あらかじめ去勢された聖なる珍呼

 ところで、wikipediaの暴走族の「珍呼運動」の項目。

暴走族という呼称を「かっこいい」と考える人々を幼稚だとして揶揄する事や、迫力のない名称によって参加者やギャラリー(見物人)を減らす事を目的として、珍走団と呼ぼうという運動が行われている。これらでは、幼児語のおちんちんを連想させる(ともすれば卑猥な)関連語も提唱され、暴走族のイメージダウンを目指している。

 このことはすでに知っていたのだが、改めて、こうしたセンスが私はどうもひっかかるな、と気づいた。まあこれは「ネタ化」とかそういうものにも通じているわけだけど。なぜだろう。うまく説明できないのだが。
 考えてみればこれは、それまでかっこ悪いものとされていた、たとえば「クイア」という言葉を「かっこいい」ものとしてとらえなおそうというのと逆の戦略ともいえる*1 *2。ただ、それが、(たとえば天皇とか政府とかいった)「中心」的なものにではなく、暴走族のような「周辺」的なものに向かっている、というところが、好きになれない理由の一つかもしれない。といっても、私は暴走族のセンスが好きだというわけでもないのだが、「珍呼運動」のセンスはなんだかそれ以上にいやなかんじがする。
 ある人に「カッコいい」と思われているものについて「本当はカッコ悪いんだよ。プ」とか嗤ってみせる、というのは、言ってみれば脱聖化ということだろう。つまり「王様は裸だ」というやつだ。そうした権威の脱聖化は、それ自体が「カッコいい」と思われているフシがある。「カッコいいとされているものをカッコ悪いと指摘することがカッコいい」というわけだ。ただ、珍呼運動とかネタ化とかにおいて脱聖化されるのは、「王様」ではなくて、暴走族とか、そういう周辺的なものだというのが気になる、とさっき書いた。
 しかし、では王様というか中心的なものが聖化されているかといえば別にそういうわけでもない。暴走族やプロ市民もネタ化されるが小泉だって天皇だってネタ化されている。
 というか、あらかじめすべてが脱聖化されていてしまっているわけだが、その不安を祓うため、つまり聖なるものの非存在を確認するために、脅迫的に脱聖化の儀式を繰り返しているようにも見える。脱聖化そのものが聖なる行動なのかもしれない。「ネタ化」というのは、「祭り上げる」のではなく「祭り下げる」という「祭り」なのかもしれない。と、かなり適当なことを書いて恥をさらしつつあるので、このへんでやめとく。

*1:このたとえはが適切なのかどうかは自信がないのだが。

*2:ていうか、昨日の文科省>SEX省て、まさにそういうやつかもしれないわけだが。