でも……

結局、デモにはいかず、観光をしてしまいました(爆)
そういえば前回、フランスのデモと日本のデモを比べて、最近の日本のデモは異常だ、というような言い方をしましたが、もちろん、フランスの社会が、ましてや国民性うんぬんが日本のそれと比べて「正常」だというようなことを言いたいわけではありません。ただ、今のフランスのデモの方が、たぶんデモというものの元々の姿(あるべき、とか本来、とはいいませんが)に近いのだろうと思った、ということです。といっても、そもそも反政府デモなどまったく不可能な国だっていくらもあるわけだし、またいくら大きなデモがあったとしても、埴谷雄高に言わせると、デモ隊に対峙する警官、軍隊がすべてデモ隊に寝返る事態が起こらないかぎり、所詮は無意味なお祭りさわぎだ、ともいえる(埴谷雄高についてはそのうち書こうと思っています)。
ただ、日本でもかつては今に比べて多くのデモがあった。いわゆる「運動」の盛り上がりというてんでは、一時はあるいはフランスをしのいでいたかもしれない。それが、なぜ今やこれほど大きな差が生まれてしまったのか。いろいろな要因があるでしょう。それを考察する能力は、私にはほとんどありません。
しかし、一つの要因として、日本では、デモと対峙する側、デモを弾圧する側が(結果的に、ということであるにせよ)フランス以上に巧妙だったということもおそらくあるでしょう。ところが、今の日本でなぜ運動が盛り下がったのか、ということがかたられるとき、なぜか、運動の側の問題点ばかりが語られるように思うのです。いわく、かつての運動はあまりに攻撃的だった、暴力的だった、党派的だった、云々……たしかに、そういう要因もあったかもしれませんが、それだけがことさらに強調されるのはいささか奇妙だと思います。そう、確かに左翼は自虐史観だ。自虐的運動史観。だから、今や、デモを再び盛り上げようとする人々が、デモと言わずにパレードと言おう、とか、シュプレヒコールは止めよう、とか、いってしまえばとんちんかんなことをしようとしている。まるで、暴走族が、このままでは市民から敵視されて衰退するばかりだから、と、「暴走といわずに快走と言おう」とか、「制限速度を守るようにしよう」と言ってるような。自虐的暴走族。
結局、デモ隊を「プロ市民」と揶揄したり、暴走族を「珍走団」と揶揄したりする声に、自ずから萎縮して自虐的に衰退していくんだよなあ。