江戸のニート 1

 昨年惜しくも亡くなった杉浦日向子氏は、前回紹介したインリン氏、雨宮処凛氏と同様、若いころフリーター生活をしていたことがあるそうだ。もっとも、杉浦氏(1958年生まれ)がフリーターをしていたのは1980年代後半で、インリン氏や雨宮氏がフリーターをしていた時代とはだいぶ違う。それにしても、杉浦氏のフリーター生活についての見方は、後の二人とは対照的である。『一日江戸人』(1998)の冒頭箇所で彼女はこう書いている
 のっけから私事で恐縮ですが、一九歳の夏から三年余り、私はアルバイターでした。短期のバイトを転々とし、ぶらぶらしていました。二週間働いて三週間ぶらぶらする。あるいは、一か月働いて二か月ぶらぶらする、という具合で、居候でもあり、月四万円もあれば、なんとか生活できたのです。その時、つくづく、多くを望まなけりゃ、けっこう呑気に暮らせるもんだなぁと実感し、べつだん、一生アルバイターでもかまわないなぁと思いました。(『一日江戸人』新潮文庫p.13.)
 杉浦氏は、そうした自分の「呑気さ」が、江戸人ゆずりのものだったのではないか、と言っている。彼女は、「惚れっぽく飽きっぽい江戸ッ子は「この道一筋」が苦手なようで、定職など持たずにブラブラとその日暮らしをしていました。都市の遊牧民、フリー・アルバイターの元祖、ここにあり!?(同書p.20.)」と書いている。彼女によると、「江戸ッ子」の働きぶりは次のようなものだったらしい。

 とにかく、江戸ッ子といえば怠け者の代名詞のように働きたがりません。もっとも、諸物価が安かったので、月のうち半分も働けば、十分女房子供を養えます。
 身ひとつあれば、いつでもバイトができました。女房が「お前さん、お米が一粒もないよ」と言えば、外へ出て「米つこうか、薪割ろか、風呂焚こうか」と言いながら歩けば、どこかの家からお呼びがかかります。
 また、坂の下へ立っていれば、日に何度か重い荷車が通りますから、その後押しを手伝う。これもバイトです。女房が「扇の地紙売りがカッコ良いねぇ」と言えばさっそく始めたりします。街を歩いている物売りの中でやってみたいものがあれば、その人に聞くと親方の所へ連れて行ってくれます。そこで商売道具を一式借りて、その日から商いに出ることができます。途中すれ違った物売りの荷が軽そうだと言っては乗り換え、売り声の節回しが気に入ったと言っては転職しました。(同書p21-3.)

 江戸の長屋生活についてはこう書かれている。

 長屋では、親子三人が一か月一両あればひもじい思いをしないで暮らせました。棒手振りと呼ばれる零細商人でも一日四、五百文の稼ぎがありました。一両を六千文として、約十〜十五日間働けばひと月分の生活費がまかなえることになります。(……)このように、〔一か月一両=約八万円で〕一食三杯、おかずに特大切身を添え、毎日銭湯へ入り、週に一度は床屋へ行き、少々の寝酒だって飲める、という生活ができました。親子三人でコウですから、独身者なら、月に六、七日も働けばよいのですが、実際は長屋の中で空きっ腹を抱えてゴロゴロしているナマケ者が多かったようです。(同書p.75.)

 定職に就かず、短期のアルバイトなどを繰り返すフリーターや、働きたがらないニートの増加に「日本社会の崩壊、歪み」「モラルの低下」を見るhttp://www.ozawa-ichiro.jp/massmedia/contents/fuji/2005/fuji20050419134025.html政治家もいるが、「労働から逃走する」若者はどうやら江戸時代からいたようである(ちなみに同書はパオロ・マッツァリーノ反社会学講座』でも言及されている)。これは、タイムマシンに乗って説教しに行かねばならないだろう。タイムマシンに乗って怠け者ののび太君の尻を叩きにいったセワシ君のように。
 ただし、このような怠け者体質だったのは、江戸の人口の一割以下だった地元民としての「江戸っ子」で、それ以外の、武士や地方出身者はそうでもなかったようである。毎年江戸で一旗上げようと流入してくる地方人、役職をめぐる功名争いに余念がない武士たちは、けっこう「出世欲でギラギラ」していたという(『一日江戸人』p.21)