冒涜されているのは人々である

 id:x0000000000さんのところで強制召還の呪文が唱えられたので、おずおずと出てきました。かなり弱キャラですのですぐやられるかもしれませんがご容赦ください。

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 http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20060217/p1およびコメント欄で、被差別者を「代弁」することをめぐる問題が論じられている。この問題は、「他者」を「代弁=代理=表象representation」する可能性、というようなデリダ的話につながっていくだろう。だがまずさしあたりその手前で考えてみたい。
 それにしても、代弁というこの言葉、代弁、代弁、と繰り返していると変な気分になってくる。考えてみれば、語るということも一つの排泄行為である。
 ところで、ターバンを爆弾に変えた例の風刺画は、それ自体として見れば「便所の落書き」レベルのものであって、汚物のようなものである。だが、たとえそれが汚物だとしても、我々には汚物を排泄する自由がある。そういえば今日の日本では排泄の自由がすでに侵害され始めている。公共トイレ*1の壁に「戦争反対」、「反戦」、「スペクタクル社会」と書いただけで有罪となる時代である。尻の穴をふさぐことを許してしまえば次には口がふさがれてしまうかもしれない。
 さて、弁器に残った「痕跡」を「水に流す」こと、これこそが、まさに浣腸、ではなく寛容の精神である、という考え方もある。だが、水に流してはいけないもの、というのも世の中にはある。
 キューバグアンタナモにある米軍基地には、アフガニスタンなどで「テロリスト」の容疑で逮捕した500人もの人々が収容されている。ブッシュ政権はこの収容者たちを、戦争捕虜ではなく「敵性戦闘員」だと強弁し、国際法に基づく被収容者の権利を無視し、裁判を受けさせることもないまま極めて非人道的な状況で収容しつづけている。収容施設内での拷問や虐待が繰り返し報告されている。2005年5月、米『ニューズウィーク』誌が、グアンタナモ基地で、取り調べ官がコーラン(正確にはクルアーン)をトイレに流す行為があった、と報じた。これに対しアフガニスタンパキスタンなどでイスラム教徒たちの激しい抗議行動が起こった。『ニューズウィーク』誌は後にこの記事を撤回してしまうのだが、トイレに流した事実を否定する国防総省自体が、以下のような事実を認めている。

 調査結果によると、3月、警備兵が屋外で小便をし、通気口から監房に小便が入り込み収容者と収容者の持つコーランにかかった。2003年7月には、取調官がコーランを蹴(け)飛ばし、踏みつけた。当該の警備兵や取調官は処分を受けたという。同年8月には、複数の警備兵が夜勤中、水の入った風船を独房棟に投げ入れ、コーランがぬれた例もあった。このほか、収容者か基地関係者どちらによる行為か定かではないものの、コーランの表紙の裏に、英語でわいせつな文字が落書きされていた。

 決して水に流してはいけない言葉を水に流した、というこの事件そのものを決して水に流すことができないと考えるムスリムも多いだろう。今回の風刺画問題も、こうした事件との連続性において考えなくてはならないと思う。
 ただし、私はイスラム教徒ではないので、クルアーンがトイレに流されて許せないと思う気持ちそのものは、わからない。また、天皇を畏敬する気持ちもまったく持ち合わせていないので、天皇の写真がトイレに流されても別になんとも思わないし、「不敬罪」の復活には断固反対である。だが言うまでもなく、グアンタナモで冒涜されているのはクルアーンだけではない。クルアーンにかかった小便は、収容者にもかかっているのである。また「長時間立ちっぱなしにさせる、30日間だれとも接触させない、裸にする、イスラム教徒には屈辱的な顔のひげを剃る」「犬嫌いの容疑者に犬をけしかける」*2などの行為によって冒涜されているのは、収容者である。クルアーン冒涜に対する抗議デモを行ったイスラム教徒たちの怒りは、クルアーンに対する冒涜への怒りであると同時に、イスラム教徒の冒涜、人々の冒涜への怒りでもあったはずである。
 2001年3月、タリバンが、バーミアンの大便を流した。いや、大仏を破壊した。このとき、涜神ならぬ涜仏の自由を過激な形で行使したともいえる*3彼らの行為は非イスラム教徒*4に激しく非難された。だが、「(単純計算で)1 時間の間に少なくとも 12 人の人びとが戦争や飢餓で死に、さらに 60 人が他の国へ難民となって出ていっている」という、アフガニスタンで延々と続いてきた人々への冒涜は、まったく注目されることはなかった。それに対し、イランの映画監督モフセン・マフマルバフは「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない、恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」と言い、大仏は「アフガニスタンの虐げられた人びとに対し世界がここまで無関心であることを恥じ、自らの偉大さなど何の足しにもならないと知って砕けたのだ」と言った。
 私たちは、グアンタナモアフガニスタンで人々に振るわれる暴力を、日本やフランスから非難することもできる。しかし、問題はそうした直接的な暴力であるというよりも、むしろ構造的な暴力なのであって、暴力の構造、人々を冒涜する構造の中に生きているという点では、私たち自身が、暴力に貫かれているのである。少なくともそのことに思いをはせ、そのことについて語りたいと思う。のざりんさんの言う

被差別者をそんなふうに捨て置く社会が現に存在すること、そしてそのような被差別者が存在することを、具体的に指し示していくことではないか。被差別者を「代弁する」のではなく、被差別者の存在と、被差別者を再生産する社会の仕組みをあらわにしていく、そのことが重要なのではないのか。そしてそれこそが「サバルタンは語ることができない」ということなのだと僕は理解している。被差別者は「語ることができる」。この社会が、そしてあなたが、私が、語らそうとはしていないだけなのである。

 も、そういうことではないかと思う。
 まだ続きがあるのですがサルトルにたどり着く前に疲れてしまったのでとりあえずアップします(つづく)。

*1:関係ないけど、フランスに行ったとき、公衆トイレの少なさには本当に閉口した。

*2:http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200506130235161

*3:実際はもちろん、反宗教的行動ではなく、偶像崇拝を否定するイスラムの考えが前提にある、宗教的ないし政治的行動だったのだろう。ただしブッダ自身も偶像崇拝を否定しているので、そもそも大仏自体がブッダの意に反していると言っている人もいるhttp://hotwired.goo.ne.jp/ecowire/hoshikawa/020213/textonly.html

*4:だけではなく多くのイスラム教徒も非難した。