『傷つくのがこわい』その2

その1http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20060625/p3 からのつづき

【夢を持てない社会】
 仕事はつらいのが当たりまえ。つらくとも、自分が一人前に成長するという希望をもって、仕事の成果に喜びを感じて、つらさを乗り越えてきた。優れた先輩を目標に見て、先輩のようになれることを夢見てがんばってきた。
 若者の傷つきやすさを嘆く大人は、自分たちはこのようにやってきた、と言うでしょう。そのときに支えとなったのは、将来のイメージとしての希望であり、夢であり、仕事を通しての充実感や喜びでした。
 ところが、現在は、仕事で夢や希望を得ることに大きな困難があります。仕事のきつさは、喜びよりも大変さを感じさせてしまいます。目標にしてきた先輩も出向を命じられ、自分の将来を見るようです。
 このように仕事に夢や希望を見いだしにくい社会であることから、現在の青年は刹那的な歓びや、自閉的な楽しみに夢や希望を持とうとする傾向があります。
 しかし、そうした夢や希望は、外からの評価としての支えが与えられるものではありません。自己満足や自分の中の確信だけがよりどころとなります。このために、こうした夢や希望は揺らぎやすく、徹底的に努力と時間を傾注して悔いのないものとして位置づけることが困難です。
 さらに、自己価値観の希薄な人は、そもそも自分を導く現実的で明確な夢や希望を持てません。少なくない青年は、努力して悔いのない対象としての夢や希望、そのものを見いだせないでいます。
 こうした状態のなかで、仕事の上で彼らに残るのは人間関係だけになります。だから、彼らの関心は、仕事においてさえも人間関係が中心になりがちです。人から受ける忠告、批判、注意、叱責は、その内容を受け止めるのではなく、非好意の表現として受け止められがちです。(p.113-4)

 ここでの主張は、山田昌弘氏の『希望格差社会』とよく似ているように思えます。で、ここを手がかりにちょっと色々考えてみました。
 著者は、「仕事に夢や希望を見いだしにくい社会」の中で、現在の青年は「刹那的な歓びや自閉的な楽しみに」夢や希望を持とうとする傾向がある、と言います。
 つまり、ここでは、二つの「夢・希望」が対比されているのです。すなわち、一つは、「仕事」における「夢」であり、もう一つは、仕事以外の「刹那的な歓びや自閉的な楽しみ」(それは「趣味」から「買い物依存症」のようなものまで含まれるのでしょう)における「夢」です。そして、著者は、前者を肯定的に、後者を否定的にとらえているようです。これは、仕事における夢を失って「アディクション」にひたる若者を問題視する山田氏とまったく同じです。
 根本氏が、仕事に関する夢を「からの評価としての支え」をもっている、といい、そうでないものを「自閉的な夢」「自己満足や自分の中の確信だけがよりどころ」となる夢だ、といっていることは、注目に値します。これは、最近聞かれる、自己評価を肥大させている若者の「オレ様化」の批判、などと通じるでしょう。さらに根本氏は、そうした自閉的な夢は「揺らぎやすい」と言っています。つまり、こうした主張の根底には、自己の存在を「支える」ためには「外」つまり「他者」からの評価、つまり「承認」が必要だ、という考え方があるわけです。そして、システムの外の「自閉的な」場所での「自己評価」は、揺らぎやすいから結局は崩壊する、というわけです。
 ところが、一方で根本氏は、現在の若者を「自己価値観の希薄な人」と言っています。著者は他の箇所でも、「自己価値観」の欠如が若者の「傷つきやすさ」の根底にある、と何度も主張しています。しかも著者は、自己価値観が欠如した人間にとっては、結局「他者評価」が絶対的なものになってしまう、と言うのです。すなわち、仕事において「人間関係」だけが中心になってしまう、と。
 つまり、ここには一見すると矛盾があります。一方では自閉的自己評価を批判し、他者評価の必要性を説きながら、他方では自己価値観が重要だと言って、他者評価が中心となることを問題視しています。「健全な」自己価値観は、「健全な」他者評価を通過して初めて生まれるのだ、と言う風にいえば、この矛盾は止揚されるようにも見えます。しかし、そうでしょうか。むしろこれは、「自己価値観」がもつ根本的な矛盾を示しているのではないでしょうか。つまり自己価値観とは、他者評価を通過しなければあり得ないのであり、だからこそそれは根本的に「揺らぎやすい」ものなのです。なぜなら、「外」、つまり、他者評価の場とは、結局、お互いを自分の「支え」としようとする「闘争」の場だからです。