死者の見極め[愚考]

リスクの「見極め」

 極右の田母神俊雄が、8月4日、twitterでこう書いた。

コロナの感染者数の公表はやめたらどうか。国民の不安を煽り経済を縮小するだけだ。半年で1千人しか死亡者がでない。交通事故の年間死亡者は3千数百人いる。交通事故が怖くて行動の自粛はあり得ない。

https://twitter.com/toshio_tamogami/status/1290380961373274112

 ところで、映画監督の森達也は、政治的には田母神とかなり異なった立場であるとみなされているだろうが、斎藤美奈子とのWEB対談(6月26日)で、田母神とよく似たことを書いている。

お餅で喉を詰まらせて死ぬ人は年間何人か知ってる?年間の統計はなかなか見つからないのだけど、毎年一月には日本国内だけで1300人前後が亡くなるらしい。餅の消費は1月がいちばん多いとして、年間では2~3000人くらいになるのかな。
日本の新型コロナウィルスによる死者数は、この原稿を書いている6月26日の時点で971人。ちなみに世界全体では(6月26日のデータによれば)48万3872人。最も被害が大きいアメリカは12万2238人で、次いで被害が大きいブラジルでは5万3830人が死亡している。

http://www.gendaishokan.co.jp/article/W00153.htm

 森は、田母神と同じく、交通事故の例も使っている。

2018年の交通事故死者数は4,595人で、水難事故の犠牲者数は692人

http://www.gendaishokan.co.jp/article/W00153.htm

 この後森は、2016年の統計を用いて、ガンや自殺、凍死、熱中症、といろいろと死者数の例を列挙した上で、こう主張する。

統計を眺めながら、何を対策して何を軽視すべきかを考える。軽視すべきという言いかたは適確ではないかもしれないけれど、でもリスクの見極めは重要だ。
もちろんコロナは感染力の強い伝染病だ。転落死や誤嚥による死とは違う。それは大前提であるけれど、コロナ後の世界を考えるとき、ガンや心臓疾患と同じように人を死へいざなう要因が一つ増えた、という見方は決して間違いではないと思う。(強調引用者)

http://www.gendaishokan.co.jp/article/W00153.htm

 原発事故後聞かれるようになったいわゆる「正しく恐れよ」の一種に見えるが、結局森は、いろいろな死者数と新型コロナウィルスの死者数を比べてみせることで、新型コロナウィルスの危険性は軽視してもいいと読者を誘導している。
 新型コロナウィルスの危険性、リスクについては、明らかに格差がある。社会的弱者に、リスクが偏っている。だから、「リスクの見極め」によって「死」を、「死者数」を容認せよ、という考え方は、はっきり言って優生思想である。
 もちろん、森達也も、おそらく、長谷川豊の「自業自得の人工透析患者」は「無理だと泣くならそのまま殺せ!」というような発言に見られるような「あからさまな」優生思想には反対するであろう。
 しかし、森達也の文章全体に漂う、「国家権力や世間が押し付けてくるもの(いわゆる「同調圧力」も含め)に個人として抵抗する」かのような雰囲気(つまり一見すると「反抗」や「抵抗」に見える雰囲気)が、実は、死者の数を全体として「見極め」て管理しようとする権力に利用される、というよりもむしろ一体となってそれを後押しするのだ。

安心を煽る

 そして、どうやら森は、新型コロナウィルスについての自分の考え方(というか感覚)は、言いにくいもの、世間ではなかなか認められない少数意見であると思っているらしい。私はそれがどうにも気になる。そのことは、森が少し前の4月13日の往復書簡でこう書いていることからも推測される。

現段階の発症者や死亡者などの統計を見れば、日本だけでも一年間でインフルエンザで数万人が死んでいるのに、これほど恐れる必要が本当にあるのだろうか、とどうしても思いたくなるから。でもこれは書けない(ここに書いてしまったけれど)。絶対に炎上する。」(強調引用者)

http://www.gendaishokan.co.jp/article/W00151.htm

 しかしどうだろうか?この文章が書かれたのが4月ということを考えても、日本で、新型コロナウィルスが「必要」以上に恐れられていた、とはたして言えるだろうか?初期のころから、マスメディアで、医師などの専門家によるものも含め「風邪やインフルエンザと同じようなものだから過剰に恐れることはない」というような主張は普通に聞かれた。その後も「日本は死者数(重症者数)が少ない」などと何かにつけて言われた。また、「炎上」と言うが、どちらかというと、新型コロナウイルスの危険性に警鐘を鳴らし、検査拡充を訴える人こそが「炎上」していたのではないか?
 こう言うと、森は、WEB対談の相手である斎藤美奈子のように「メディアが先導して『自粛警察』に血道を上げてた」ではないか、と反論するかもしれない(5月29日のWEB対談)。しかし、政府とメディアが一体となってやっていたのは、「夜の街」の危険性を煽り立てながら、満員電車についてはスルーする、というようなものだった。つまり、(田母神の表現を使えば)「不安が煽られていた」のは、新型コロナに対してではなく、パチンコ・夜の街・若者、といった、(不安の原因とされた)特定の人々に対してであったのであり、その一方で、新型コロナそのものに対しては、自粛どころか正反対のGOTOが推進されたことに象徴されているように、いわば「安心が煽られて」いたのだ。

ハチとミサイル

 森のこの文は、その後さらにスズメバチなどの「害虫」駆除の例を出してきて、「敵基地攻撃」の話につなげる*1。森は、2016年の統計でハチに刺されて死んだ人が19人、という話からはじめ、実際は人に危害を加えないものも含めて「害虫」の危険性が煽られホームセンターに駆除用の殺虫剤があふれる状況と、ミサイル攻撃の危険性が過剰に煽られるなかで敵基地攻撃能力保有の議論がなされる状況を重ねている。そして森は「後先考えない敵基地攻撃。過剰に発動する危機意識。なんか取り留めないけれど、そうした状態がいちばん厄介」とまとめる。
 前半からの流れでいえば、森は、敵基地攻撃と新型コロナ問題を、「過剰に発動する危機意識」という点で結びつけたいようだ。しかし、最初に紹介したように、新型コロナに対する「過剰に発動する危機意識」について森とほぼ同意見の田母神は、敵基地攻撃能力については、言うまでもなく大賛成の立場である。

戦後の日本は軍事に関し普通の発想が出来なくなっている。イージスアショア計画中止に伴い敵基地攻撃能力が話題になっているが朝日、毎日新聞などはこれに反対だ。日本国民の命より敵の基地の方が大事なのか。それにしてもサヨクは大したものだ。常に間違っている。ほれぼれするくらい間違っている。

https://twitter.com/toshio_tamogami/status/1284958045814919169

 とはいえ、田母神がこのような立場であることは、別に不思議ではない。田母神のような人物は、ファクトなどどうでもよく、都合良くあるときは不安を煽り、あるときは安心を煽る。コロナ特措法の改正を「慎重論」から見送りながら、「収束後」には検討する、と言った政府もしかりだ(要するに今は「コロナの危険よりも私権の制限の方が危険である」ということにしておいた方が都合がいいが、ときが来れば都合よく「私権の制限」を使いたいことが見え見えなのだ)*2
 森や斎藤は、「不安が煽られることの危険性」には敏感だ(斎藤は「自粛警察」から「関東大震災時の朝鮮人虐殺、国家総動員法時代の隣組」を想起している)が、「安心が煽られることの危険性」に対する反応は鈍い。これは勘ぐりすぎかもしれないが、「日常を破壊されたくない」を「危険があるはずがない」に変換する、いわゆる「正常性バイアス」を、「不安を煽る権力・世間に抗う自分」として(無意識のうちにかもしれないが)正当化しているのではないか……そう思ってしまう。

自動車の社会的費用

 さて、田母神や森は、ふたりとも、新型コロナの死者数との比較対象として交通事故の死者数を持ち出していた。「我々は交通事故の死者数を容認しているのに、それより少ない新型コロナウィルスの死者数に対して過剰反応しているのではないか」というようなことが言いたいのだろう。しかし、そもそも我々は交通事故の死者数を「容認」すべきなのだろうか?宇沢弘文は『自動車の社会的費用』の中で、ある小学生の悲惨な交通事故死の事例をあげたあとでこう書いている。

 このような自動車事故はいま日本国中でいたるところにおきていて、事故にあった被害者本人だけでなく、その家族、友人の悲しみははかりしれないものがあるが、その悲惨さに対する人々の感覚はすっかり麻痺してしまっているようにみえる。自動車事故による死亡者が年々2万人にも達し、100万人近い負傷者がでているにもかかわらず、歩・車道も分離されていない欠陥道路に依然として自動車の通行が許されている。そして、都市と農村とを問わず、子どもたちにとって、自動車をさけるという技術を身につけることが、生きてゆくためにまず必要となっている。これまで貴重な遊び場だった街路は自動車によって占有され、代替的な違び場もない。学校でも家庭でも、自動車に注意するようにまず最初にしつけられる。このような非人間的な状況をわたくしたちはどのように理解したらよいであろうか。(宇沢弘文『自動車の社会的費用』岩波新書、1974年、5ページ)

 交通事故の死者数は、容認されているのではない。ただ、我々は非人間的状況に対する感覚が麻痺してしまっているだけなのだ。いや、むしろ「麻痺させられている」と言うべきだろう。そして、麻痺させるものたちが使うのが、「便益」である。

 自動車が便利な乗り物であるということは疑う余地がない。自動車を常用することによる精神的・肉体的な健康への害をつよく意識して、自動車を利用しないように努める人も少なくない。また、自動車を中心とした都市環境に対して批判的な気持をもつ人々も多いであろう。しかし、日本をはじめとして多くの先進工業諸国で、自動車のもたらす効用を無批判に享受する人々が多数を占めることは、否定する余地のないことであろう。そして、このような国々では、自動車を購入し、運転するために各人が支払うべき費用は、自動車利用によってえられる便益よりはるかに小さいのが一般的な状況であるといってよい。したがって、自動車に対する需要はますます増加するであろう。しかも、このような自動車の普及は、道路建設に対する政治的な圧力となってあらわれ、自動車所有のもたらす私的な便益をますます大きなものとし、自動車に対する需要をいっそう誘発することになる。
 しかし、自動車の保有台数が増加し、国土面積のより大きな割合が道路および関連施設に向けられるようになればなるほど、自動車通行にともなう社会的費用は大きくなる。自動車のもたらす社会的費用は、具体的には、交通事故、犯罪、公害、環境破壊というかたちをとってあらわれるが、いずれも、健康、安全歩行などという市民の基本的権利を侵害し、しかも人々に不可逆的な損失を与えるものが多い。このように大きな社会的費用の発生に対して、自動車の便益を享受する人々は、わずかしかその費用を負担していない。逆にいうならば、「自動車の普及は、自動車利用者がこのような社会的費用を負担しないでもよかったからこそはじめて可能になったともいえるのである。(同書、170ページ)

 自動車が安価で便利な乗り物たりえているのは、その便益を享受している人々が、当然支払うべき安全対策の費用を、自動車社会の被害者に転嫁しているがゆえになのである。自動車は危険なものであり環境を破壊するものである、という当たり前の事実を指摘されると、自動車の便益の受益者たちは「でも、自動車がなくなったら困るでしょう」と「反論」するだろう。つまり、「自動車をやめる」ことで失われるものの大きさを「見極め」なければならない、というわけだ。だが、この「見極め」は、実は「自動車社会を選ぶ」ときに誰かに負わせた膨大な犠牲を隠蔽した上での、欺瞞的計算でしかない、ということだ。

「選ばれた」死者

 ところで、宇沢の本の出版(1974年)に少し先立つ1970年12月、フランス北部の都市ランス(Lens)で、「人民法廷」が開かれた*3。この法廷は、同年2月にランス近郊のフキエール(Fouquières)の国営炭鉱で起こったガス爆発事故をいわば「人災」として裁いた。判決では、この事故が「謀殺」だったとし、経営者-国家、また直接の実行犯である炭鉱の技師、炭鉱医、幹部らに、有罪が宣告された。彼らは安全性より生産性を故意に選んだことで事故をまねいたからである。そう、バングラデシュ・ラナプラザでの縫製工場崩落「事故」と同じように。この人民法廷の検事役を努めた哲学者サルトルは、論告文でこのように書いている。

事故や人命の損失は決して不可避のものではなく、利潤の追求によって要請されたものなのである。坑内ガス爆発や珪肺のことを宿命と呼ぶなら呼んでもかまわないが、その宿命とは、ある種の人間たちにのみ、しかも、労働者を搾取し、生産性追求のために労働者の健康や生命をも犠牲にする他の一部の人間の手を介して、おそいかかる性質のものなのだ。(Sartre, Jean-Paul, "Premier Procès populaire à Lens", dans Situations, VIII, Gallimard, 1972, p.320.〔山本顕一訳「第一回ランス人民法廷」『シチュアシオン Ⅷ』人文書院、1974年、233ページ〕)

 例えば、なぜ炭鉱医は有罪なのか。それは、彼らが、坑夫に対して職業病である「珪肺」の診断を故意にひかえるからだ。

医師は万事承知の上で患者を緩慢な死の道へと追いやるのである。ところで、炭鉱医たちが珪肺の坑夫を、労働事故の真の犠牲者として取り扱うのを極度にいやがるということは周知の事実である。その理由は?もし患者が炭鉱から離職し、その疾病に対し年金が支払われなければならないとしたら、経営者-国家は全く役立たずの人間に金銭を支払うことになるからだ。医師が真実をはっきりと告げたら、鉱山では半年と首がもたないであろう。(ibid. p.322.〔邦訳、235ページ〕)

 こうして、炭鉱の医師は嘘をつくことを選択するようになる。「長らくこの職に従事し、立派な家に住み、優雅な生活を送っている医者たちは、人殺しに通じる嘘もひんぱんにつくしかない、と心に決めてからすでに久しいはずだ」(同)。

 また、炭鉱では安全対策が不十分だが、これは、炭鉱の保安部門がただ怠慢だったり無能だったということではない。それは、「選ばれた」怠慢であり無策なのだ。しかも、彼らは、本来自分たちが持つべき安全対策の責任とその費用を、労働者に転嫁する。なるほど、炭鉱には立派な「安全基準」がある。それを守って作業すれば、坑夫の安全はたしかに確保されるが、その代わり作業効率は落ち、低賃金の坑夫の給料はますます減ってしまう。坑夫は生活のために無理をし、事故が起きる。

 あらゆる事故は彼のせいにされる。「お前は規定を守らなかった。お前は注意が足らなかった!」と。(……)
 こうして、あるおぞましいシステムが成り立つ。国家‐経営者は、労働者の稼ぎの中から、彼が死から身を守るべく行なうあらゆる労働相当分の賃金を天引する。鉱山は資本主義社会に属している。鉱山で労働者に聾いかかる事故や職業病は、資本主義社会のみが責任を負うべきものである。だか、この社会は、みずからが当然責任を負うべき災害から労働者の身を守るために必要な費用を、当の労働者自身に支払わせるのである。(ibid. pp.325-326.〔邦訳、237-238ページ〕)

 病気は「宿命」。事故は「想定外」。果たしてそうだろうか?実は病気や事故の死者数は、「選ばれている」のだ。自動車事故の死者数、炭鉱での死者数、原発事故での死者数、そして新型コロナウィルス感染症の死者数も。だから我々は、死者数を「見極めるべき」とか、「感染症対策」と「経済」のバランスを「見極めるべき」、というような議論を疑っていくべきだ。その「見極め」が果たして何を「見」ているのか。我々が本当に見極めなければならないのはそちらのほうだろう。

*1:森が念頭に置いているのかはわからないが、マイケル・ムーアの「ボーリング・フォー・コロンバイン」では、テロリストやアフリカ系アメリカ人に対する「恐怖」を煽る政府やメディアを批判する箇所で、殺人蜂(アフリカナイズドミツバチ)の危険性を煽るテレビ番組が引用されている。

*2:フジテレビの平井解説委員は、特措法改正を安倍政権が見送ったのは「私権の制限は憲法違反であると野党が反対したから」だと解説したというhttps://lite-ra.com/2020/08/post-5557.html

*3:民法廷と、それに関わる「野生の司法」(「国家の司法」と対比される)については、かつて書いたこちら↓を参照されたい。 garage-sale.hatenablog.com