愛国心とデモ

 トラバを送ってくれたmdenkaさんによる、「愛国心の喪失がデモを衰退させたのではないか」というウルトラな解釈*1を読ませていただきました。いやあ、これは面白いですけど、どうなんでしょうか。60年安保のデモは、あるいは「愛国」的な側面があったといえるのか?*2かもしれない。ただ、公共性、共同性の指向の衰退(すなわちサルトル的に言えば集列化)がデモを衰退させた、というのはそのとおりだと思うのですが、公共性の指向と、現在の日本での「愛国心」とのあいだには大きな隔たりがあると思います。私は「国」とは、いわば共同体の残骸のようなものであり、むしろ共同性(集団)と対立する「システム」だと思います。そして私の考えるデモは、むしろ「国」と対立する「人間の結びつき」を指向するものであって*3、デモの衰退は、むしろ人々が「国民」に同化したことの結果であり、しかもそれは集列化と対応しているのではないかと思います。表面的には「愛国心」が喪失したように見え、そう言う意味で危機感を持っているいわゆる「右」の方々は多いとは思いますが。
 ただし、「愛国心」が常に否定されるべきものといいたいわけではありません(ちなみに、サルトルは「人種差別に対抗する人種差別」を肯定していたので、「国家主義に対抗する国家主義」ならば肯定するかもしれない、という気もしています)。しかし、少なくとも現在の日本では、「愛国心」は、人々をシステムに同化させ、人間の具体的なつながりを破壊するものでしかあり得ないのではないかと私は思います。

*1:http://sports.2log.net/mdenka/archives/blog786.html

*2:あわてて書いたので、反語のように読める表現になってしまったので訂正。側面があるのではないか、といいたかった。

*3:日の丸を振るために人々が集まる一般参賀などは「愛国的デモ」と言ってもいいように思いますが、こちらは、あまり衰退していないように思います。