常野雄次郎さんの言葉と行動を引き継ぐ会

テラ豚丼と自由

●「サルトル哲学における自由とは」
http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20080708/1215483859
たとえば、私たちは、毎朝目ざまし時計がなると起床し、食事や身支度をして学校や会社に行く、というような日常生活を送っている。しかし、「崖くずれが崖の上の石の落下を引き起こす」というのと同じように「目ざまし時計が私の起床を引き起こす」と言うことはできない。目ざまし時計の音が鳴った時、起床するという可能性を作り出すのは私たち自身だからである。つまり、崖の上の私に、崖から身を投げる可能性があったのと同じように、目ざまし時計の音を聞いた私にも、起きずにそのまま寝つづけるという可能性があるのである(会社はクビになるかもしれないが)。
 私たちの日常生活は「芝生に入るな」とか、「税金を払いなさい」といったものをはじめとした様々な規則にかこまれている(これをサルトルは「日常的道徳」と言う)。しかし、そうした規則は、直接私たちの行動を「決定」しているわけではない。実際は「規則に従う」と自分で決めたからこそ、規則が意味を持つのである。だが、規則を成り立たせているのが自分自身である、ということを認めることは、私たちに不安を引き起こす*。だから、私たちはまるで規則が私たちの行動を外側から決定しているかのように思いこむことによって、安心しようとするのである。そのような精神をサルトルはくそまじめの精神と呼ぶ。(『図解雑学サルトル』ナツメ社、2003年)


●「テラ豚丼祭りと「自由への恐怖」」
http://toled.hatenablog.com/entry/20071202/p1
ブロークバック・マウンテン』の主人公が少年時代に見た同性愛者は虐殺されたけども、ローザ・パークスは現在では偉人ということになっている。でもたぶん、ロッキーの言う「勝つ」というのはそういうレベルにはない。
 仮に両者に違いがあるとしても、それは後になってから言えることだ。今だったら、「賢明な」人は言うだろう。ローザ・パークスの行動は歴史を動かし、社会を変えたと。でも彼女が白人席に座った時点でそうなる保証はなかった。そしてきっと、彼女と同じようなことをしてボコボコにされた人は無数にいたことだろう。今にして思えば公民権運動によってアメリカ社会が変わるのは必然だった。しかしその必然性は、人間の自由によって作り出されたものである。
 問題はタバコを吸ったらどうなるかということではない。そんなの関係ねえ! そうじゃなくて、私はタバコを吸いたいのかどうかということだ。私は私のやりたいことをやっているかということだ。ロッキーの言う「勝つというのはそういうことだ」。


●「「不登校50年」#36 常野雄次郎さん」
http://futoko50.sblo.jp/article/182761449.html
ローザ・パークス(1913―2005)が白人と黒人が分離されたバスで白人席から移動しろと言われたとき、頑迷に座り続けて、逮捕されて、それからバスボイコット運動が始まって、ついに分離政策を変える成果を勝ちとったんです。でも、ローザ・パークスが白人席に座った瞬間に、その可能性が見えていたかというと、そんなことはないと思います。なぜなら、ローザ・パークス以前にも、同じようなことをしていた人はいるわけです。ボコボコにされて逮捕されて、歴史に名を残してない人が無数にいる。革命というのは、可能そうだからやるのではなくて、不可能にしか思えないことを可能にするための条件をつくりだすために闘っていくということです。それは5000億年後かもしれないけど、学校のない社会を目指す。社会そのもののあり方を根本的に変えていくことを目指す。私は、そう主張したいです。


●「朝鮮の核開発を支持する」
http://toled.hatenablog.com/entry/20160107/p1
世界平和。核のない世界。戦争のない世界。/核施設や実験によって労働者、住民が被害を受けることのない世界。
可能か不可能かはわからない。/できるから目指すのではない。/倫理がそれを強制するから、可能である可能性をつくりだすのだ。/なぜならば自由に縛られているからである。/倫理によって、自由を強制されているのだ。


尾瀬あきら『ぼくの村の話』
「あんたたちは政府相手にほんとうに勝てると思っとるのかね」「勝てるとは思ってません 勝とうと思っています」(第7巻220頁)

学校をなくすということ

●「「不登校50年」#36 常野雄次郎さん」
http://futoko50.sblo.jp/article/182761449.html
私は学校を廃止すべきだと思っていますが、「学校をなくす」というと、よく「給食でしかご飯を食べられない子はどうするんだ」「文字の読めない子はどうするんだ」と反論されます。しかし、学校をなくすというのは、いまの社会をそのままに、そこから学校だけを引き算するということではなくて、社会全体のあり方、社会の仕組みを変えることです。つまりは、ひとつの革命です。そう考えるようになりました。

●「いい植民者と悪い植民者」
http://d.hatena.ne.jp/sarutora/touch/20070922/1190428681
https://twitter.com/SartrePolitique/status/1002843722696912896
新植民地主義者は、植民者に良いのと悪いのといると考える。植民地の状況が悪くなったのは、悪い植民者の罪だという。(……)良い植民者がおり、その他に性悪な植民者がいるというようなことは真実ではない。植民者がいる。それだけのことだ。(サルトル植民地主義は一つの体制である」人文書院『植民地の問題』33頁)

●「「対案についての思考」を禁止します」
http://toled.hatenablog.com/entry/20070923/1190541968
僕は、学校的なものが人間にとって必要であるかどうかということについての判断を前提にはしません。そうではなくて、学校をなくすべきであるということが僕の出発点なのです。だから、学校が必要かどうかということは、ささいな問題です。必要ないならそのままなくせばいいし、必要だということになればその必要性をなくせばいい。このような出発点の設定には、ただ僕がそれを選んだという以外には、何の根拠もありません。


●「じゃあとうすればいいのか」
http://d.hatena.ne.jp/sarutora/touch/20070923/1190515352
「じゃあどうすればいいのか」という言葉は、真にどうすべきかということではなく、我々の問題提起をはぐらかし、圧殺することが目的だからです。(横塚晃一『母よ!殺すな』生活書院、31頁)


●「登校拒否解放の(不)可能性 前編」
http://toled.hatenablog.com/entry/20041204/1102129335
「明るい登校拒否」の物語は、本当に登校拒否を肯定するものだったのでしょうか。僕はそうは思いません。この物語で示されているのは、登校拒否児でも学校エリートのようになれる、ということなのですから。ここで肯定されているのはあくまでも学校的価値であって、登校拒否ではありません。

●「「不登校50年」#36 常野雄次郎さん」
http://futoko50.sblo.jp/article/182761449.html
醜さ、モンスター性みたいなものを、いかにして美の支配から救い出すかというときに、「ほんとうは美しいんだよ。視点を変えてみれば、呪いが解ければ」ということではなくて、醜さの側が反乱を起こすんだということですね。それと、私が書いた一節をつなげて考えられないかなと思うんです。


●「カオスの解放――『風の谷のナウシカ』の構造――」
http://www.geocities.co.jp/Berkeley/6142/ronbun/chaos.html
腐海とは、いわば魔女(人間)によってみにくい黒いカラスの姿に変えられてしまった王子である。そして、ナウシカは、みにくいカラスをわけへだてなく愛する少女である。だが、この手の物語ではたいてい、最後には魔法が解けて、みにくいカラスは美しい王子の「本当の」姿にもどるのである。同様に、少なくとも中盤までの『ナウシカ』においては、腐海も、美しい清浄な森の姿をとりもどすとされている(浄化された美しい森のイメージは、何度か登場する)。しかし、だとすると、みにくいカラスへの愛、腐海への愛は、結局は王子への愛、美しい自然への愛に還元されてしまう、ともいえるのであって、カラスとしてのカラス、腐海としての腐海のみにくさそれ自体は、最後まで救われないわけである。だが、「神」を殺すことによって、ナウシカ腐海を魔法(みにくさ)から解く鍵を捨てる。つまり彼女は、腐海をケガレ「から」解放するのではなく、腐海のケガレそのもの、みにくさそのもの「を」解放する道を選択したわけである。(1999年)

永遠の嘘

●「永遠の嘘をついてくれ」――「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット 前編
http://toled.hatenablog.com/entry/20070726/1185459828
だから嘘を批判するには、ただ嘘が嘘であることを暴露するだけでは不十分である。嘘が嘘であることは、騙す者も騙される者も先刻承知なのかもしれないからだ。そのような場合は、真実を暴露する者はただ「空気の読めない痛い奴」として処理されるだろう。クリスマスに胸を膨らませる子どもたちに、サンタクロースなんていないんだよと言って聞かせても、プレゼントを買い与える親の義務は免除されない。「永遠の嘘」の批判は、真実を暴露することではない。嘘に気づかないふりをする「お約束」が分析されなければならない。それは、「騙される」者、「無知」な者をも、「被害者」としてではなく「嘘」に参加する共犯者として捉えるということだ。


●「永遠の嘘をついてくれ」——「美しい国」と「無法者」の華麗なデュエット 後編
http://toled.hatenablog.com/entry/20070727/p1
 リベラルは、戸塚宏長田百合子や細井敏彦を糾弾する。「無法者」の暴虐に驚愕する。しかし問題は、そのような否定は、体罰教師や「無法者」にとっては「織り込み済み」であり、むしろ彼らの存在意義でさえあるということだ。彼らは自分たちが「ダーティ」な仕事を担っているということは十分に自覚しているのだし、だからこそ彼らは英雄たりうるのだ。
 銀行があって、消費者金融があって、闇金がある。リベラルなエリート校があり、軍隊的な底辺校があり、フリースクールがあり、戸塚ヨットスクールがある。天皇がいて、臣民がいて、軍幹部がいて、「無法者」がいて、「民間業者」がある。人間には「本能」があり「理性」があり「欲望」があり「良心」がある。組織には「無法者」がおり管理部門があり「良心的」構成員がいる。御用学者がいて、左翼知識人がいて、ネット右翼がいて、僕はブログを書いてストレス発散している。「永遠の嘘」は、これらの「全体」が、バラバラの互いに独立した「部分」に分かれているかのように演出する。で、何かあると適当な「無法者」を「トカゲの尻尾きり」して、システムは全体として存続していく。

サルトル「みなさんは素晴らしい」『シチュアシオン V』 
http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20160228/p1
 しかし、もしわれわれの誰かが目を覚まし、看護人に問いただそうものなら、政府はたちまち新手のごまかしを持ち出し、あっという間に保護委員会をでっちあげる。責任の重荷をわれわれの肩からおろすのが、ほかならないそのお役目なのである。(……)
 われわれは無罪ではない、汚れているのだ。われわれの良心は乱された〔トゥルブレ〕のではない、しかしそれは濁っている〔トゥルブル〕のだ。指導者たちはそれを良く承知しており、われわれがそういう状態にあることを好ましいと考えているのである。彼らがその慎重な配慮や見え透いた手心によって獲得したがっているものは何かといえば、それは見せかけの無知に隠れたわれわれの共犯なのである。


●「大阪府KY若手職員と「姜尚中トラメガ事件」について−−米粒が立ち上がった日」
http://toled.hatenablog.com/entry/20080407/p1
 人々は、この時はじめて「王様は裸だ」と気づいたのではない。そんなことは何十年も前からわかっていた。ブーイングが広がった瞬間は、真実が暴露された瞬間ではなく、裸の王様が裸であることを知らないかのように振舞うことを人がしなくなった瞬間である。


●番犬とニセの知識人
https://twitter.com/SartrePolitique/status/998917860419293187
(教授たち)の中の何人かは、アルジェリア戦争当時に実に勇気ある行動をし、自分の家にプラスチック爆弾を投げ込まれる、といった目に遭いました。…ところがこの連中は、教授としては、依然として選別主義者…であり、大学の欲する観点によってその講義をつづけていたのです(「人民の友」『シチュアシオン 八』(人文書院)所収)


●「「日本の歴史家を支持する声明」批判」
http://toled.hatenablog.com/entry/20150605/p1
 「戦前」を悪魔化して切り離すことにより、そうではないものとしての自由で民主的で平和な「戦後」のイメージが形成される。それは変革されるべきものというよりは、たとえば安倍や在特会といった脅威から防衛されるべきものとなる。しかし問題は、日本は切れ目なく続いているということだ。