オブセッション

 前回の齋藤孝についての拙文に、団長亭日乗さんからトラックバックをいただきました。ありがとうございました。
「資本主義」のおびえ

なぜ、現在、矢継ぎ早に色々な本を出版していずれもがベストセラーになっているこの斉藤孝が、「共産主義」に対する「資本主義」の優位性について強調せねばならなかったのだろう。
イデオロギーの時代」が終焉し、社会主義が間違いであることが証明されたのならば、なぜ、ことさらに「資本主義は共産主義に勝っている」と言わねばならないのだろうか。そこになにがしかの不自然さを感じるのである。
ここでわれわれは、フロイト的な手法を用いることができる。いわば、この発言の裏には、「資本主義で本当によかったのだろうか」という疑念が存在するからこそ、何度も繰り返し「資本主義の優位性」というイデオロギー(ここでいうイデオロギーはもちろん広い意味でのものである)を、モノポリーのようなゲームからでも導き出したくなったのではないだろうか。いわば、「ポスト冷戦」で勝ち残ったはずの資本主義が、亡霊と化したはずの「社会主義」によるオブセッションを受け続けているのだ。資本主義は、社会主義に勝ったからこそ、われわれは資本主義を満喫しなければならない。この「ポスト冷戦」という状況を楽しまねばならない!というオブセッションを、つねにわれわれは受け続けているのではないか。

 これは、ほんとにそうだと思います。
 逆にいうと、「社会主義は本当に悪かったのだろうか」という疑念が存在するからこそ、「社会主義の劣悪性」が繰り返し強調されるのかもしれませんね。「社会主義というのは、結局スターリニズムに、ラーゲリに、ポルポトに、連赤に、帰着するんだ」と何度聞かされたことでしょうか。ちょうどそれは、「ここから出ていった者はみんな怖ろしい目にあうんだよ」という言い伝えのような役割をはたしているようにも思います。「資本主義の外」に憧れる無意識の欲望があるからこそ、それを繰り返し抑圧しなくてはならないのではないか。
 共産主義は我々にとってはつくりだされるべき一つの状態、現実が基準としなければならない一つの理想ではない。我々が共産主義とよぶのは、いまの状態を廃棄するところの現実的な運動である。それは繰り返し亡霊のように復活するのである。
 なんちゃって。