郵政問題より優生問題 その2

http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20050910#p1 からの続き)

「遠さ」と「人ごと」

前回のエントリーを書いた後に、id:HODGEさんからの次のような批判がありました。

この「ナチスの所業」と「郵政改革を進める勢力」とを結びつける「イメージ操作」は、性急だと思う。というより、安易なナチズム・イメージの流用は、本当のナチスの犯罪を矮小化・陳腐化させるのではないか、という恐れを、どうしても拭い去れない。

 障害者自立支援法に関しては、重要な問題なのに話題にされることがあまりに少なすぎるのではないか*1、という焦りがあったので、やや性急に関心を喚起しようとした面は確かにあるかもしれません。また、「安易なナチズム・イメージの流用は、本当のナチスの犯罪を矮小化・陳腐化させる」危険というのも、たしかにあると思います。小泉をヒトラーになぞらえる国民新党のあの漫画のあまりの「軽さ」とか、「刺客が送られ、何人もの政治家が出馬を断念した。いわば『政治的ガス室』に入れられている。私はまだ生き残っているが」と言った亀井氏の発言などは、私もちょっとどうかと思います(とはいえ、これも、「小泉派」であるマスコミによってことさらこの発言が強調された可能性も十分あると思います)*2。しかし、ナチスの犯罪の「矮小化・陳腐化」の危険とは違う、ナチスの犯罪の過剰な「モンスター化*3」による危険というのもあると思うのです。

加害者を抽象的な言葉で鬼畜にしてしまえば、そこですべて「原因はすべてやつらが鬼畜だからだ」と片付けられてしまい、再発を防ぐことができないからだ。
(……)

結局、ひたすら思考停止を迫られ、狂気とか悪魔といった語彙を使いながら、自分たちとは別異のスタンダードに彼らがいたように考えようとする。そうすると話を簡単に終わらすことができるから楽なのはわかるが、そこで踏みとどまって考える必要がある。

 考えて見れば、ナチスを気軽に「矮小化・陳腐化」できる、というのも、それが自分たちとは全く異なった「遠い」存在だと思っているからに他なりません。その意味では、過剰な「モンスター化・鬼畜化」も同じことなのです。しかし、ナチスは、そしてナチスの犯罪は、「遠い」ものではなく、われわれのごく「近く」、いやわれわれの「内部」にあるものなのです(これはある意味でありふれた主張かもしれませんが、繰り返し指摘する必要があると思います)。*4
 あの気弱そうなアイヒマンこのポスターの「健康な家族」、そしてswanさんが紹介する『ライフ・イズ・ビューティフル』に出てくるドイツの婦人、みんな、「普通の」人々だったわけです。

  • そして、当時の「彼ら」にとって、「ユダヤ人」「障害者」「同性愛者」のことは、要するに「人ごと」だった。
  • そして、今の「私たち」にとって、ナチス(の犯罪)は、要するに「人ごと」である。
  • そして、今の「私たち」にとって、「障害者自立支援法」は、要するに「人ごとで」ある。

 これらのことはみな、実は通底しているのではないか?

「自分のこと」が「人ごと」になる

 さらにいえば、人ごとである、という気楽さは、メタゲーム、小泉支持ごっこの気楽さとも通底しているように思います。そのことが、「余裕があるのです。みんな、小泉のことを「たかをくくっている」のです」と書いたときに言いたかったことです。「自分の生活が、まだしも悪くならなそうなヒトをちゃんと選ぼう I」で、筆者の五十嵐さんは「有権者は、もう少し切迫感を持った結果としての「エゴイスト」になるべきなのではないか」と言っていますが、つまり、「人ごと」だと思っていて、「切迫感」が本当にはない人*5が、「郵政民営化の小難しい議論に首を突っ込んで「大局的に」判断」しながら、改革ごっこをもてはやしているのではないか。もちろん、彼らは、財政危機やら北朝鮮の危機やら、「危機感」を煽り、一見すると危機意識を強くもっているように見えるのですが、実際その「危機」とは、あの小泉程度の人物にまかせても何とかなる程度のものと、結局はたかをくくっているのではないか。
 しかし、以前も書いたように、実は「人ごと」ではないはずなのです。実はリングの上にいるのです。つまり、私たちは、結局「自分のこと」を「人ごと」と感じているのではないでしょうか。自分のことが人ごとになる、とは、古くさい言葉を敢えて使えば、まさしく「疎外」です。
 以下の記事をお読み下さい。

 今日、とある初老の女性と話していた。
小さな美容院を経営する彼女は、女手ひとつで2人の子供を育てた。
国民健康保険料を払いきれない」という。
彼女の所得は100万円程度一月の生活費は10万円に満たない。
しかし、彼女のもとには6万円もの国民健康保険料の請求書が送られてきている。
「売上が毎月20万前後しかなくなったんよ。私も歳をとったがお客さんも歳をとった。死んでしまった人もおるんよ」。
息子さんは「おかあちゃんの努力がたりないからじゃない」と言うそうだ。
それでも、彼女のもとに所得割を含めて7万円が請求されるのだ。彼女は少しずつ過去分の払いきれなかった保険料を支払いつづけている。
(……) 彼女は貧しい家に生まれ教育も充分には受けられなかった。帳簿をつけることさえままならない。
それでも、「元気で働けるうちは頑張らんといけんと思うて」と、生活保護の話をしてもとりあわない。
生活は、息子や孫のためと掛けていた簡易保険のなかから借り入れして、一時金で埋め合わせることを繰り返しているそうだ。「もう借りるものがない」。
国保課の人が言うとった。法律で決まっとるからその所得だとそれだけ国保料を払わないといけない。減らすことはできてもどうしようもないって。法律は小泉とか竹中がつくった。私みたいな年寄りのことを何にもわからないんだ。若い人はこういうことがわからないから小泉のほかにいないからと投票する。小泉が勝てばどんどん圧迫がくる。圧迫が来ないように娘や息子に自民党に入れないように話すんだけど、旦那さんが大手大企業に勤めている娘は『おかあさん、またそんなこと言って』と、とりあってくれないんよ。私たちのような弱い者のことは自民党は相全然相手にしないのに」。
(……) 小泉の構造改革は、何人の彼女のような弱い者の生活を踏みにじってきたのだろう。これからの大増税で何人の命をうばうのだろう。 イラクの空の下、逃げ惑う子供たちに銃弾の雨を降らせるためのお金はあって、国に「お金がない」という。
彼らの暴走をどうすべきか。
今私にできることは、どうかいまの与党を勝たせないで欲しいとここに書き込んでお願いするしかない。
もう、投票日は数時間後にせまっている。

 目の前にある自分の親の痛みに対してさえ「おかあちゃんの努力がたりないからじゃない」「おかあさん、またそんなこと言って」と言ってしまうほど現実が見えなくなっているこの事例に悲痛な思いがしますが、この息子や娘さんを*6高みから道徳的に非難したりしてはならないと思います。息子さんだって、痛みを感じているはずなのです。しかし、それが見えない、隠されている、というのが、「私たち」の状況なのではないでしょうか。

「まじめにふまじめ」から「ふまじめにまじめ」へ

 「結局お前は、切迫感が足りない「衆愚」を高みから嘆き、無責任に闘争をけしかけるブサヨではないか」と言われてしまうかもしれません。たしかにそうならないように気を付けなければならない。サルトルが言うように「くそまじめの精神」は回避しなければならない。「気楽さ」は重要なことです。「気楽でありうる」「平和ボケでありうる」世の中を否定してはならない。
 しかし、まじめさから何処までも逃避し逃走し続ける、というのは、ある意味で別種の「くそまじめ」である、とも言えるのではないでしょうか。「たまにはまじめもやってみるか」と気楽にまじめを実践する柔軟さもまた、あるときは必要なのではないか。もちろん、まじめさの弊害が見えたときは、ただちにふまじめに撤退する「勇気」を保ちつつ。

*1:人のことはいえず、私も今回はじめてとりあげたわけですが

*2:会見などでの発言がマスコミによっていかに恣意的に要約されるかを実際に目の当たりにした体験があるので、それ以来この手の記事は鵜呑みにしないように心がけています。

*3:id:swan_slab:20041208:p1

*4:この後結構長く書いたのに消えてしまったorz 頑張って書き直す……

*5:これはもちろん私もそうで、自戒をこめて言っているのですが。

*6:そもそも間接的にブログ上で読んだ話でしかない、というのもありますが