憤慨の格差

 id:tokyocat さんからの引用です。

■ 死に組、生き組

イタリアの民間人が米軍に撃たれて死ぬなんて「あってはならぬ」(少なくとも建前としては)。しかし、イラクの民間人が米軍に撃たれて死ぬこともまた「あってはならぬ」(少なくとも建前としては)。でも今回のニュースを見ていると、同じ「あってはならぬ」の希望にもあまりの格差が感じられる。「同盟先進国の高官や記者をイラクの一般人と同じく無造作に撃ち殺す(撃ち殺そうとする)とは何ごとだ!」といった、おかしな憤りが混じっているように思えてならないのだ。また誤射か故意かという話もあって、ぜひとも白黒はっきりさせてほしいが、これだって、じゃあイラク人への爆撃や乱射はどうかといえば、同様に疑わしい場合があるのだろう。だったら同じく《誰かが責任を取らなくてはいけない》。ところが我々は、米軍に撃たれたイラク人となると名前も職業も顔も分からないし数も多すぎるしいちいち検証していられません、とでもいうような、すこしも理由にならない理由をこしらえて関心を捨ててはいないだろうか。「あってはならない」というより「あってもしかたない」の気分。そんなのが世界や私の常識なら、もう少し憂鬱になってしかるべきだ。戦争を私の努力で減らすことは難しいかもしれないが、こうした報道の格差からくる憤慨の格差を減らすことくらいは、自らの努力でできる。

 まさにその通りだと思います。……とトラックバックを送ろうと思っていたら、『となり町戦争』に対する批判を見つけました。