デモなんか行かない方がいい。むしろジョギングを。

 デモについての記事をいくら書いても何かもやもやしたものが残るのは、やはり、デモ否定派を批判するとどうしてもデモ擁護派のような書き方になってしまうからである、と気づいた。というわけで、メーデーの今日、反デモ宣言を行うことにします。

デモに行かないという「負い目」

 kmizusawaさんの文章を再び引用する。

勉強が好きな人やその案件に問題意識や興味を持ってる人にとってはなんでもない、もしくは必要だと感じられる知識の収集や興味の持続や「考える」ことが、「わかりたくない」人にとっては「もうたくさん」なことなのではないだろうか。すべての人がそういうことに興味を持てるだけの知識や情報や教養やモチベーションやキャパシティを得られるわけでも、学習のための時間や機会や気持ちの余裕を得られるわけでもない。興味の向きとか立ち位置とかもぜんぜん違う。共謀罪教育基本法の「改正」は大変なことだが、それよりもバイトのシフトに穴を空けないほうがとりあえず緊急的な大問題だという人もいるだろうし、とにかく疲れて休日はひたすら寝ていたいという人だっている。デモに行かない=政治意識がない、という捉え方があるようだが、政治意識を持つヒマもない体力もない人も大勢いるんじゃなかろうか。

 これについて、前回は、「勉強しないと政治に興味をもてないというのはおかしい」と書いた。しかし、それはそうなんだけど、そういう言い方はちょっとずれていたのではないか、といまさらながらに気がついた。
 つまり、「勉強しなくてはデモにいけないのではないか」という「気後れ」のようなものによってデモから足を遠のかせている人が多い、ということである。政治について語るためには、もっと勉強しなくてはいけないのではないか、そして私には勉強する力も時間も足りない、という自己嫌悪、負い目のようなもの。kmizusawaさんがとてもリアルに描いてくれたのは、そういうことだったのではないかと思う*1
 またそれは、ここhttp://d.hatena.ne.jp/sarutora/20050219/p1で引用した、『となり町戦争』の三崎亜記氏の発言にも通じるだろう。

「私は、戦争反対と発言したりするほど戦争について考えているわけじゃない。そんな負い目のようなものを常に持っています。戦争について本気で考えるということは、自分を追い込むことでもあるから。それを常に先延ばししていたい自分がいる。でもそれはただ植え付けられただけの『戦争は悪』という感覚で『戦争反対』と大声をあげている人への私なり意思表示でもあるんです。今自分が立っている位置を振り返ることのない『反戦』は、新しい形の戦争に簡単に取り込まれてしまうのではないかと思うから……」(『ダ・ヴィンチ』March2005,43頁)

 「自分は戦争反対と発言する資格がないのではないか」という「負い目」……。このような「負い目」を感じさせるようなものとは何か。戦争は人を苦しめ、さらには戦争に反対できないことも人を苦しめるというのか。それを考えると、暗澹たる気分になる。
 「仕事」や「生活」の中で日々プレッシャーを感じている。この生活が何かおかしい、と思っている。にもかかわらず、声をあげる勇気も、デモに行く勇気もない。立派な政治意識をもつための「勉強」すら出来ない。
 つまり、「デモに行かないこと」がプレッシャーになっているのである。その人にとって「デモ」がそのようなものであるとするならば、「デモに行こう」という呼びかけはその人をより追いつめることになるだろう。
 だから、デモなんて行かない方がいいのである。そして、ジョギングに行くべきである。

ジョギングとマラソン

http://d.hatena.ne.jp/spongey/20060305

思い出すのは小学校5年のとき。、、あ、、なんか最近わたし思い出話ばっかりしてる、、もしや死期が近いんかし?心配だわ、もうすぐ不安な旅も待ってるし、、、。ま、とにかく、小5のとき「ジョギング」という言葉を知ったわたしと友だちは、さっそくある日曜の朝ジョギングに出かけた。「ジョギング」をするなんて、なんだかガイジンっぽくて進んでる気がしてしまったのである(小1から毎日毎日学校でマラソンさせられてるのに、なぜか学校のマラソンと「ジョギング」はつながらなかったのです。)

朝7時に集合していざ出発。学校のマラソンとは違い、足取りも軽ろやかでさすがに気持ちがいい。3分くらい楽しくジョギングしていると、わたしたちは小川の流れる公園を通りかかった。ここは町のなかでグッピーが最もたくさん暮らしている小川だった。このとき7時3分くらい。、、、通りかかったのだから、少しはグッピーを取って遊ばなければならない、これはもう常識であろう。ちなみにキャッチ&リリースが基本。そのへんに転がってるアイスのカップなどを拾ってそれで捕まえるのだ。で、わたしたちは「じゃ、このビンに20匹くらい取ろうか」ってことになって、、、すぐに「100匹にしようか」となり、、、、、あーでもないこーでもないと、、、

結局そのまま夕方の5時までグッピーを取ってしまったのでした。

家に帰ったときは、呆れ怒られましたよ。確かに朝7時に「ジョギングしてくる!」と言って出かけたきり戻って来ないのでは心配します。しかもどこへ行ったかと思えば、家から歩いて5分程度の場所でグッピーを取っていたなんて、正気の沙汰とは思えません。

 これを読んで(何度読んでも最高に可笑しいが)、私も、小学校のとき朝校庭でマラソンをさせられていたのを思い出した。健康のため、ということだった。音楽(なぜかフニクリ・フニクラだった)に合わせて、狭い校庭を、生徒たちが一斉に、ぐるぐる、ひたすら走るのである。今思えば、水槽の中のグッピーのようだった。spongeyさんは、この「学校のマラソン」と「ジョギング」との違いに触れている。それらはどちらも、「走る」という同じ行為であるように思えるが、根本的に違ったものである。重要なことは、「ジョギング」とは、「ジョギングを3分でやめること」である、ということだ。そして、jogとjobの違いにも注目しなければならない(jogはむしろjoyだろう)。言うまでもなく、spongeyさんたちの7to5の「グッピーとり」(10時間「労働」!)は、資本主義的「労働」と根本的に異なったものである。
 ところで、マラソンとは何か。マラソンを走ったのは、国家と戦争のために自らを犠牲にした兵士である。「自軍の勝利を伝える」という伝令としての「分を守る」ために、彼は走り抜き、そして命を落とす*2。彼の走りは、徹底的に自分のためではない。

分を守らないこと

 『IMPACTION』151(2006年4月)における、白石嘉治・杉田俊介・海妻径子氏の対談「ネオリベプレカリアート」で、白石嘉治氏は「現場主義」の蔓延と「分をわきまえろ」ということについてこう語っている。

いずれにせよ、ネオリベ的なイディオムとケアワークがリンクしつつ劣悪な労働条件が正当化されている。そこで浮かび上がってくるのは、やっぱり「現場」ということで言われるような問題です。なにより現場が大切で、現場から考えろ、と。現場なるものをある種絶対的な所与としてとらえる。そういう現場主義は、煎じ詰めればそれぞれの分を守れということにしかならない。現実はこうなんだからということで、安い労働の現場でも、あるいは管理職の現場でも、あらゆる意味で分を守るという至上命令が貫徹される。現場の名のもとで、不当な労働条件が受容されたり、あるいは「リストラ」の「決断」が意味づけられたりする。
 こういう現場主義の蔓延によって、ネオリベ的な統治が可能となっているのではないか。というのも、政治の契機は、分を守らないときに生じてくるものだからです。非常勤講師の分を守らずに、もっと給料よこせとかいうときに政治が生まれる。(……)逆に言えば、「分」や「現場」を自明視しているかぎり、政治や抵抗のポイントを見失うことになる。その結果、追い立てられつつ閉塞した感じになっているのじゃないかと思います。(p.56.)

 kmizusawaさんが描いた、「バイトのシフトに穴を空けないほうがとりあえず緊急的な大問題だという人」は、まさに、現場主義によって追い立てられ、閉塞した感じをもっているプレカリアート(不安定階層)*3の現状を、残酷にもリアルに描き出しているといえよう。
 とすると、問題は、「分をわきまえろ」という声に抵抗すること。もっと端的に、「分を守らないこと」なのである。
 少し前、「抵抗としての怠惰」について書き(http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20060410/p1)「植民地原住民の怠惰とは、植民地機構に対する意識的サボタージュだ。それは、生物学的にみればみごとな自己防衛の一方式であり、また所詮は、国全体に及ぶ占領者の支配に、一定の遅延をもたらすものなのだ。」というファノンの言葉を紹介した。
 だが、「抵抗」という言葉はまだサヨク的でよくないかもしれない。考えてみれば、怠惰としての「抵抗」とは、「イエスでもノーでもない」ということだ。イエスでもノーでもないとは、「『イエス』にイエス」か、「『ノー』にイエスか」という対立そのものから降りている、ということである。それは、色川大吉が回想する戦時下の厭戦的庶民、「消極分子」による「抵抗」に通じる。どんなにお上が敵性英語の使用禁止を指示しても、「ストライク」を「よし一本」と言わないこと。「オーライ」を「発車」といわないこと。ちょっとこじつけめいているかもしれないが、戦時下で「発車オーライ」といい続けた木炭自動車の運転手の抵抗は、サウンドデモで、警察の恫喝にもかかわらずノロノロ運転した運転手の抵抗に通じるかもしれない。

徒歩三十分で終わっちゃうようなコースを二時間以上かけてノロノロ運転していて、僕はすごく感銘して、主催者の人に「あの運転手、肝が座っているね」って言ったら、「彼は生まれてこのかた怒鳴られてばっかりだから、気にならないんだ」って(笑)。彼は活動家でもなんでもないし、デモを成功させようなんて全く考えていない。そういう手段としての政治的デモンストレーションとは別の次元で、彼の存在が生政治的にノロノロ運転している。(矢部史郎(『ネオリベ現代生活批判序説』p.144からの孫引き))

 それはまた、ここhttp://d.hatena.ne.jp/sarutora/20050108/p1で紹介した酒井隆史『暴力の哲学』にある、かつての日本でみられた「コーラスガールがピッチを半音あげたり、電話の交換手が電話の相手に『スト中』ですと朗らかに伝えながらも、いつもどおりの仕事をしたりするスト」の「戦術」、「みずからの力を最大限にまで発揮させて対抗する柔術のようなもの」に通じるだろう。
 つまり「分を守らないこと」といっても、それはいきなり「バイトのシフトに穴をあけろ」という意味ではないのだ。しかし、たとえばわれわれは、シフトに穴をあけるなんて「そんなことどうせできない」と「現実」によって思いこまされている。そうした思考から少しでも外に出て、できないと思い込まされていた「楽しいこと」を少しずつでもやること、それが「ジョギング」なのである。

分からの離脱と公共性

 「分を守ること」とは、集列化した個人が、「孤立化」「分子化」を内面化したことによって生まれる道徳にほかならない。だとすると、「分を守らないこと」とは、「分」の外に出ることであり、「孤立化」から離脱することである。つまり、自「分」(アイデンティティー)や身「分」(カテゴリー)の外に出ることは、まさに「公共的」な振る舞いなのであり、それが「政治」なのである。
 ところで、『情況』の論文で書いたのだが*4サルトルにしたがえば、「選挙」は「政治」でもないし「行為」でもない。サルトルによると、選挙で投票することとは、「われわれを集列的無力状態に維持する政治制度に投票すること[SX81/77]」であり「制度化した自分の無力さを肯定すること[SX83/79]」である(選挙のそうした性質を象徴しているのが、人々を孤立化させる「隔離投票所」だ、とサルトルは言う)。そうした意味で、サルトルによると、「選挙にいかないこと」「棄権すること」こそがむしろ「政治的行為」だ、ということになる。
 そして、今日の日本においては、「デモ」はもはや「政治的」ではない、と言えるだろう。「デモぐらい行かねばならない」「市民なら政治に関心をもたなければならない」「ノーと言わなければならない」……そのようなプレッシャーを与えるものであるならば、「デモに行こう」という呼びかけは、限りなく「分を守れ」という声に近づいていく。
 だがもし「デモ」が「政治」でありうるとすれば、それは「分を守らないこと」としてのデモでしかないだろう。つまり、ジョギングとしてのデモである。同じ「歩く」という行為であるとしても、デモに行ってマラソンをさせられるならば、デモなんかいかない方がいい。
 しかし、デモがマラソンならば、デモをジョギングにしてしまえばいいのかもしれない。ジョギングはどこに行ってもいいならば、デモ会場に、ジョギングしにいけばいいのかもしれない。

追記

トラバを送っていただいていたid:Arisanの記事http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20060430/p1 を、あえて読まずに上の記事を書き、アップしたあとで先ほどはじめて読ませていただいたのですが、正解でした(笑) 先に読んでいたら書けなかった(あるいはもっと時間がかかっていた)と思います。しかし、いろいろとさらに考えさせられました。なんとか考え続けようと思います。

*1:それは、「エリート」としての左派に対するコンプレックスともつながるだろう。この問題に関しては、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060430/1146374995 も関係していると思う。

*2:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%82%BD%E3%83%B3

*3:プレカリアートとは誰のことか。簡単にいえば、市場中心主義のグローバル化のなかで、職業的にもまた生活の面でも「不安定(プレカリティ)」状態におかれている人々、特に若い世代のことだ。コンビニやファーストフードで働くチェーンワーカーや、大学(院)を出ても職がないまま非常勤や非正規のブレインワーカーなどは、その典型例だろう。日本で「ニート」や「フリーター」と呼ばれている若い世代もまた、このプレカリアート予備軍(可能性としてのプレカリアート)と考えることができる(…)」伊藤公雄(『IMPACTION』2006年4月p.9.)

*4:「正当性を虐殺する公共性」『情況』(2006年1・2月号)http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20060120/p2