無関心について(2)

 引き続き無関心について書こうと思っていたのですが……。今日本屋で

マルクスだったらこう考える (光文社新書)

マルクスだったらこう考える (光文社新書)

を買って(12月20日発行になってるからまだ出たばかりだと思う)、久しぶりに民芸でうどんを食べながら(ウマー)何気なく本を開いたら、ぱっと開いたところに偶然こんな記述がありました。

 二〇〇一年にフランスで出版された『資本主義黒書』という書物があります。そこには、資本主義がここ一〇年間で死に至らしめた人々の数が書かれていますが、驚くべきことに、その数は五〇〇万人にも上ります。また、その多くはアフリカ人なのですが、現在アフリカで、先進国による侵略戦争が行われているわけではありません。むしろ死者の多くは、独立後の長期にわたる内戦による被害者なのです。
 これほどの死者が出ていながら、日本の新聞やテレビでアフリカについてのニュースがほとんど報道されないのはなぜでしょうか。不思議な話ですが、その理由の一つに資源問題があります。今後、たとえばハイテク技術に必要な稀少な金属などがどんどん発掘されれば別でしょうが、アフリカにある資源に、先進国はあまり関心をもっていません。
 二〇〇一年二月、アフガニスタンバーミヤンの仏教遺跡がタリバンによって破壊されたとき、多くの人々はその行為を批判しました。そんななか、次のような言葉がありました。「石像は壊されたのではない。むしろ自ら恥ずかしさで崩れ落ちたのだ」。その真意は、誰もアフガニスタンの惨状に関心をもたないために、石像が自ら進んで崩れ、世界に向けて注意を喚起したというものです。
 たしかにタリバン偶像崇拝を批判するために石像を破壊したのですが、皮肉なことに、それが世界の注目を得るためのものだったといえなくもないわけです。「忘れられた人々」にとって、世界の耳目を惹くための象徴的行為が必要だとすれば、アフリカでも同じようなことが起こるかもしれません。
 いや、すでに飢え、病気、殺戮といった深刻な問題が起こっています。にもかかわらず、誰も関心をもとうとしないのはなぜなのか。アフリカ人がまるで絶対的「他者」、宇宙人であるかのように見なされているのはなぜなのか。世界が解決しなければならない大きな問題がそこにはあるのです。(154-5頁)

 というわけで、この本、他のところはまったく読んでいないのですが、とりあえず(長すぎますが)引用しました。
 「無関心の対象」(この言い方自体矛盾していますが)であるのは、イラクだけではない。むしろ、イラクは、石油という資源のために注目されているだけ「まし」なのだ、というこうした意見もたしかに聞きます。それにしても、アフリカ人が「絶対的他者」「宇宙人」と見なされるのはなぜなのか、という問いに、昨日引用したサルトルが言うように、我々が「絶対的他者と宇宙人を拵えあげることによってしか、自分を人間にすることができないから」とさしあたり答えてみたとしても、何か空しい。ではどうすればいいのか。(たぶん続く)