップタウンに殺到した。ルイ・"サッチモ"・アームストロングLouis Armstrong(tp)という名のニューオーリンズ出身のコルネット奏者が、警官のドタ靴をはいて列車からニューヨークに降り立ち、フレッチャー・ヘンダースンFletcher Henderson(p)と演奏をはじめたころから、こういう状況になったのだ。一九二五年、スモールズ・パラダイスが開店し、七番街は人で埋めつくされた。一九二六年には、デューク・エリントン楽団が五年にわたって演奏した、かの「コットン・クラブ」が開店した。同じく一九二六年に「サヴォイ・ボールルーム」が開場した。正面はレノックス街に面した一ブロック全部を占領し、スポットライトの下には六十メートルのダンス・フロアがあり、そのうしろに二つの楽団用ステージと、移動式の後部ステージがあった。
 ハーレムの名所としてのイメージがひろまり、ついには夜ごと世界中から白人が群らがるようになった。観光バスがやってきた。「コットン・クラブ」は白人専用となり、地下のもぐり酒場にいたるまで何百ものクラブがひしめきあって、白人から金をまきあげるのだった。もつともよく知られていたクラブは、「コニーズ・イン」「レノックス・クラブ」「バロンズ」「ネスト.クラブ」「ジミィズ・チキン・シヤック」「ミントンズ」などだった。サヴォイ・ゴールデン・ゲート、ルネッサンスといったボールルームは、争って客を獲得しようとした。(……)全米の楽団が、ボールルームやアポロ劇場、ラファイエット劇場などへやってきた。ダイアモンドをちりばめたスーツを着てシルクハットをかぶったフェス・ウィリアムズFess Williams(cl,as)、すべてのズートをしのぐ究極の白いズート.スーツとつば広の白い帽子とひもネクタイをつけ、『タイガー・ラグ』、それに『ハイ・ディ・ハイ・ディ・ホー』や『セント・ジェイムズ病院』『ミニー・ザ・ムーチャー』などでハーレムを熱狂させたキャブ・キャロウェイCab Calloway(vo)のような、華やかなバンドリーダーたちが登場した。(邦訳、161-162)

ズート・スーツで歌うキャブ・キャロウェイ

 つぎは、ビリー・ホリデイBillie Holiday(vo)、ライオネル・ハンプトンヘイゼル・スコットHazel Scott(p)、フレッチャー・ヘンダーソン、などの名前が出てきます。

 かの偉大なレディ・デイことビリィ・ホリディは、レジナルドを抱きしめて「大好きな弟」と呼んだものだ。何万人もの黒人たちが感じていたのは、大楽団(ビッグ・バンド)の究極の目的はライオネル・ハンプトン楽団のようになることで、レジナルドもまた同じだった。私はハンプトン楽団の団員の多くとひじょうに親しかった。レジナルドを彼らに紹介し、さらにまたハンプその人にも、それからハンプの妻でありマネージャーでもあったグラディス・ハンプトンにもひきあわせてやった。この世でもっとも気持ちのよい人の一人が、ハンプである。彼を知っている人ならだれでも、ハンプは自分がほとんど知らない人たちにも、じつに親切だと異口同音にいう。ハンプが稼いできた、そしていまなお稼いでいる多額の金をもってしても、もしもその金と仕事が、私がかつてお目にかかったもっとも賢明な女性の一人であるグラディスによってあつかわれていなかったら、彼は今日、文なしになっていたことだろう。(邦訳、212ページ)

 午前四時半、ジミイズ・チキン・シャックかディッキー・ウェルズにあふれんばかりに群らがった人びとは、ビリィ・ホリディのブルースにヘイゼル・スコットのピアノといったような即興演奏に歓声をあげた。(邦訳、214ページ)

ヘイゼル・スコットとビリー・ホリデイの写真です。

ヘイゼル・スコットのピアノですが、これは↓ちょっとネタ的な演奏ですが、2台のグランドピアノを同時に弾いている映像です。

 いったい何事がもちあがったのかを教えてくれたのは、バンドリーダーであるフレッチャー・ヘンダースンの甥、ショーティ・ヘンダースンだった。黒人たちは商店の窓を粉砕し、ひったくれるものはすべて──家具、食料品、宝石類、衣料品、ウイスキーなどを──持ち運んでいたのである。(……)
 つい最近、私は七番街でショーティ・ヘンダースンに出くわした。私たちは、暴動の際に「左足」というあだ名をもらった男のことを笑った。婦人靴店での奪い合いで、その男はどうにか五個の靴をかっぱらったのだが、なんとその靴はみんな左足だけだったのである!また私たちは、暴動に仰天してしまった、ある小さな中国人のことで笑いあった。その中国人が経営していたレストランは、彼があわてて店の扉にはった貼り紙が、それを見た暴徒たちを腹のよじれるほど笑わせたために、襲われなかった。そこには、「私も有色人種(カラード)だ」と書かれていたのである。(邦訳、218ページ)

ニューヨーク時代2(ビリー・ホリデイ

 上の箇所にもありますが、マルコムは、なんと、ビリー・ホリデーとも結構親しかったようで、ビリーについてこのような思い出を語っています。

 「ビリィ・ホリディ」という文字と彼女の引き伸ばされた写真が、外でライトの光をあびていた。中に入ると、壁際に押しつけられたテープルにびつしりと人が座っていた。テーブルは飲み物を二つ置き、二人の人間が肘をついて座るのがやっとだった。オニックス・クラブは当時よくあった、ひじょうに小さい店の一つだった。マイクの前のビリィは、ちょうど一曲歌い終わったときに、ジーンと私の姿をみた。スポットライトをあびた彼女の白いガウンがキラキラし、アメリカ・インディアン風の銅色の顔、髪はトレイドマークであるポニーテイルにしていた。次の曲は、私の気に入りの「恋を知らないあなたに(ユー・ドント・ノウ・ホワット・ラブ・イズ)」──「来る日も来る日も眠れぬままに明け方を迎えるまでは──失いたくない愛を失うまでは──」
 舞台が終わると、ビリィはわれわれのテーブルに来た。長いあいだ会っていなかったビリィとジーンは、たがいに抱きあった。ビリィはいつもとちがう私の気配を感じとっていた。彼女はいつも私がハイな状態でいることを知っていたが、私をよく知る彼女には、今日はそれとはちがうとわかるのだった。いつものぞんざいな言葉で彼女は、なんかあったの、とたずねた。私も当時の口汚い言葉で、ぜんぜん心配ないよと答え、その話は打ち切りになった。その晩、われわれはクラブの写真家に写真を撮ってもらった。三人がぴったり身を寄せあっている写真だった。それが「レデイ・デイ」に会った最後だった。彼女は死んだ。麻薬と失恋が、納屋みたいに大きな心臓にとどめをさし、だれも完全にまねのできないあの声と歌い方とを奪い去った。レディ・デイは、何世紀にもわたる悲しみと苦難を経験した"黒人の魂(ソウル)"を歌った。あの誇り高い、すばらしい黒人女性が、黒人種の真の偉大さが評価される場所に一度も出演しなかったことは、なんと恥ずかしいことだろうか!(邦訳、246-7ページ)

 ビリー・ホリデーとマルコムXのツーショット、見てみたい!
ビリー・ホリデーの最晩年1958年の名盤Lady in Satinに入っているYou don't know what love isです。このジャケットの写真も、トレードマークのポニーテールです。