バランスのバランス

 また世論について書こうかと思ってるんだけど(もう飽きたと思うけど)うまくまとまらない。というわけで、ムーアの「華氏911」についてとりあえず。
 たまたまみつけた神奈川新聞6月20日の記事「時代のキーワード」。「華氏911」が紹介されている。「マイケル・ムーア華氏911』全米公開へ 時代の寵児に賛否両論 お騒がせ男か英雄か」とのこと。作品やムーアの背景を解説する部分については割愛しますが、記事の最後、「善悪二元論」と題する小見出しのある部分をちょっと紹介します。

 米国はこの個性的な”お騒がせ男”をどう見ているのか。ニューヨーク在住のジャーナリスト、鈴木ひとみは「草の根リベラルの代表としてもてはやす人と、あのばかがまた何かやってる、相手にしない人と。彼への見方は真っ二つに別れている。
(……)ムーアと同じドキュメンタリー監督、森達也の見方はこうだ。
「ブッシュを引きずり降ろすなどという政治的な問題は、ドキュメンタリーの役割というより、通常メディアがやること。その米メディアが機能不全に陥っているから、ムーアが脚光を浴びる」
 ドキュメンタリーの長所を「被写体と作り手の距離間(ママ)を描くこと」だと考える森は「ムーアは善悪二元論をひっくり返して見せているだけ。(ブッシュがイラク攻撃の論拠とした)二元論に二元論で対抗するのは、荒療治という気もする」。
 そのような攻撃的な手法が世界で受けている理由とは、何か。
ブッシュ政権の独善性に不満が高まり、誰か何か言えよ、とみんなが思っていたその時、タイミング良く受け皿として出てきたのがムーア。まさに時代が生んだ寵児ではないか」(12面)

 新聞のインタビュー記事というのがどれほど本人の発言を正確に伝えているか、というのは非常に怪しい。というのはわかっていますが、おそらく森氏らしい考え方がよく現れているのだと思います。これまた間接的ですが、ここによると、テレビでも森氏は同じような発言をしていたそうです。

 タナダユキ監督の映画『タカダワタル的』が上映中らしい。実は今日行こうかと思っていたのだが、いつものことながら、躊躇し逡巡しただけで終わってしまった。こういうことではいけないのだが。
 映画といえば、昨夜、『A』『A2』を撮った森達也監督がTVに出ていた。それもまだ観ていないのだが、彼は、逡巡のすすめだったか躊躇のすすめだったか、言葉は忘れたが、そういったことを語っていた。分かることは決めることであり、決めつけることである。オウムは悪だ、北朝鮮は悪だ、イラクは悪だ、と断定するところには、端的な排除や抹殺だけがあって、躊躇し逡巡する余地はない。対して彼は、私にはまだ分からない、という地点に立ち止まり、分かろうとする行為にこだわろうとする。
 その点で彼は、マイケル・ムーアにも不満がある。ムーアの映画もまた、逆の方向から、銃社会は悪だ、ブッシュは悪だ、と断定するプロパガンダになっている。ムーアその人の逡巡や躊躇が入っていない。(風日好

 で、上の文の筆者は、こう付け加えています。

 確かにそうではある、と躊躇逡巡人間である私は思う。
 一方、『A』『A2』に対しては、映画を高く評価しながらも、「今も若い信者を獲得し続けるオウムの広報的側面が皆無とはいえず、一筋縄では行かない」、と付記する評もある。森監督は、それは観てくれれば分かることだ、という。もちろん、観ていない私には、何ともいえない。
 例えば、ブッシュがイラクは悪だと断定して爆撃をする。圧倒的なメディアがその断定を垂れ流し、人々がその断定を受け入れブッシュを支持する。そのとき、支持をも分かろうとする表現と、支持は悪だと断定するプロパガンダがあったとして、いずれが、支持する人々をより多く躊躇させ逡巡させるか、ということは分からない。
 だがむしろ狙いは、人々を逡巡させるということでなくて、自らの逡巡を書き留めるというそのことにあるのでもあろう。
風日好

 「躊躇してます」とか「躊躇しようよ」という主張は、結果的には、人々を躊躇させる力をあまり持たないかもしれない、てことですね。
 ちょっと別の方向から考えてみます。「バランス感覚」という言葉がありますが、バランスってのはつまり天秤のことなわけです*1。バランスが崩れている状態、というのは、天秤が一方に傾いている状態だと言える。で、その状態を是正して「バランスをとる」ためには、普通、反対側に「重りを乗せる」わけです。しかし、「バランス感覚」というのが比喩として使われる場合、どうも、そうではなくて、「一方ではこういう考えがあって、他方ではこういう考えがある」という風に相反する考え方を「平等に」「中立的に」記述することを指して言われることが多いように思います。つまり、「どちらかに重りを乗せる」こと自体が、「偏った」「中立性を欠いた」ことであるのであって、重りを乗せずに、天秤をただ記述するだけの人が「バランス感覚が優れた人」と言われる雰囲気がある。「お騒がせ男か英雄か」と見事に「両論(?)併記」しているさっきの神奈川新聞の記事なんかも、まさに「バランス感覚」のなせるわざなんでしょう*2
 が、天秤が傾いているとき、天秤を眺めている人と、反対側に重りを乗せる人のどちらが「バランスをとっているか」というと……。
 いや、これは、陳腐なたとえすぎますね。が、とにかくそのようなことを考えていると、しばらく前から読んでいる町山智浩の日記でこのような文章に遭遇しました。

華氏911」のIMDbの一般投票。 最低1点から最高10点までつけることができる。 6月24日現在平均6.4点だけど……。 1点と10点しかないじゃん! 例の反ムーア草の根運動の連中がせっせと1点つけ続け、 それに対抗してムーア派が10点入れ続けて6.4点になっているのだ。 これでアメリカという国は総体としてバランスが取れている。 日本人の場合、このバランス取りをそれぞれの人が一人の中でやる。 で、こういう映画に多くの人が6点つけたりする。 そうじゃねえよ!  そういうヌルことやってるからつまんねえんだよ! オール・オア・ナッシングでいけよ! バランスなんて、一人一人がとらなくていいんだよ! 全体で取れればいいんだよ! 達観したような態度だと大人で利口そうに見えるってか? 実際、そっちのほうがモテたりするんだよな。 クソ! 実は「こっちだ!」「あっちだ!」とはっきり言う責任が取れないだけじゃん。

 「オール・オア・ナッシングでいけよ!バランスなんて、一人一人がとらなくていいんだよ!全体で取れればいいんだよ!」という言葉が心に残りました。で、この文章を書いた直後、町山氏は「華氏911」の先行オールナイト上映を観に行ったそうなのですが、観た直後に書いたものすごく熱くて長い文章を、さっき(ていっても大分前だけど)読みました。http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20040625 ほんの一部を引用します。

これから重箱の隅をつつくような批判がぞろぞろ出てくることだろう。 「細かい事実誤認がある」「編集で文脈を変えている」 あとは「ドキュメンタリーとしての客観性を問う」とかな。 「フェアじゃない」とかな。 何言ってんだ? テロの犯人を逃がしておいて、ウソの理由で関係ない国に攻め込むことに比べれば、 映画としてのフェアネスくらい何だってんだ? ヤラセだの誇張だの、少しはあるだろう。 でも反ムーア派が指摘している部分はみんな「周辺事情」にすぎない。 大事なのは、911の犠牲者の仇をブッシュがまだ野放しにしていることと、 関係ないイラクで何千人ものイラク人とアメリカ人が死傷していることだ。 それはヤラセでも何でもない事実なのだ。 そもそも映画としての評価など関係あるかね? マイケル・ムーアは命を脅迫されながらも、人が意味なく死んでいくのをなんとか止めようとしているんだ。 それを「ドキュメンタリーとして客観的じゃない」とか「フェアじゃない」とか批評してどうなるのか? 当たり前じゃないか。 彼は戦争を止めるためなら何でもするつもりなんだよ。 人の命を救うためならどんな反則でも使うつもりなんだよ。 「映画としての評価」や「ドキュメンタリーの中立性」と人の命とどっちが大事なんだ? ムーアの目的はいい映画を作ることでも、ジャーナリズムでもない。 この無意味な戦争を一刻も早く止めさせること、 少しでも無駄な犠牲を減らすことなのだ。 目の前で人が死んでいくのを止めるため、ありとあらゆる手段を尽くしている男を見ながら、したり顔で腕を組んで「映画としては…」なんて「批評」してる場合か? 今も人が無意味な戦争で死んでいるし、 その間に、本当に悪いテロリストどもは民間人を生きたままを首切って遊んでるんだよ。 それをなんとか止めようとしている映画に「うーん、これは映画としてアレですね」なんて偉そうに言ってる場合か?

 熱烈にムーア擁護するこの町山氏の文章自体を、「バランスを欠いている」と見る人もいるでしょう。が、この文章、これはこれで、森達也氏とある意味で対極にあるような、大変町山氏らしい文章だと思います。
 さて、乱暴にまとめれば、「重りを乗せるのは慎重に」論と「反対側に重りを乗せるべし」論という、森氏と町山氏の二つの相反するバランスについての考え方を、私のこの文章は、バランス良く(?)紹介した訳ですが……。で、お前はどうなんだって? 私自身としては、今の日本で、どっちの「バランス論」が主流か、ということを考えると、おのずと片方に重りを乗せたくなる誘惑に駆られ……ますね。

*1:天秤というのは基本的に二本の腕をもっているのだから、バランスというのは二元論を前提にしているといえるかもしれない

*2:実は私森氏の「A」と「A2」なんとまだ観てない(いいかげん観ろよ)。しかし、何冊かの著作と新聞などでの発言を読む限り、もちろん、森氏の「バランス感覚」とはここまで単純ではない。というかオウムバッシングでものすごく一方向に流れていく日本社会の中で、氏は英雄的なまでの「逆方向への重り乗せ」を行っているのだと思います。その上で、氏は、そうした自己のあり方についても批判的に吟味しようとしているのだ、というのは何となくわかります。