ブラよろ

 『ブラックジャックによろしく』9巻を読んだ。今度は精神科編。この巻の冒頭で、読捨新聞の門脇という中年の記者が登場します。彼は、主人公斎藤の新しい研修先、精神科にアルコール依存症患者として入院します。ところが、この入院は「体験入院」なのです。人目に触れる機会も少なく、タブーとされる部分も多い精神科。彼は、その内情を紹介するシリーズ記事を書こうとしているのです。だが、彼の目的は、単なる「事実の記述」ではない。斎藤に対して、門脇はこう言います。

私は記者として もう10年近く精神の問題に 取り組んできました……

だけど 何も変わらない……

差別も 偏見も……

何も 変わらないんです……

新聞は 何のために あるんでしょうか……?

報道は何を 伝えてきたのでしょうか……?

何かを動かす事は できたのでしょうか……?

これは 賭です……

"表現"によって 何かが 変えられるのか……?

これは…… 体を張った 賭なんです……

(43-5ページ)

 このセリフ自体は、「ジャーナリズムとは何か」という古典的な問題をめぐる、やや陳腐なものにも見えます。そしてもちろん、「"表現"によって何かが変えられるのか」というフレーズには、『ブラックジャックによろしく』という作品自体が「"表現"によって何かを変えた」のだ、という作者の自負が込められているのでしょう。8巻のオビにはこう書かれています。

ブラックジャックによろしく」が描いた矛盾と問題点が、次々と変革されていった。

研修医のアルバイト禁止 / 研修医の給与保証 / 新人医師に2年間の研修を義務化

新薬承認のスピード化と簡素化 / 病院の統廃合による医師の集中

手術数が多く熟練した医師に診療報酬を増配

医局講座制度廃止への取り決めを開始 / 不妊治療費用の公的助成……

1作の漫画が世の中を変えていく。

 しかし……。さる巨大掲示板の、医療関係者の目で見た『ブラックジャックによろしく』、というようなスレッドを見たのですが、そこにあるのは、『ブラよろ』という作品に対する、あるいは主人公斎藤に対する、罵倒と非難のオンパレードでした。もちろんちゃんと全部に目を通したわけではないのですが、ごく一部にざっと目を通したところ、とにかく、あのマンガがいかに間違った医学的知識に基づいて書かれているか、医療現場の実情に即していないか、そして、斎藤という主人公の正義感ぶりがいかに暑苦しくて不愉快であるか、を指摘する書き込みが大部分であるようでした。
 もちろん、私には判断できませんが、著者の佐藤氏は医者ではないのだから、いくら取材を重ね監修を受けているとはいえ、間違いがあってもそれほど不思議ではありません。しかし、このマンガがここまで医師たちの反発を買うのは、言うまでもなく、このマンガの内容が医学「業界」に対する激しい批判を含んでいるからでしょう。
 ところで、たとえば、こんなマンガがあったらどうでしょうか。タイトルは、『シンタロウによろしく』とかなんとか。主人公は、腐敗したある公立大学を「改革」するために理事長としてやってきた熱血漢タカハシ。主人公は、その公立大学の「あきれた」現状についてこのように語るのです。

とにかく無駄が多い。例えば、都立四大学合わせて教授と助教授で500人強もいます。学部長にもかかわらず論文を一つしか書いたことがないという人もいました。私だって三十ぐらい書いていますよ。その先生の授業は十年一日のごとく変化がなくてつまらないから、登録した五十人の学生のうち毎回出席しているのは一人か二人だそうです。

都立大学人文学部は六百五十人の学生に対して百三十九人の先生がいます。実に四・六人の学生を一人の先生がめんどうを見るという割合です。ちなみに仏文科と独文科は学生より先生の方が多い。フランス語の先生は言葉を大事にしなければいけないとか仏文学の重要性を再認識すべきだとか独り善がりの論文を書いていますが、それは首都大学東京には必要ありません。

 これを読んで、大学業界の「矛盾と問題点」が赤裸々に暴かれている!殿様商売の大学教授とはまったくケシカラン輩だ!と思う人も多いでしょう。
 もうおわかりと思いますが、これは、首都大学東京の理事長予定者、高橋宏氏が雑誌インタビューで実際に語った発言です(「財界」(2004年6月8日号) 特集「石原都政改革の目玉『首都大学東京』はどんな大学になるのか?」)
※上記引用は、ポーカス博士による要約 http://www.bcomp.metro-u.ac.jp/~jok/kiki-d.html#zaikai-takahashi
 しかし、この発言は、都立大学の実情とまったく違う嘘だらけの発言です。論文を一つしか書いたことがない学部長など存在しないし、「四・六人の学生を一人の先生がめんどうを見る」という数字も嘘(これは都側が繰り返し使った数で、人文学部では何度も何度も抗議して訂正を求めてきた数。実際は「9.9人の学生を一人の先生」http://www.bcomp.metro-u.ac.jp/~jok/kiki-f.html#j-g-futan)「仏文科と独文科は学生より先生の方が多い」というのも嘘。(以上、詳しくは http://www.bcomp.metro-u.ac.jp/~jok/kiki-d.html#zaikai-takahashi を読んで下さい。というか私の記述のソースもここ。)
 このように、高橋理事長予定者は、自分自身シロウトのくせに、デタラメなことを言って、都立大学の実情を知らないシロウトの意見を、「改革」賛成に誘導しようとしている。しかもこれは『ブラよろ』のようなフィクションとは違うのに……まったくケシカラン!……と、『ブラよろ』に文句付ける医者と同じように、私も言いたくなってしまう。
 ……しかし、都立大「改革」派(イシハラ派)の「嘘」はもちろん批判していかなければならないですが、イシハラ都立大「改革」は、「嘘があるから」悪い、ということなのではない。仮にイシハラやタカハシがまったく正しいデータを使っていたとしても、彼等の「改革」は理念そのものが間違っている(というかデタラメ)から批判していかなければならない。
 というわけで、「批判」というのは、嘘批判(事実に関する間違いの指摘、等々)のみになってしまっては、まずいのではないか、と思うのです。そして、嘘批判、というのは、どうしても相手を見下す方向に行ってしまう。つまり、「何も知らないクセに、シロウトが四の五の言うな」という感じになりがちなわけです。こうした見下したような批判が、小林よ○のり他自由主義史観派に対する、左派による批判の中にしばしば見られます。曰く、「新○い歴史教科書は、およそ歴史の基礎をわかってない、教科書とも言えない駄本で、箸にも棒にもかからない」「小林よし○りは軍事の知識もないから軍人や兵器の絵は間違いだらけだ」とか。はっきりとは書いてないけど「漫画家風情が……」と言いたいのがにじみ出ているものもある。その辺、『ブラよろ』批判も同じですね。一方、『ゴー○』は(あるいは『ブラよろ』は)マンガとしても出来が悪い、つまらない、という「批判」もけっこうあります。が、マンガ家に対して、「歴史家でもない、医者でもないシロウトは口出しするな」と批判する人は、逆にマンガに関してはシロウトなはずですが、それでいて、自分はマンガに対してあれこれと専門家きどりで批判する。それはどうなんだろうか、という気もします。
 といっても、私は小林よし○りの肩をもつわけではない。あの人の言っていることにはほとんど賛同できない。しかし、彼が少なくとも「"表現"によって何かを変えよう」としているのは事実だと思う。その変えようとする方向に対してはまったくついていけないけど。その限りでは、「シロウトは黙ってろ」とばかり言ってる、あるいは、他人の嘘を見つけては鬼の首でもとったように騒ぎ立てる、何も変えようとしない人、というのは、よし○んにくらべても大分卑しい感じがするのです。*1
 というわけで、大分回り道したのですが、これはムーアに対する批判に対する町山氏の批判に通じる話ではないかな、と思ったのがこの文章を書いたきっかけです。
 あとは、またサルトルサルトルは、

知識人は自分と無関係なことに差し出口をする連中であった。ですから、もともと『知識人』という呼び名は、知識人たちの敵によって使われたものだったのです。
サルトル『知識人の擁護』人文書院、12ページ)

 と言っているわけですが、これによると、「知識人」というのは「シロウト」の別名だ、ということになる。その辺の話は、長くなったのでまたそのうち(ていうようなネタがすごくいっぱいある)。


*1:もっとも、よし○りんも「サヨクは嘘つきだ」という同じ手法をよく使っているような気もするので、おあいこかもしれないですけどね。