「わからない」と「真摯さ」

 ネット右派はいかにして生まれたか【後編】 | 伊藤 昌亮 | トイビト - Page 4という伊藤昌亮氏のインタビューについて。
 伊藤氏は、「事実」を重視しないネット右派は

知識階級に対抗するためにあえて反知性的な態度をとっているところがあって、恐ろしいことに、それがかれらの「知」なんですよ。

  と言う。「困りましたね。どうすればいいんでしょうか」と問うインタビュアーに対して、伊藤氏はこう答えている。

ファクトチェックをしつこくしていく必要があるとは思うのですが、まとめサイトなんかを見ると、事実かどうかなんて本当にもうお構いなしですからね。(中略)
 ちゃんとやろうと思うと、どうしても複雑さを見なくてはいけなくなる。でも、複雑さを見るというのはやっぱり知識人の仕事であって、そういうやり方自体が気に食わないから、あえて単純に、変な方向に捻じ曲げる。そういう人たちに対して「複雑さを見てくれ」と言ってもなかなか届かないんですよね。

  伊藤氏は、ネット右派の反知性的態度とは、「複雑さを見る」知識人に対する反発と、情報を「みんなが自分の都合のいいように縮減して理解する」ということが背景にあると考え、こう言う。

いまって何が真実なのかもうわからないですよね。その中でアカデミズムは真実というか事実を何とか見極めようとするけど、突き詰めると結局わからないんですよ。本当のところは、学者でさえわからない。社会全体がこうした状況になってきている中で、専門知とどう向き合うのかというのは喫緊の課題だと思います。

  伊藤氏のこの分析を受けて、インタビュアーは次のように感想を述べている。

私が研究者の方とお会いしていつも感じるのは、知識の量はもちろんなんですけど、わからないものと向き合う態度というか、その真摯さなんですよね。

  このインタビュアーの発言に伊藤氏も同意しているが、どうだろうか。
 数年前、「サルトルの知識人論と日本社会」(『サルトル読本』法政大学出版、2015年)という文章でサルトルの知識人論を紹介したが、サルトルによると、知識人の「真摯さ」というのがもしあるとすれば、それは「普遍性」を「徹底的(ラディカル)」に追求するラディカリスム(徹底主義)にこそある。「何が真実なのかわからない」という態度は、サルトルが批判する「にせの知識人」が陥る「不可知論」そのものであり、知識人のラディカリスムとは対極にあるものではないだろうか。
 サルトルは、このラディカリスムを真摯に追求していけば、現代の知識人は、必ず自己の存在そのものにはらまれている矛盾に突き当たるはずだと考える。知識人は、不当な選別システムによって生み出された特権の保持者であり、また、少数者による多数者の搾取という現実を覆い隠す(ブルジョアヒューマニズムという)支配階級にとって好都合なイデオロギーを植え付けられている。このことに気づいたとき、かれらは、「平等」や「普遍性」や「異議申し立ての精神」という、研究者(サルトルは「実践的知の技術者」と呼ぶ)に課された建前との間で矛盾にひきさかれるはずだ、というのである。この矛盾から目をそらし、「非政治的人間」「不可知論者」などになり、自分のもっている異議申し立ての力をみずから放棄する研究者、あるいは、自分の技術的知識を利用しながら支配階級への奉仕者の役割を買って出るいわゆる御用学者を、サルトルは「にせの知識人」とか「番犬」と呼ぶ。こうした人たちは、自らの内なる矛盾から目をそらす「自己欺瞞」に陥っているのであり、つまりここで問題となっているのは、たんなる「学者」や「研究者」としての真摯さ、というより、いわば人としての真摯さなのである。
 たとえば「南京大虐殺はあったかどうかわからない」とか「あったかどうか議論してもしょうがない」というような発言*1が、はたして「真摯さ」などと言えるだろうか?こうした態度は、学者に限らず蔓延しているが、それは、「ネット右派」の歴史修正主義を生み育てた土壌といってもいいだろう。しかし、「南京大虐殺はあったかどうかわからない」と言う人々は、「地球が太陽の周りをまわっているかどうかはわからない」などとは言わない。つまり、この判断保留は、選択されたものなのだ。
 サルトルは、1957年に発表した「みなさんは素晴らしい」という文章*2で、アルジェリア戦争におけるフランス軍の略奪、レイプ、拷問などの戦争犯罪から目をそらすフランス人たちは、無知であることをあえて選んでいたのであり、かれらの無知は「偽りの無知」なのだ、と言った。

資料はどこにある? どこに証人がいるというんだ? 確信しているなどと言い張るやつらは、あらかじめそう思いこんでいたからなんだ。それは可能性があることを頭から否定できないのはもちろんさ……。しかし確実なことがわかるまでは待つべきだし、判断をくだすべきじゃないね。というわけで、人びとは判断を控える。と同時に確実なことを知ろうともしないのである。(サルトル『シチュアシオン5』p.61、邦訳45-46ページ)