ため池と豆腐と花火と

 ため池の危険性について水難事故の専門家が警告する記事を読んだ*1

 それで思い出したが、わたしは、甲府市に住んでいた小学生のころ、近所のお寺のため池に落ちたことがある。友人と二人で寺に遊びに行って(たぶんザリガニとり)、どういうきっかけだったかは忘れたが池に落ちた。この記事を読むかぎり、このとき私は実はけっこう「死」の近くにいた、のかもしれない*2

 わたしが落ちたのは、市の中心部から離れた山のふもとの寺*3にある池で、その時まわりには友人の他誰もいなかった。小さな池だったが、周囲には植物が生い茂り、水も濁っていたと思う。私は、必死でもがいて、自力で這い上がることができたのだが、その間友人はゲラゲラ笑っていた。池から上がったあと、私は本気で怒って、友人はしゅんとなって「ごめん」とか言っていたような気がする。だが、なにしろ40年以上前のことなので記憶はあいまいである。

 そのあと、家に帰ろうとびしょ濡れで歩いていたときに、豆腐屋のおじさんと出会った。寂しげな音のラッパを鳴らして自転車で豆腐を売り歩く、あの昔ながらの豆腐屋さんである。びしょ濡れの私を見ておじさんは声をかけてくれた。どういう言葉をかけられたかまではおぼえていないのだが、「ぼう、どうしただ」とかそんな感じだったのだろうと思う。ちなみに「ぼう」とは、甲州弁で「坊主」のような意味で、男児に呼びかけるときに使う言葉である。

 豆腐屋のおじさんは、黒縁メガネの片方のレンズの内側に白い眼帯をしていた。兼業で花火師もしていたのだが、花火の事故のせいで眼帯をしている、と(たぶん親から)聞いていた。それでまた思い出したのだが、当時、学校の運動会や遠足が雨天決行かどうかは、朝、学校の校庭で打ち上がられる花火の音で知らされることになっていた。メールもスマホもない時代のことである。しかし、それにしても今思えばずいぶん原始的だ。そうした合図の花火も、豆腐屋でもあるそのおじさんが打ち上げていると聞いていた。運動会や遠足の日の早朝、かすかに聞こえるドン、ドン、という乾いた花火の音、今でもおぼえている。

 豆腐屋でもあり花火師でもあるおじさんは、フレンドリーという感じでもなく、どちらかというと近寄りがたい雰囲気があったような気がするのだが、とにかくその時声をかけられたのはおぼえている。そのあとどうなったのかはまったくおぼえていない。また、おじさんと話したのもその一度きりだったと思う。

 さて、この話にとくに落ちはないのだが(最初から落ちている話なのだが……)もう一つおぼえていることがあって、それは、池に落ちたしばらく後に、山梨の風土病である日本住血吸虫症の検査を受けたことである。この病気を引き起こす寄生虫は、ミヤイリガイという貝を中間宿主としてため池などに生息しており、人間を含む動物が水に入ったとき、皮膚から侵入して感染するのである。古くから甲府盆地で流行していたこの病気は、1970年代にはすでにだいぶ下火になっていはいたようだが、両親が心配して私に検査を受けさせたのだと思う。結果は陰性だったが、これも、今思えば、検査を受けておいてよかったと思う。ちなみに、近代に入ってからのこの病気の撲滅のための壮絶な戦いの歴史についてはこのページ(地方病 (日本住血吸虫症) - Wikipedia) に詳しい。小学校の保健室だったか、病院の待合室だったか、壁にこの病気について写真入りで説明するポスターが貼ってあった。子供心に、恐ろしいなと思って見ていたうっすらとした記憶がある。

*1:

ため池に落ちると、なぜ命を落とすのか(斎藤秀俊) - 個人 - Yahoo!ニュース「とにかく、ため池には近づかないこと。これにつきます。ため池は構造上、人が入ることを想定していません。一度滑って落ちれば、這い上がることができない構造になっていると考えてください。」とのことだ

*2:後記:こんな風に書きましたが、恥ずかしながらちゃんと記事を読んでいませんでした。「漏水や斜面崩落を防ぐために、コンクリートやゴムなどで斜面が保護されているのが、一般的なため池の構造となっています」ということで、命を落とす危険があるのはそうしたタイプの新しい「ため池」で、私が落ちたお寺の池はそうした危険はなかったものと思われます。

*3:たぶん、大泉寺

自分の思うことを発言するのは本当に自由だ

 EXITの兼近さんという人のこと、実はほとんど知らなかったのだけど、「#検察庁法改正案に抗議します」について触れている去年の5月のネット記事(正確にはそれが今年1月に再公開されたもの)指原莉乃さんの『政治的発言』が炎上 「テレビの女王」が世間とズレてきた?(西澤 千央、文春オンライン2020年5月24日初出)をたまたま発見して、いいことを言っている、と思ったので、twitterで引用した。
 私がいいことを言っていると思った兼近さんの発言は、昨年5月17日の『ワイドナショー』というTV番組でのものである。当時、検察庁法改正に対する反対運動がネット上でもりあがり、小泉今日子きゃりーぱみゅぱみゅといった芸能人も、twitter上で、「#検察庁法改正案に抗議します」というハッシュタグを使って抗議の意志を示した。きゃりーぱみゅぱみゅさんの投稿に対しては、政治評論家だという加藤清隆なる人物が「歌手やってて、知らないかも知れないけど」などと、検察庁法改正に反対することは無知で浅はかなことであるかのように彼女をあざ笑った。その他にもきゃりーぱみゅぱみゅさんの投稿に対して「勘違いババア」「AV出て」といった中傷が相次いだという。
 この件について、番組の中で(私は番組自体は未見です)出演者の一人指原さんは、自分にも反対の意見表明の誘いが来ていたことを認めつつ、それには結局乗らず、それについてこう語っていたという。

ただツイッターとかで、今回ので言うと、簡単な、すごく簡単に記された相関図とかが載って、それが拡散されてここまで大きくなったと思うんですけど、本当にそれを信じていいのかとか、双方の話を聞かずに勉強せずに偏ったものだけ見て『え、そうなの、やばい、広めなきゃ』っていう人が多い感じがして、今。正直この件に関しては私はそこまで信念がなかったので呟けなかったです。

 一方、同じ件について、出演者の兼近さんはこのように言っていたそうだ。

だいぶむずいんですけど、勉強しないと参加したらいけないっていうのが政治っていうわけじゃなくて、誰でも発言する、批判することって自由だと思うんですよね。それを大人たちが都合悪いから、若者は参加するだけで叩かれたりとか。芸能人なんて特に影響力あるから言わないでくださいとか言われるんですけど、そんなの影響力を持ったのは自分で持ったもので、自分の思うことを発言するのは本当に自由だと思うので

俺が一番残念なのはこれできゃりーぱみゅぱみゅさんがツイートして、それを叩かれてそれを見た若者たちが『あ、やっぱり政治に参加したらこういう嫌な思いするんだな』『大人からこういうこと言われるんだな』っていうので衰退していくのが、一番なんかダルいっすね

 ここで兼近さんは、政治的発言をして叩かれたきゃりーぱみゅぱみゅさんを擁護して、「自分の思うことを発言するのは本当に自由だ」と言っていた。当時私は、いいことを言っていると思ってツイッターで発言を紹介した。
 ところが最近、兼近さんは、「ABEMA Prime」というインターネット番組で、東京オリンピックパラリンピック大会組織委員会森喜朗会長辞任問題について、こんなことを言っていたのだという。

兼近は「何よりも今回で気持ち悪ぃなって思うのが、自分が被害の及ばない所から石をひたすらぶつけて『降ろしてやったぞ』と。目的が引き下ろすというか『なんか偉そうなジジイを俺が降ろしてやったぜ』みたいな感じがすごい伝わってくる。ほんとに見失っちゃってんなっていう。ただただ攻撃することが目的になっちゃってる」と感想を述べた。

 ここでは兼近さんは、ネット上での森会長批判を、「自分が被害の及ばない所から石をひたすらぶつける」ネットリンチようなものととらえているようだ。ところで去年の兼近さんは、「#検察庁法改正案に抗議します」問題に関して、まさしくネットリンチにあって発言を封じられようとしていたきゃりーぱみゅぱみゅさんという女性タレントを擁護しているように見えた。だが今回の森会長は、同じようなネットリンチの被害者とはたして言えるのだろうか? むしろ彼は、女性の発言を封じようとしていた(石を投げつけた)加害者のほうではないだろうか? また彼は、その発言を誰も批判せず笑い声さえおこるような「自分が被害が及ばない(と思っていた)所」で、安心しきって加害行為を行っていたのではないだろうか?
 また、今回森会長辞任問題で、兼近さんはこうも言っていたのだという。

もちろん発言自体は許されるものじゃないかもしれないですけど、『ほんとに全文聞いたのか?』って。全員がすべて聞いたわけじゃないと思うんですよ。誰かが言ってるから『そんなひどいこと言ってんだ』っていう切り取りの文字を読んで、攻撃してる人もたくさんいるなって感じたんで。そういう意味では、そろそろ終わりにしたいなって。どうせ代わってもまたアラ捜しして、みんな攻撃したいんだから

 「全文聞いたのか」とか「切り取りだ」とか、これでは、兼近さんがきゃりーぱみゅぱみゅさんを擁護していた「ワイドナショー」で、「双方の話を聞かずに勉強せずに偏ったものだけ見ている」と、政治的発言をする芸能人を批判する側に回っていた指原莉乃さんと同じになってしまっている。

(数ヶ月前書きかけて放置していたものなので話題が古くなっております)

「わからない」と「真摯さ」

 ネット右派はいかにして生まれたか【後編】 | 伊藤 昌亮 | トイビト - Page 4という伊藤昌亮氏のインタビューについて。
 伊藤氏は、「事実」を重視しないネット右派は

知識階級に対抗するためにあえて反知性的な態度をとっているところがあって、恐ろしいことに、それがかれらの「知」なんですよ。

  と言う。「困りましたね。どうすればいいんでしょうか」と問うインタビュアーに対して、伊藤氏はこう答えている。

ファクトチェックをしつこくしていく必要があるとは思うのですが、まとめサイトなんかを見ると、事実かどうかなんて本当にもうお構いなしですからね。(中略)
 ちゃんとやろうと思うと、どうしても複雑さを見なくてはいけなくなる。でも、複雑さを見るというのはやっぱり知識人の仕事であって、そういうやり方自体が気に食わないから、あえて単純に、変な方向に捻じ曲げる。そういう人たちに対して「複雑さを見てくれ」と言ってもなかなか届かないんですよね。

  伊藤氏は、ネット右派の反知性的態度とは、「複雑さを見る」知識人に対する反発と、情報を「みんなが自分の都合のいいように縮減して理解する」ということが背景にあると考え、こう言う。

いまって何が真実なのかもうわからないですよね。その中でアカデミズムは真実というか事実を何とか見極めようとするけど、突き詰めると結局わからないんですよ。本当のところは、学者でさえわからない。社会全体がこうした状況になってきている中で、専門知とどう向き合うのかというのは喫緊の課題だと思います。

  伊藤氏のこの分析を受けて、インタビュアーは次のように感想を述べている。

私が研究者の方とお会いしていつも感じるのは、知識の量はもちろんなんですけど、わからないものと向き合う態度というか、その真摯さなんですよね。

  このインタビュアーの発言に伊藤氏も同意しているが、どうだろうか。
 数年前、「サルトルの知識人論と日本社会」(『サルトル読本』法政大学出版、2015年)という文章でサルトルの知識人論を紹介したが、サルトルによると、知識人の「真摯さ」というのがもしあるとすれば、それは「普遍性」を「徹底的(ラディカル)」に追求するラディカリスム(徹底主義)にこそある。「何が真実なのかわからない」という態度は、サルトルが批判する「にせの知識人」が陥る「不可知論」そのものであり、知識人のラディカリスムとは対極にあるものではないだろうか。
 サルトルは、このラディカリスムを真摯に追求していけば、現代の知識人は、必ず自己の存在そのものにはらまれている矛盾に突き当たるはずだと考える。知識人は、不当な選別システムによって生み出された特権の保持者であり、また、少数者による多数者の搾取という現実を覆い隠す(ブルジョアヒューマニズムという)支配階級にとって好都合なイデオロギーを植え付けられている。このことに気づいたとき、かれらは、「平等」や「普遍性」や「異議申し立ての精神」という、研究者(サルトルは「実践的知の技術者」と呼ぶ)に課された建前との間で矛盾にひきさかれるはずだ、というのである。この矛盾から目をそらし、「非政治的人間」「不可知論者」などになり、自分のもっている異議申し立ての力をみずから放棄する研究者、あるいは、自分の技術的知識を利用しながら支配階級への奉仕者の役割を買って出るいわゆる御用学者を、サルトルは「にせの知識人」とか「番犬」と呼ぶ。こうした人たちは、自らの内なる矛盾から目をそらす「自己欺瞞」に陥っているのであり、つまりここで問題となっているのは、たんなる「学者」や「研究者」としての真摯さ、というより、いわば人としての真摯さなのである。
 たとえば「南京大虐殺はあったかどうかわからない」とか「あったかどうか議論してもしょうがない」というような発言*1が、はたして「真摯さ」などと言えるだろうか?こうした態度は、学者に限らず蔓延しているが、それは、「ネット右派」の歴史修正主義を生み育てた土壌といってもいいだろう。しかし、「南京大虐殺はあったかどうかわからない」と言う人々は、「地球が太陽の周りをまわっているかどうかはわからない」などとは言わない。つまり、この判断保留は、選択されたものなのだ。
 サルトルは、1957年に発表した「みなさんは素晴らしい」という文章*2で、アルジェリア戦争におけるフランス軍の略奪、レイプ、拷問などの戦争犯罪から目をそらすフランス人たちは、無知であることをあえて選んでいたのであり、かれらの無知は「偽りの無知」なのだ、と言った。

資料はどこにある? どこに証人がいるというんだ? 確信しているなどと言い張るやつらは、あらかじめそう思いこんでいたからなんだ。それは可能性があることを頭から否定できないのはもちろんさ……。しかし確実なことがわかるまでは待つべきだし、判断をくだすべきじゃないね。というわけで、人びとは判断を控える。と同時に確実なことを知ろうともしないのである。(サルトル『シチュアシオン5』p.61、邦訳45-46ページ)

 




  

「入管法改正は問題あり!難民保護の制定を!院内集会 」高橋済弁護士発言抜粋

入管法改正は問題あり!難民保護の制定を!院内集会 」高橋済弁護士発言抜粋(省略したり少し言葉を補ったりしています)

●問題の本質

 政府はいままで、在留資格がない外国人、子どもには何をやってもいい、どう扱ってもいい、というスタンスで法律を作り行政運用してきてしまった。在留資格がないからといって、その人の人権が失われたり軽んじられたりしていいということではない。オーバーステイ、不法残留だからといって、その人、その子どもの人格的危険性、犯罪性が上がるわけではない。我々と同じ人。単に、法律上の在留資格という紙っぺら一枚がないだけの話。最近アメリカや国連で、「イレギュラーirregular」、「イリーガルillegal」、ではなく「アンドキュメンテッドundocumented」という言葉が使われ始めている。同じ命、人権がある、という前提のもとに保証がなされている。

●政府案の「改正課題」について

 政府は、入管法の改正課題は(1)送還忌避者の増加の防止(2)収容の長期化の防止、と言っている。
 まず、送還忌避者の増加、というが、立憲民主党議員の質問主意書で明らかになったように、過去五年の送還忌避者の統計は存在しないのに、なぜ増えていると言えるのか。
 また政府は、在留資格がないことによって収容される人が増えている、収容をなくすために送還をどんどんやっていこう、と言っている。
 しかし、在留特別許可(日本で生まれた子ども、日本人の家族がいる場合などに在留資格を与えるための制度)が与えられる比率が下がっている、という現状を忘れてはならない。前政権下で相当右肩下がりで下がった。これによって在留資格が得られない人が増えていった。
 難民については、難民認定率0.4%。99%以上が何回申請しても不認定のまま。不認定になるとその後在留資格がない状態になる。
 つまり、在留資格がない人の送還を促進する、という発想の前に、在留資格を得られない理由は何なのか、を考えなければならない。上で述べた、恣意的な在留特別許可の運用や、99%以上ほぼ100%が難民ではないと言われる「難民不認定制度」(=迫害の危険がある人を迫害国に送還することを正当化するためだけの制度)が在留資格のない人を生み出している。そこを直さずに送還を促進するのは間違っていると私達は考えている。

●政府改正案の問題点

▼難民関連

 難民複数回申請は濫用、という前提のもと、3回目の申請中に、ミャンマーにでもどこにでも、判断を待たずに送還できるようになる。これでは難民条約がないのと同じ。100%不認定の難民制度のもとでこういった仕組みをつくるのは、条約が骨抜きになり、離脱するのと同じ。
 他方、政府は「入管が適切な難民保護をやります、運用で適切に保護します」と言っている。しかし、日本が難民条約にはいって40年間まともな運用ができなかった政府が、運用改善よりも送還できるようにするのを先にしたあとに、「運用で適切に保護します」と言っても信用できますか?
 また政府は「補完的保護」という制度をつくる、と言っている。難民ではなく戦争避難民を救う制度で、日本独自のもの。しかし、この制度は、研究者の誰に聞いても「補完的保護」という名称をつけてはならない、と言うくらい、保護とは別ものであり、ずさんなもの。救済するかどうかは入管の裁量であり、救済の範囲も場合によってはせばまるのではないか。全国難弁護団がファクトチェックしたところ、もともと現行法で救済される戦争避難民が10件しかないところ、この制度で救済される件数はむしろ5件減った。

▼在留特別許可

 前政権下で胸崎三寸で行われていた(右肩下がりで減った)が、(政府案では)原則不許可の類型をつくる。一年以上の実刑の人には在留特別許可を与えない。日本人の家族がいようと、日本で生まれた子どもであろうと、何があってもだめ。

▼送還忌避罪(退去命令違反罪)

 退去命令が出た後に従わなかった場合は犯罪者になるというもの。日本で生まれた子どもでもそう。政府はこれについて、限定したと言っている。告示で国を限定する、と言っている。しかし、政府が限定するだけで、いくらでも告示で国を増やすことは可能。今一カ国と言っていたとしても、将来色々な国が対象になることについては歯止めはきかない。

▼収容問題について

 これについてはメディアの方に特に訴えたい。「管理措置制度」ができるが、これは、収容する人を社会に解放するかどうか入管が決めて、入管が解放相当かどうかを判断する、というもの。昨年8月に国連の人権理事会の専門部会(恣意的拘禁作業部会)に指摘されていた、行政による恣意的な拘禁、恣意的な解放、という問題点は、これではまったく解消されない。また、収容できる期間(たとえばEUでは6ヶ月上限)を定めろ、ルールを定めろ、とも言われていたのに、彼らは、無期限の収容を維持する、と言った。裁判所の令状が必要だとも言われていたが、令状も不要、私達が適切に判断する、となっている。
 仮放免中は、働いていいとは言われていなかったが、処罰規定がなかったが、管理措置制度では、生きていくために子どもを食べさせるために働いたら処罰、働かないと生きていけないから逃げる、それも処罰。健康保険は今まで通り入れない。これのどこが社会内生活なのか。

●入管はフリーハンドのまま

 結局改正案は、外国人にあらゆる規制を課しているが、自らを規制するルール、規律(難民条約、国際人権条約である自由権規約から要請されるもの)を全く導入しなかった。入管が案を作って、入管が選んだ審議会が提言したものだからある意味当然。入管はフリーハンドのまま。この改正によって彼らが得るのは外国人を規制する権限だけ。

議員立法(野党案)について

▼難民問題

 運用で適切に保護します(法的担保なし)という政府案に対して、独立の難民認定機関をつくる(難民等保護委員会)。国際的基準を独立機関が法的拘束力をもたせる仕組みを採用している。99%以上が不認定になる制度だったものを、日本が入っている国際社会と約束してきた条約を守る制度に変える。それだけのことが40年間日本政府はできてこなかった。それを、今はじめて遵守して、難民を他国と同様に保護する国に変わっていこうと提案するのが議員立法

▼在留特別許可

 きわめて抽象的であいまいな一つの条文で決まっていた要件を具体化し、考慮要素として、児童の権利条約における「児童の最善利益」や、自由権規約という国際人権条約の「家族がともに生活する自由」を規定し、重視しなさい、としている。これもあたりまえのことだが、できてこなかった。

▼収容

 議員立法では、原則収容はしないとなっている。必要な場合(逃亡の危険がある)だけ。逃亡の危険は裁判所が判断する。収容の期限は6ヶ月で、その後は生活支援など適切な処置をしていく。日本の制度としては目新しいがヨーロッパでは原則この制度。今のようにいつまでも送還もできずに5年も6年も収容するという制度は正当化するのは不可能。
どちらが適正かはみなさまに判断してほしい。

鳥の写真

今シーズン初の鳥写真です。昨シーズンの記事(今年3月)はこちら。

 

sarutora.hatenablog.com

 

ヒドリガモ鶴見川

鶴見川ヒドリガモは昨シーズンはこのエリアで見かけなかったカモです。とかいいつつ昨シーズンは年が明けてから10年以上ぶりぐらいに観察を再開したばかりなので、去年のこの時期のことはわからないんですが…。

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ヒドリガモ

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ヒドリガモ

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ヒドリガモ

コサギ鶴見川

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コサギ

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コサギ

カワセミ鶴見川

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カワセミ

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カワセミ

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カワセミ

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カワセミ

バンの幼鳥(鶴見川

これはなんだろうと思ってうちに帰って調べたら、バンの若鳥(幼鳥)だそうです。単独でいました。

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バン

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バン

昨シーズン同じ区内の別の場所で撮った成鳥はこちら

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バン(成鳥)2020年春


全然違いますね…。これはわからない。

ゴイサギ

ちょっとピンぼけかも。

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ゴイサギ

エナガ

横浜市内の公園です。群れでいました。動きが早く、正面の写真が撮れなかった。

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エナガ

 

死者の見極め[愚考]

リスクの「見極め」

 極右の田母神俊雄が、8月4日、twitterでこう書いた。

コロナの感染者数の公表はやめたらどうか。国民の不安を煽り経済を縮小するだけだ。半年で1千人しか死亡者がでない。交通事故の年間死亡者は3千数百人いる。交通事故が怖くて行動の自粛はあり得ない。

https://twitter.com/toshio_tamogami/status/1290380961373274112

 ところで、映画監督の森達也は、政治的には田母神とかなり異なった立場であるとみなされているだろうが、斎藤美奈子とのWEB対談(6月26日)で、田母神とよく似たことを書いている。

お餅で喉を詰まらせて死ぬ人は年間何人か知ってる?年間の統計はなかなか見つからないのだけど、毎年一月には日本国内だけで1300人前後が亡くなるらしい。餅の消費は1月がいちばん多いとして、年間では2~3000人くらいになるのかな。
日本の新型コロナウィルスによる死者数は、この原稿を書いている6月26日の時点で971人。ちなみに世界全体では(6月26日のデータによれば)48万3872人。最も被害が大きいアメリカは12万2238人で、次いで被害が大きいブラジルでは5万3830人が死亡している。

http://www.gendaishokan.co.jp/article/W00153.htm

 森は、田母神と同じく、交通事故の例も使っている。

2018年の交通事故死者数は4,595人で、水難事故の犠牲者数は692人

http://www.gendaishokan.co.jp/article/W00153.htm

 この後森は、2016年の統計を用いて、ガンや自殺、凍死、熱中症、といろいろと死者数の例を列挙した上で、こう主張する。

統計を眺めながら、何を対策して何を軽視すべきかを考える。軽視すべきという言いかたは適確ではないかもしれないけれど、でもリスクの見極めは重要だ。
もちろんコロナは感染力の強い伝染病だ。転落死や誤嚥による死とは違う。それは大前提であるけれど、コロナ後の世界を考えるとき、ガンや心臓疾患と同じように人を死へいざなう要因が一つ増えた、という見方は決して間違いではないと思う。(強調引用者)

http://www.gendaishokan.co.jp/article/W00153.htm

 原発事故後聞かれるようになったいわゆる「正しく恐れよ」の一種に見えるが、結局森は、いろいろな死者数と新型コロナウィルスの死者数を比べてみせることで、新型コロナウィルスの危険性は軽視してもいいと読者を誘導している。
 新型コロナウィルスの危険性、リスクについては、明らかに格差がある。社会的弱者に、リスクが偏っている。だから、「リスクの見極め」によって「死」を、「死者数」を容認せよ、という考え方は、はっきり言って優生思想である。
 もちろん、森達也も、おそらく、長谷川豊の「自業自得の人工透析患者」は「無理だと泣くならそのまま殺せ!」というような発言に見られるような「あからさまな」優生思想には反対するであろう。
 しかし、森達也の文章全体に漂う、「国家権力や世間が押し付けてくるもの(いわゆる「同調圧力」も含め)に個人として抵抗する」かのような雰囲気(つまり一見すると「反抗」や「抵抗」に見える雰囲気)が、実は、死者の数を全体として「見極め」て管理しようとする権力に利用される、というよりもむしろ一体となってそれを後押しするのだ。

安心を煽る

 そして、どうやら森は、新型コロナウィルスについての自分の考え方(というか感覚)は、言いにくいもの、世間ではなかなか認められない少数意見であると思っているらしい。私はそれがどうにも気になる。そのことは、森が少し前の4月13日の往復書簡でこう書いていることからも推測される。

現段階の発症者や死亡者などの統計を見れば、日本だけでも一年間でインフルエンザで数万人が死んでいるのに、これほど恐れる必要が本当にあるのだろうか、とどうしても思いたくなるから。でもこれは書けない(ここに書いてしまったけれど)。絶対に炎上する。」(強調引用者)

http://www.gendaishokan.co.jp/article/W00151.htm

 しかしどうだろうか?この文章が書かれたのが4月ということを考えても、日本で、新型コロナウィルスが「必要」以上に恐れられていた、とはたして言えるだろうか?初期のころから、マスメディアで、医師などの専門家によるものも含め「風邪やインフルエンザと同じようなものだから過剰に恐れることはない」というような主張は普通に聞かれた。その後も「日本は死者数(重症者数)が少ない」などと何かにつけて言われた。また、「炎上」と言うが、どちらかというと、新型コロナウイルスの危険性に警鐘を鳴らし、検査拡充を訴える人こそが「炎上」していたのではないか?
 こう言うと、森は、WEB対談の相手である斎藤美奈子のように「メディアが先導して『自粛警察』に血道を上げてた」ではないか、と反論するかもしれない(5月29日のWEB対談)。しかし、政府とメディアが一体となってやっていたのは、「夜の街」の危険性を煽り立てながら、満員電車についてはスルーする、というようなものだった。つまり、(田母神の表現を使えば)「不安が煽られていた」のは、新型コロナに対してではなく、パチンコ・夜の街・若者、といった、(不安の原因とされた)特定の人々に対してであったのであり、その一方で、新型コロナそのものに対しては、自粛どころか正反対のGOTOが推進されたことに象徴されているように、いわば「安心が煽られて」いたのだ。

ハチとミサイル

 森のこの文は、その後さらにスズメバチなどの「害虫」駆除の例を出してきて、「敵基地攻撃」の話につなげる*1。森は、2016年の統計でハチに刺されて死んだ人が19人、という話からはじめ、実際は人に危害を加えないものも含めて「害虫」の危険性が煽られホームセンターに駆除用の殺虫剤があふれる状況と、ミサイル攻撃の危険性が過剰に煽られるなかで敵基地攻撃能力保有の議論がなされる状況を重ねている。そして森は「後先考えない敵基地攻撃。過剰に発動する危機意識。なんか取り留めないけれど、そうした状態がいちばん厄介」とまとめる。
 前半からの流れでいえば、森は、敵基地攻撃と新型コロナ問題を、「過剰に発動する危機意識」という点で結びつけたいようだ。しかし、最初に紹介したように、新型コロナに対する「過剰に発動する危機意識」について森とほぼ同意見の田母神は、敵基地攻撃能力については、言うまでもなく大賛成の立場である。

戦後の日本は軍事に関し普通の発想が出来なくなっている。イージスアショア計画中止に伴い敵基地攻撃能力が話題になっているが朝日、毎日新聞などはこれに反対だ。日本国民の命より敵の基地の方が大事なのか。それにしてもサヨクは大したものだ。常に間違っている。ほれぼれするくらい間違っている。

https://twitter.com/toshio_tamogami/status/1284958045814919169

 とはいえ、田母神がこのような立場であることは、別に不思議ではない。田母神のような人物は、ファクトなどどうでもよく、都合良くあるときは不安を煽り、あるときは安心を煽る。コロナ特措法の改正を「慎重論」から見送りながら、「収束後」には検討する、と言った政府もしかりだ(要するに今は「コロナの危険よりも私権の制限の方が危険である」ということにしておいた方が都合がいいが、ときが来れば都合よく「私権の制限」を使いたいことが見え見えなのだ)*2
 森や斎藤は、「不安が煽られることの危険性」には敏感だ(斎藤は「自粛警察」から「関東大震災時の朝鮮人虐殺、国家総動員法時代の隣組」を想起している)が、「安心が煽られることの危険性」に対する反応は鈍い。これは勘ぐりすぎかもしれないが、「日常を破壊されたくない」を「危険があるはずがない」に変換する、いわゆる「正常性バイアス」を、「不安を煽る権力・世間に抗う自分」として(無意識のうちにかもしれないが)正当化しているのではないか……そう思ってしまう。

自動車の社会的費用

 さて、田母神や森は、ふたりとも、新型コロナの死者数との比較対象として交通事故の死者数を持ち出していた。「我々は交通事故の死者数を容認しているのに、それより少ない新型コロナウィルスの死者数に対して過剰反応しているのではないか」というようなことが言いたいのだろう。しかし、そもそも我々は交通事故の死者数を「容認」すべきなのだろうか?宇沢弘文は『自動車の社会的費用』の中で、ある小学生の悲惨な交通事故死の事例をあげたあとでこう書いている。

 このような自動車事故はいま日本国中でいたるところにおきていて、事故にあった被害者本人だけでなく、その家族、友人の悲しみははかりしれないものがあるが、その悲惨さに対する人々の感覚はすっかり麻痺してしまっているようにみえる。自動車事故による死亡者が年々2万人にも達し、100万人近い負傷者がでているにもかかわらず、歩・車道も分離されていない欠陥道路に依然として自動車の通行が許されている。そして、都市と農村とを問わず、子どもたちにとって、自動車をさけるという技術を身につけることが、生きてゆくためにまず必要となっている。これまで貴重な遊び場だった街路は自動車によって占有され、代替的な違び場もない。学校でも家庭でも、自動車に注意するようにまず最初にしつけられる。このような非人間的な状況をわたくしたちはどのように理解したらよいであろうか。(宇沢弘文『自動車の社会的費用』岩波新書、1974年、5ページ)

 交通事故の死者数は、容認されているのではない。ただ、我々は非人間的状況に対する感覚が麻痺してしまっているだけなのだ。いや、むしろ「麻痺させられている」と言うべきだろう。そして、麻痺させるものたちが使うのが、「便益」である。

 自動車が便利な乗り物であるということは疑う余地がない。自動車を常用することによる精神的・肉体的な健康への害をつよく意識して、自動車を利用しないように努める人も少なくない。また、自動車を中心とした都市環境に対して批判的な気持をもつ人々も多いであろう。しかし、日本をはじめとして多くの先進工業諸国で、自動車のもたらす効用を無批判に享受する人々が多数を占めることは、否定する余地のないことであろう。そして、このような国々では、自動車を購入し、運転するために各人が支払うべき費用は、自動車利用によってえられる便益よりはるかに小さいのが一般的な状況であるといってよい。したがって、自動車に対する需要はますます増加するであろう。しかも、このような自動車の普及は、道路建設に対する政治的な圧力となってあらわれ、自動車所有のもたらす私的な便益をますます大きなものとし、自動車に対する需要をいっそう誘発することになる。
 しかし、自動車の保有台数が増加し、国土面積のより大きな割合が道路および関連施設に向けられるようになればなるほど、自動車通行にともなう社会的費用は大きくなる。自動車のもたらす社会的費用は、具体的には、交通事故、犯罪、公害、環境破壊というかたちをとってあらわれるが、いずれも、健康、安全歩行などという市民の基本的権利を侵害し、しかも人々に不可逆的な損失を与えるものが多い。このように大きな社会的費用の発生に対して、自動車の便益を享受する人々は、わずかしかその費用を負担していない。逆にいうならば、「自動車の普及は、自動車利用者がこのような社会的費用を負担しないでもよかったからこそはじめて可能になったともいえるのである。(同書、170ページ)

 自動車が安価で便利な乗り物たりえているのは、その便益を享受している人々が、当然支払うべき安全対策の費用を、自動車社会の被害者に転嫁しているがゆえになのである。自動車は危険なものであり環境を破壊するものである、という当たり前の事実を指摘されると、自動車の便益の受益者たちは「でも、自動車がなくなったら困るでしょう」と「反論」するだろう。つまり、「自動車をやめる」ことで失われるものの大きさを「見極め」なければならない、というわけだ。だが、この「見極め」は、実は「自動車社会を選ぶ」ときに誰かに負わせた膨大な犠牲を隠蔽した上での、欺瞞的計算でしかない、ということだ。

「選ばれた」死者

 ところで、宇沢の本の出版(1974年)に少し先立つ1970年12月、フランス北部の都市ランス(Lens)で、「人民法廷」が開かれた*3。この法廷は、同年2月にランス近郊のフキエール(Fouquières)の国営炭鉱で起こったガス爆発事故をいわば「人災」として裁いた。判決では、この事故が「謀殺」だったとし、経営者-国家、また直接の実行犯である炭鉱の技師、炭鉱医、幹部らに、有罪が宣告された。彼らは安全性より生産性を故意に選んだことで事故をまねいたからである。そう、バングラデシュ・ラナプラザでの縫製工場崩落「事故」と同じように。この人民法廷の検事役を努めた哲学者サルトルは、論告文でこのように書いている。

事故や人命の損失は決して不可避のものではなく、利潤の追求によって要請されたものなのである。坑内ガス爆発や珪肺のことを宿命と呼ぶなら呼んでもかまわないが、その宿命とは、ある種の人間たちにのみ、しかも、労働者を搾取し、生産性追求のために労働者の健康や生命をも犠牲にする他の一部の人間の手を介して、おそいかかる性質のものなのだ。(Sartre, Jean-Paul, "Premier Procès populaire à Lens", dans Situations, VIII, Gallimard, 1972, p.320.〔山本顕一訳「第一回ランス人民法廷」『シチュアシオン Ⅷ』人文書院、1974年、233ページ〕)

 例えば、なぜ炭鉱医は有罪なのか。それは、彼らが、坑夫に対して職業病である「珪肺」の診断を故意にひかえるからだ。

医師は万事承知の上で患者を緩慢な死の道へと追いやるのである。ところで、炭鉱医たちが珪肺の坑夫を、労働事故の真の犠牲者として取り扱うのを極度にいやがるということは周知の事実である。その理由は?もし患者が炭鉱から離職し、その疾病に対し年金が支払われなければならないとしたら、経営者-国家は全く役立たずの人間に金銭を支払うことになるからだ。医師が真実をはっきりと告げたら、鉱山では半年と首がもたないであろう。(ibid. p.322.〔邦訳、235ページ〕)

 こうして、炭鉱の医師は嘘をつくことを選択するようになる。「長らくこの職に従事し、立派な家に住み、優雅な生活を送っている医者たちは、人殺しに通じる嘘もひんぱんにつくしかない、と心に決めてからすでに久しいはずだ」(同)。

 また、炭鉱では安全対策が不十分だが、これは、炭鉱の保安部門がただ怠慢だったり無能だったということではない。それは、「選ばれた」怠慢であり無策なのだ。しかも、彼らは、本来自分たちが持つべき安全対策の責任とその費用を、労働者に転嫁する。なるほど、炭鉱には立派な「安全基準」がある。それを守って作業すれば、坑夫の安全はたしかに確保されるが、その代わり作業効率は落ち、低賃金の坑夫の給料はますます減ってしまう。坑夫は生活のために無理をし、事故が起きる。

 あらゆる事故は彼のせいにされる。「お前は規定を守らなかった。お前は注意が足らなかった!」と。(……)
 こうして、あるおぞましいシステムが成り立つ。国家‐経営者は、労働者の稼ぎの中から、彼が死から身を守るべく行なうあらゆる労働相当分の賃金を天引する。鉱山は資本主義社会に属している。鉱山で労働者に聾いかかる事故や職業病は、資本主義社会のみが責任を負うべきものである。だか、この社会は、みずからが当然責任を負うべき災害から労働者の身を守るために必要な費用を、当の労働者自身に支払わせるのである。(ibid. pp.325-326.〔邦訳、237-238ページ〕)

 病気は「宿命」。事故は「想定外」。果たしてそうだろうか?実は病気や事故の死者数は、「選ばれている」のだ。自動車事故の死者数、炭鉱での死者数、原発事故での死者数、そして新型コロナウィルス感染症の死者数も。だから我々は、死者数を「見極めるべき」とか、「感染症対策」と「経済」のバランスを「見極めるべき」、というような議論を疑っていくべきだ。その「見極め」が果たして何を「見」ているのか。我々が本当に見極めなければならないのはそちらのほうだろう。

*1:森が念頭に置いているのかはわからないが、マイケル・ムーアの「ボーリング・フォー・コロンバイン」では、テロリストやアフリカ系アメリカ人に対する「恐怖」を煽る政府やメディアを批判する箇所で、殺人蜂(アフリカナイズドミツバチ)の危険性を煽るテレビ番組が引用されている。

*2:フジテレビの平井解説委員は、特措法改正を安倍政権が見送ったのは「私権の制限は憲法違反であると野党が反対したから」だと解説したというhttps://lite-ra.com/2020/08/post-5557.html

*3:民法廷と、それに関わる「野生の司法」(「国家の司法」と対比される)については、かつて書いたこちら↓を参照されたい。 garage-sale.hatenablog.com

鳥の写真

 

えーと、鳥の写真をただ貼り付けていくだけのエントリーです。あしからず。

 鳥観察はごく最近再開し、ブランクがかなり空いており、以下、よくいる、とかめずらしい、とか書いてますがかなり主観が含まれています(全国的な動向についても一部ネットでちょっと調べました)。

 まず、横浜市鶴見川の鳥たち。

 

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 ↑イソシギ。「磯」といいつつ川に多いようです。ネットで調べましたが、おなかの白い部分が首のしたで食い込んでいるのが特徴だそうで、イソシギに間違い無いと思います。

 

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セグロカモメ。なぜ川に?と思いましたが、いつのものかわかりませんが、こども電話相談室で、最近カモメが陸地に入ってきてカラスが追いやられている、という話がありました。

全国こども電話相談室[いきもの]

 

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↑カワウ。このエリアにいるようですが、なかなかとまっているところが撮れない……。

 

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マガモ

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コサギ。いい写真がとれた……。

 

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シジュウカラ。まあまあよくいますね。

 

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↑これもシジュウカラ

 

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ヒヨドリ。かなりたくさんいますね。

 

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カルガモ。かなりたくさんいた……はずですが、鶴見川のこのエリアにはあまりいない。

 

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オナガ。意外とあまり会わない。

 

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コガモ鶴見川のこのエリアにはまあまあいます。

 

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↑これは、よくわからない。キセキレイなのかもしれないけど、ちがうような気もする。

 

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↑カラスの行水。慣用句が現実化した貴重な瞬間。

 

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セグロセキレイ。かなりたくさんいますが、きれいな写真が撮れました。

 

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キセキレイ。まあまあめずらしいです。このエリアに数匹いるみたいでよく遭遇します。

 

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オオバン鶴見川のこのエリアには相当たくさんいる。この鳥、昔はめずらしかったような気がするんだけど、最近増えているのだろうか。それともこのエリアだけの現象だろうか。

と思って「オオバン 増加」でぐぐってみたら、やはり!2010年代に入って急増しているそうです。

db3.bird-research.jp

私が多摩市でしょっちゅうカモを見ていたのは2000年代ですから、そのころとは状況が変わっているのですね。

そういえば、昔たくさんいたオナガガモ、最近見かけないけどどうしたんだろう、と思ってこれまた「オナガガモ 減少」でぐぐってみたら、同じバードリサーチというところのサイトですが、2008年の1月~3月に発生した鳥インフルエンザの影響でカモ類への給餌が全国的に自粛され、その影響が大きかったオナガガモの観察数がその後急減したのだそうです(ただそれは全体の個体数が減ったということではなく分散した、ということのようですが。詳しくは下の記事を御覧ください)。

db3.bird-research.jp

このブログでは2007年にオナガガモの写真を上げています。当時はアドエス(懐かしい!)で撮影してたんだ……。

sarutora.hatenablog.com

減ったあとの2013年にも撮ってますね。

sarutora.hatenablog.com

 このときはオリンパス光学20倍のものをつかっていますが、その後さらにカメラをかえて、今は同じオリンパスの光学50倍!のものをつかっています。これ、照準器もついていて、鳥を撮るのに最高です。昔は、いつかはデジスコとかやってみたいなあ、と夢を持っていましたが、もうその必要ないかなあ、て感じです。

 

 

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ムクドリ。どこにでもものすごくたくさんいます。しかしいい写真がとれた。

 

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↑スズメ。減っていると聞いていますが昔に比べると本当に少ない!昔はもうどこにでもいたのに。

 

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↑ヒバリ?かなあ。よくわかりません。

 

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↑モズ。まあまあめずらしいと思います。

 

次に、横浜市某公園の池の鳥たち。

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↑バン。

 

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キンクロハジロ

 

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↑これもキンクロハジロ

 

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↑たぶんマルガモ(マガモカルガモの交雑個体)。昔住んでいた多摩市の乞田川にもいた。

sarutora.hatenablog.com