非暴力

 ssugiさん、コメントありがとうございます。私の議論は曖昧になりがちなので、こうした形でとりあげていただいてほんとにありがたいと思います。
http://d.hatena.ne.jp/ssugi/20050806
というわけで、いくつか考えたことをこちらも書いてみます。

非対称なペアのうち非優位な方に、その非優位であることを理由として「抵抗的暴力」という特権が与えられるというのは納得しずらいところです。(ssugi)

 抵抗的暴力は「特権」ではないと思います。言うならば「生の事実」「生きようとする力」だと思います。今まさに暴力を振るわれているものがそれに対して直接反応している事実、というイメージです。そして、むしろ「国家」こそが、抵抗暴力の論理を「特権」として市民から簒奪していることが問題ではないか、ということです。これについては後に詳しく述べます。

暴力以外の手段がないというケースももちろん想定できます。でも、それは国家がする戦争と同じく、ある極限として存在するもので、ブッシュがしたようにいくつかある手段の中から選択する性格のものではないと思います。「ほかに方法がないから暴力で抵抗する」というのと「我が国はやむなく戦争に突入する」は相似です。(ssugi)

 こうした反論があるのではないか、ということは予想していました。これに関して言えば、「相似ではない」と言いたいです。というか、およそあらゆる戦争は、対抗暴力を僭称してなされるということです。つまり、対抗暴力は国家の暴力に対抗する暴力であるのに、その国家の暴力の方が、自らを対抗暴力と僭称するわけです。だから、「対抗暴力が戦争の暴力に相似である」からといって対抗暴力を批判するのは違うと思います。むしろ、戦争の暴力の対抗暴力とのニセの相似性を暴いていかなければならないと思います。
 その点について、ネット上で読める松葉祥一さんの文章を見つけました。全体も興味深いですが、さしあたり関係のあるところだけ引用します。
http://www.linelabo.com/isihara1.htm

周知のように国家(地方自治体を含む)は,軍隊や警察,監獄など暴力を独占することによってこれらの暴力に対抗する。ただ,法治国家であれば,その手続きは,すべて法の下で行われねばならない。したがって,国家は,この暴力を排除するための暴力を正当化しなければならないことになる。
 この正当化のために使われるのが,「予防対抗暴力の論理」(E.バリバール)である。すなわち国家は,安全で平和な秩序を乱す可能性のある暴力を想定し,自らの暴力をそれに対する抑止力として正当化するのである。つまり,ある個人やグループ,国家を暴力的だと定義し,それらがもたらすかもしれない暴力からの予防のためのやむをえない暴力として,自らの暴力を正当化するのである。こうして,国家は,暴力を独占するだけでなく,安全を,つまり排除すべき暴力とそれに対抗するための正当な暴力を「定義する力」を独占することになる。(松葉 強調引用者)

 このように、対抗暴力が、本来、現に暴力を振るっているものに対する、暴力を振るわれているものの直接的・現実的反応だとすると、このニセ対抗暴力としての「予防対抗暴力」は、暴力を振るいそうなものに対する暴力として、国家の暴力を正当化するレトリックです。
 というわけで、ちょっと順番が入れ替わるのですが、後の方で出てくるssugiさんの文章を引用します。

ある暴力は適切で別の暴力が不適切という区分けはやはりできないと思います。規模でもできそうにないし、暴力をふるう主体のおかれている立場ということではそれこそ恣意的になってしまいます。正しい人のふるう暴力は正しいとしかいえないでしょう。(ssugi 強調引用者)

 これに対しては、松葉さんが言うように「国家は,暴力を独占するだけでなく,安全を,つまり排除すべき暴力とそれに対抗するための正当な暴力を「定義する力」を独占する」ということだと思うのです。つまり「ある暴力は適切で別の暴力が不適切という区分け」(正当暴力の定義)を、国家が独占するのです。だから、重要なのは「暴力の定義は結局恣意的になる」と言う一般的・抽象的判断を示すことではなく、現に国家によって恣意的に運用されている暴力の定義を批判すること、松葉さんの言い方を借りれば「つねに国家の暴力装置の監視とコントロールを続ける」ことで、暴力を「定義する力」を市民*1が取り戻さねばならない。

 そして,国家は,自らの存在証明と存続のために,家族,学校,企業,出版といった「イデオロギー装置」を通じて,安全を脅かす暴力への恐怖をかき立て続けることになる。すなわち,安全に対する脅威を誇張,あるいは捏造することによって,市民の側から軍備強化と治安弾圧拡大を求める声を醸成する。それは,国家が無力であると感じられる時代ほど大きくなるだろう。こうして国家は,「予防対抗暴力の論理」によって排除すべき暴力と正当な対抗暴力を「定義する力」を独占することによって,「危機管理」の名目で,自らの暴力の範囲と規模を無限に拡大していくことになる。抑止力の名目による軍備拡大競争と治安弾圧による恐怖政治は,例外的な事態ではなく,予防対抗暴力の論理の必然的な帰結なのである。
 この予防対抗暴力の論理が,戦争や治安弾圧を生み,安全保障という前提に反する結果に陥ることは明らかである。それゆえ,市民は,つねに国家の暴力装置の監視とコントロールを続けなければならないのであり,また脅威を拡大再生産する予防対抗暴力の論理を許さず,安全を脅かす危険を「定義する力」を行使し続けなければならないのである。(松葉 強調引用者)

 とりあえず先に進みます。

非対称性は本来固着したものではないはずです。たとえば、ある人たちがある属性をもっていることを理由として迫害されたとしたら、その属性を持った人たちで集まって抵抗するというのが、古今東西メジャーな対抗手段で、それが集団的アイデンティティになってゆくわけですが、逆にそういう負のアイデンティティーを拒否してゆくのもありだと思うのです。(ssugi 強調引用者)

 これは、後期サルトルにつながる問題です。サルトルは、バスチーユ襲撃の集団のような、自然発生的な抵抗する集団を「溶融集団groupe en fusion」と呼びました。しかし、この「集団」は、人種とかなんとかの「属性」によって結びついた集団ではないのです。それは、現実の、事実としての「行為(実践)」によって結びついた集団だ、ということです。いうならば「抵抗」によって結びついた集団です。ところが、そうした集団も、結局は「属性」によって結びついた集合に変質してしまうのです。サルトルはそれを、「集団」とは区別して「集合態collectif」とか「集列serie」と呼びました。例えば、革命の瞬間においては純粋に行為によって結びついていた集団においても、やがて「俺達はこれこれの革命集団に属している」という属性的アイデンティティーが生まれてくる。たとえば北朝鮮という「国家」にしても、抗日という「抵抗」の行為によって結びついていた自発的「集団」が、もとのもとにはあったのかもしれませんが、いまや組織暴力を行使する巨大なシステムと化しています。
 集団的アイデンティティーと抵抗の問題、サルトルが『弁証法的理性批判』(駄本として長らく忘れ去られていますが)で提起した問題は、まさにアクチュアルな意義をもっているのではないか、と私は思っています。

で、正当防衛的な場合をどう考えるかですが、これはスピノザ風に暴力の悪よりも、自分の身を守る善の方が優先すると考えればいいと思います。かといって暴力の悪が消えるわけではないですが。ジャン・バルジャンがパンを盗んだときのように緊急避難的に悪事をおこなう場合は、悪事そのものを肯定する必要はまったくなく、生きようとする力(コナトゥス)を肯定するべきなのではないでしょうか。(ssugi)

 これは、まさに向井孝につながる話です!向井が肯定する対抗暴力とは、まさしく「」としての個人的暴なのです(『暴力論ノート』)。そして同時に、向井が肯定する非暴力も、「」としての非暴暴ニ非ザル力、なのです。だから、デモで警官が振るってくる暴力に無抵抗であるべし、というようなピースフルな考え方は、向井に言わせれば「非暴」ではまったくなく、生きようとする力が奪われた単なる「無力」を肯定することです。それは裏返せば国家の暴力(生きようとする「力」としての個人的暴力ではなく、むしろ個人の生を簒奪するシステムとしての暴力)を肯定することにつながるのです。
 ……というわけで、長々と書きましたが、今回私は、やはり向井っていこうという決意?を改めて固めました(笑)さて

ただ、人をのろわば穴二つというように、非暴力というせっかく築いた砦に開けた小さな穴は必ず二つになって、向こう側からはねかえってくると思います。(ssugi)

 そうですね……だからさんざん書いておいていまさらなのですが、もちろん、私は基本的には「暴力反対!」「非暴力!」「戦争反対!」と叫ぶし叫ぶべきだと思うのです。それでいいと思うのです。誰かが「対抗暴力の正当性」なんてことを言ったら、それを聞いた単なる暴力好き戦争好きのアベ・コイズミみたいなやつらが「そうだろう、だから北朝鮮の暴力にそなえるために日本も核武装するべきだ」とかいいそうなご時世なわけで……。もちろん、それは、対抗暴力とはまったく違う論理、ニセの対抗暴力でしかないのですが、誤解される可能性は多分にある。
 というわけで、私は
暴力反対! 非暴力! 戦争反対!
です。しかも、だからこそ、個人(および自発的集団)の、生きる力としての対抗暴力を肯定したい、ということなのですが……。

*1:ここで、「市民」の定義が恣意的だ、という反論が当然予想されますが