魂の労働

 あ、deadletterさんに言及していただきました。
http://deadletter.hmc5.com/blog/archives/000071.html
 というか、ちょうどモラリズムという事に関して、渋谷望の『魂の労働』のことを書こうと思っていたところでした。

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

 『魂の労働』は、ちょっと前に読んだのですが、大変面白かったです。詳しく紹介したいのですが、時間がないのでところどころ引用することでお茶をにごします。介護労働の話から出発して「感情労働」というキーワードが出てくるのですがそのへんは時間がないのですっとばして……

 生産社会から消費社会への転換〔においては〕むしろ生産と消費のヒエラルキーが逆転したことを意味する。(……)いわば消費者の"声"――顧客の多様なニーズ――を聴き取り、それをこまやかに生産にフィードバックさせることが必要となっていく。
 ところですでに見たように感情労働において、顧客との関係を優先させるインセンティヴが強く働き、結果として顧客との関係を裏切る行為を控えることが多い。これを自覚的に経営管理に取り込〔んだものが〕テイラー主義を乗り越えるものとしてしばしば「新経営主義」と呼ばれる一連のテクノロジーであるといえよう。(……)顧客による採点表〔カスタマー・レポート〕等の実践に端的に現れるように、それは従来の経営者からの(「上からの」)指令――それは必然的に抵抗の主体や対抗的文化を職場内に作り上げることを容易にする――をいわば消費者からの指令に置き換える。(……)こうしてそれは労働者の「経営参加」を要請し、労働者が自らの感情に働きかけて「自発性」を引き出すよう促すのである。
 このテクノロジーが、70年代に日本において成功を収めたということをわれわれは思い出すべきであろう。(……)
 重要なのは、この実践が工場のなかで生産に従事する労働者と工場の外の顧客との想像上の距離を限りなく縮めたことである。たとえば「検査では品質は作れない。品質は工程で作り込め」(北原・能見1991,66頁)という品質管理(Quality Control)の「精神」は、労働者が想像の上でつねに顧客と向き合うこと、さらには顧客になりきることを要請する。
(……)
追求されているのは企業への同一化や忠誠ではない。何かへの「忠誠」が見いだされるとすれば、それはむしろ顧客へ忠誠/同一化、あるいは利用者の〈サービスの質〉に対する忠誠である。
現在、ネオリベラル的な社会秩序へと再編されつつあり、特定の企業への忠誠心は少なくとも企業にとってはありがた迷惑なものと化しつつある。だが(……)忠誠心を投入する対象は消えるのではなく、今後、社会全般へとより一般化、より抽象化していく可能性がある。(33-40頁)

 「我が社」への忠誠をせまられれば、労働者として連帯して会社と闘おう、というようなことも出てくるわけだが、いまは、仕事への「忠誠」が、「お客様のニーズ」に答えること>「社会」(世間?)への貢献……といいかえられる。つまり、ボランティアの精神に近いものにされる。とすると

 このようにこのテクノロジーは労働者が自分の労働力をたんなる〈商品〉としてクールに切り離し、資本に売却すること【以上】の何かを要求する。そこで要求されているのは、個人の〈実存〉や〈生〉そのものの次元とでも呼ぶべきものを生産に投入することであろう。労働者にとっては、生産と生活の原理的な区別は溶解し、彼らがもはや労働に対してクールに振舞うことは不可能となる。こうして彼らの「やる気」を駆り立て、サボリを防止することが成功する。(39頁)

 ただし、「それは一見、権力による〈生〉の支配であるように見えよう。しかし、〈生〉は権力の作動にとって必要欠くべからざるものになっていくが、他方で〈生〉に内在する豊かな壊乱的性質は権力の痛点を構成する(43頁)」というのも大事なところなんだろうけど。
 さて、まんなかへんをとばして、終章。

 (……)ネオリベラリズムにおいては〈怠惰〉は罪である――それがポスト産業社会の現実である恒常的失業によるものであっても。
 しかし、〈怠惰〉への非難や攻撃にはたんなる寛容の欠如以上の積極的理由があるのではないだろうか。
 正規雇用層と非正規の不安定雇用層とのあいだに階層分化が進行しつつある現在、同一労働にもかかわらず歴然と存在する賃金と社会保障の格差が問題になりつつある。ここで問題となっているのは、非合理な格差という以上に、この非合理性を基盤としてかろうじて保たれている「正規」雇用勤労者の自己肯定ないし威信の揺らぎと不安である。自分たちの労働には価値はなく、むしろ遊んでいる者の〈労働〉のほうに価値があるとしたら?怠け者のほうが生産的であるとすれば?あるいは、サボりが能動的であるとすれば? 価値が「尺度の彼岸(Hardt and Negri2000訳447頁)」にあるというポストモダン的事態の全面化は、〈マジメ〉な者たちにこのような実存的不安を惹起する。ここに不安を押さえ込む必要が生じる。彼ら〈マジメ〉なマジョリティに安心を与え、この格差を最終的に正当化するものこそ、勤勉を美徳とする労働倫理ではないだろうか。勤勉な主体としての自己肯定は、〈怠惰〉への道徳的攻撃によってはじめて可能となる。(232頁)

 つまり、労働者に、無償の奉仕のような心構えを要求する、というのは、ある意味で、「仕事」を「遊び(生)」に近づけることによって、いっそう労働者の生への介入がはたされるからくりである。それがネオリベラリズム、というものだと。しかし、それは逆にいうと、仕事より遊びの方がエラいんだ、と、つまり、金儲けのためにやっている正規労働者よりも、ボランティアとか、フリーターの方がエライんだ、という価値観にもつながりかねない。そうした正規労働者たちの不安を抑えるものとして、「『遊び』はいいんだけど『怠け』はいけない」というモラルの強化が利用されているのではないか。つまり、非正規労働者(「ちゃんと就職していない」「遊んでいるようなやつら」)を、すべて「怠けもの」として(さらには「犯罪者」として)断罪することで、正規労働者の自己肯定がなされる、と。あまりまとめになっていないけど、そんな感じなのかな。人質事件での「人質」たちへの攻撃も、それに通じるような気もするな。
 そういえば、学者とか、ミュージシャンとか、ほとんど遊んでいるような「仕事」の人にかぎって*1、「怠けてはいけない」「プロ意識が重要」「お金をもらっているんだから云々」とか過剰に強調しがちな気もする……。
 なーんて、「怠けもの」「プロ意識の欠如」ということでは誰にもひけをとらない自信がある私があまりそういうことを言うと、それはそれで自己正当化ととられてしまうかもしれないのでほどほどにしないとまずいかもしれない。

*1:ヒマって意味ではないですよ