1976年に公開*1(撮影は1972年)のサルトルのドキュメンタリー映画『sartre par lui-meme』は、youtubeで英語字幕版が一部見られます。
で、↓こちらが、字幕inで日本語字幕がつけられたバージョンです。
http://jimaku.in/w/85vEXo7Wntk/YTLWbjxC_be
この日本語字幕は、1977年に人文書院から発行された、シナリオの翻訳『サルトル──自身を語る』(海老坂武訳)を参照してるみたいですよ。
- 作者: 海老坂武
- 出版社/メーカー: 人文書院
- 発売日: 1977/09
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ブルジョワジーは常に──もっともな話ですが──知識人に不信を抱きつづけてきました。けれどもその不信は、じつのところ、自分の胎内から出た奇妙な存在に対する不信のようなものです。じっさい大多数の知識人はブルジョワの生まれであり、ブルジョワによってブルジョワ文化をたたき込まれています。知識人はこの文化の守り手であり、かつその伝達者として姿を現しています。事実一定数の実践的知識の技術者たちは、遅かれ早かれ、ニザンが言ったように、ブルジョワの番犬になっていきました。他の者たちは自分が選抜されたところから、たとえ革命思想を口にしようとも依然としてエリート主義でありつづけます。この連中は、異議申し立てをしても放っておかれます。彼らの語るのはブルジョワの言語だからです。だが少しずつ人びとは彼らの向きを変えさせ、やがて時期が来れば、アカデミー・フランセーズの椅子とか、ノーベル賞とか、あるいは何か他の餌で、十分に彼らをブルジョワ側に回収することができるのです。
しかしながら、1968年以後、もはやブルジョワジーとは対話すまいと考えている知識人もおり、わたしもその一人です(……)
この後、ちょっと言い訳くさいくだりが来るのですが、それはともかく、上のサルトルの発言、たとえばネグリ来日中止をめぐるいろいろなことなどを考えると、なかなか感慨深いものがあります。
で、上で「ブルジョワの言語」といっていますが、映画では省略された部分でサルトルはこれについて詳しく述べていますので、ちょっと紹介します。
簡単に言えば、サルトルは、「ブルジョワの言語」で語るものは、ブルジョワ的に思考するようになる、と言うのです。たとえプロレタリアート出身であってもです。
ブルジョワジーは、資格のある編集者たちが大衆について語ったり、あるいはぎりぎりのところ大衆のために語ったりすることは許容します。だがそれら編集者たちはブルジョワ的な言い方で、ブルジョワジーに受け入れられている型の論理で、大衆を語らねばならない。「リュマニテ〔注:フランス共産党の機関紙(現在は党から独立している)〕もこの規則の例外ではないのです。左翼のいくつかの新聞では、編集者が民衆の出です。だがまさしく彼らは民衆から出てしまったのです。なるほど異議申し立てもありえましょうが、その調子は穏健であり、そのことからして、新聞界の異議申し立て人はブルジョワに回収された人たちなのです。(……)彼らは自分が語っている人々の倦怠、怒り、欲求を、自分の肉体で心底から感じることがまるでないのですから。あるいはもうそのように感じることがなくなってしまったのですから。*2
これに対して、マオ派のグループ「プロレタリア左派」のアラン・ジュスマールが創刊した「人民の大義」*3紙は、直接または間接的に(インタビュー形式によって)労働者自身によって書かれた記事が掲載されている。ここには、ブルジョワの言語はない、とサルトルは言うのです。
サルトルは、プロレタリア左派の「同伴者」として、次々に逮捕された「人民の大義」紙の編集長の代わりに、自ら編集長を引き受け、また街頭でこの新聞を配りました。映画の、講演の最後あたりにはさまれた映像がその場面です。
「人民の大義」には、労働者の、生の、野生の「言葉」がある、とサルトルは考えますが、それらは、ブルジョワを不快にさせ、恐れさせる言葉です。
「人民の大義」紙におていは、労働者が感じているままの形での欲求が表現されています。労働者たちは直接に彼らの怒りを伝えます。そればかりか抑圧された者としての彼らの憎悪、それもしばしば敗北や勝利によって激化された憎悪さえ表現するのです。この荒削りで、野生的で、激しい言葉は、ブルジョワたちの心を深く傷つけます。
それはたとえば、「人民の大義」に載っている、「碌でなしベルコよ、人民が貴様の命を頂戴するぞ」というようなデモの時のスローガン*4です。
サルトルはこの文体を、ややこしいことになることを避けて「事実は条件法で書かれ、結論は疑問形になっている」ような「ル・モンド」の記事と比べています。日本のブル新もまさに同じですね。
ベルコというのは、自動車会社シトロエンの会長らしい。原文は「Bercot, salaud, le peuple aura ta peau」です。この表現がフランス語でどのぐらい「乱暴」なのかわかりませんが、鈴木道彦さんの翻訳はやっぱりまだ上品ですね(笑)「折口ちょっとこい!」てのもありましたが、「クソ御手洗、ぶっ○すぞ!」て感じでしょうか。
この言葉においては「人民が人民に向かって語っている」のであり「ブルジョワ読者に向けられたものではない」とサルトルは言います。サルトルは、フランツ・ファノンの『地に呪われたる者』の序文で、「ヨーロッパがくたばろうと、生きながらえようと、彼〔ファノン〕にはどうでもいいことだ。(……)作者はしばしば君たち〔ヨーロッパ〕について語っているが、決して君たちに語りかけようとはしていないのだ。」という風に似たことを言っています。
「司法と国家」にもどると、サルトルはこう言います。
これは闘争のある時点での人民の言葉であり、ブルジョワジーの認めたくない言葉なのです。なぜなら、これはブルジョワの微妙な言いまわしを知らぬ言語であり、たえず民衆の道徳と司法〔正義〕の民衆的感覚とを主張しているからです。その司法は人民からくすねとられ、形を変えられてしまったものだったのですが。
ここで、「民衆の道徳と司法」と言われているのは、「野生の司法」とも言い換えられています。こちらhttp://www.geocities.co.jp/CollegeLife/6142/ronbun/gohosei.htmlでの説明を再録しておきます。
サルトルは「司法(正義)」とは本来本質的に国家の枠を越えるものであることを指摘する。「司法(正義)」という概念は、そもそも国家ではなく民衆を起源としている。国家は、民衆の内にある司法(正義)への傾向をとらえて後から「司法機関」を作り上げたが、そこでは民衆の司法への意志は官僚化され、そもそも「歪曲」されているのだ。サルトルは、法制化され恒常化された「国家に属する司法 la justice qui appartient a` l'E'tat」と、民衆の意志を根拠に持ち、ときどき姿をあらわす「野生の司法 la justice sauvage」(あるいは「人民の司法」)とを区別する。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/6142/ronbun/gohosei.html
さて、ブルジョワジーは、こうした「野生の司法=正義」、またそれと対応する「野生の言葉」の噴出を極端に恐れます。そしてそれを抑圧しようとします。
そして、民衆の側に立つことを自称するサヨクであっても、ブルジョワの言語を用いる限り、結局そうした抑圧に加担するのです。
サルトルは、『地に呪われたる者』の序文で、アルジェリア人によるフランス人襲撃事件の続発に際しての「左翼」の困惑について書いています。
左翼はこの〔アルジェリア人による〕反乱を責めようとはしない。だがそれにしても(と彼らは考える)、限界があるはずだ、あのゲリラどもは騎士道的な態度を示すように心がけるべきだろう、それこそ彼らが人間であることを証明する最善の方法ではないか。時としては、彼らをきびしく叱りつける。君たちのやり方はひどすぎる。われわれはもう支持できなくなるだろう。原住民にとってそんなことは糞くらえだ。左翼の支持だって?
最近の日本でいえば、「攻撃的な運動スタイルは人々の支持を失う」「戦略的によろしくない」「シュプレヒコールは嫌い」「デモといわずパレードと言いましょう」などなど、聞き飽きるほど聞きました。古くは、60年安保の全学連国会突入後に、新聞各社が「暴力を排し議会主義を守れ」という「共同宣言」を出したわけですが、これはまさにブルジョワ新聞の本質をあらわにしています。
そういえば、2004年のイラク人質事件の時、国会前のデモに言ったときのことなのですが、そのときのシュプレヒコールがもう珍妙なもので、あきれてしまいました。途中から、シュプレヒコールの音頭を、今井氏を良く知っているHIBAKUSHA監督の鎌仲氏がとりました。これが「いまいくぅ〜〜ん、はやく、かえってきてくださぁ〜〜い」「じえいたいのみなさぁ〜〜ん、かえってきて、くださぁ〜〜い」という感じだったのです*5。私含め、ですます調の語尾を勝手に「撤退しろ」とかに変えて唱和していた人も結構いました。で、警察が、首相官邸の方へ移動するのを妨害して、ちょっともめたのですが、ワールドピースナウの高田氏は、一応激しく抗議していました。ところが、そこでマイクを受け取った鎌仲氏、「あらそうのは、やめましょ〜〜 私たちは平和のためにここに来ているんです 警察とケンカをするためにきたんじゃないんです!」と。ワールドピースナウの高田氏は、昔ながらのサヨク出身のはずですが、「シュプレヒコールや、右手を挙げることに違和感がある人もいるでしょうが」などとしきりと言い訳をしていました。
ちょっと脱線しましたが、そう「言語」の問題ですね。
サルトルは「クソったれベルコ、人民がてめえをぶっ殺す*6」というスローガンについて、この言葉は
自分がよく知っている特殊な場合をもとにして、圧倒的多数の労働事故は、労働者の不注意によるのでもなければ、企業を越えた宿命のためでもなく、まさに殺人にほかならぬことを説明している
のだ、と言います。
こう叫んだ労働者が目撃したのは、ただ「一つ」の事故かもしれない。すると、ブルジョワ的「分析的理性」はこう言うのです。「これは単なる「一例」にすぎない。もっと他の「同じ」ケースについて集めて、統計的に分析しなければ」とかなんとか。こうして彼らは、労働者の経験を自己同一的な「1」に還元するのです。しかし、労働者は、単独の経験から本質を直観し、それを言葉にしているのです。*7。
たとえば「過労死」という日本の言葉があります、しかし、「過労死」というのは、「過労殺」と言い換えるべきなんです。いやむしろ、「過労殺」を「過労死」と言いくるめるのがブルジョワです。しかし、現に、「ぶっ殺されて」いるのだから、それに反応して「ぶっ殺すぞ!」と叫ぶのは、当然の帰結なのだ、というのがサルトルのいいたいことなのだと思います。それがつまり「野生の言語」なんだ、ということです。これは、「直接行動」をもじって「直接言語」と言ってもいいと思います。
ベ平連・岡本太郎の「殺すな!」という有名なスローガンがありますが、これは、意味的には「殺すぞ」の正反対でありながら、やはり「野生の言語」であり、「直接言語」という意味で、同じなのだと思います。
ところが、「間接的言語」「集列的言語」*8に染まったブルジョワどもは、眉をひそめて*9こういうのです。「「殺す」などという物騒な言葉はやめましょう」「そのような感情的な言い方は逆効果ですよ」「あなたはネット弁慶です」「説得するためにはまず客観的なデータを集めましょう」「ディベートをやって論理的思考能力を高めましょう」「訓練を受けた専門家の言葉はネット上の無責任な言論とは違います」等々、等々……。*10
言っていいですか?
そんなの関係ねえ!
この言葉が、抑圧された日本の小学生たちにあれほど爆発的に支持されたのは、これが、まさしく「野生の言語」だからこそじゃないか、と思うんですよね。
↓「折口ちょっとこい!」の集会でのシュプレヒコール
どうでもいいけど、なげえな、今回……。力尽きたので読み直さずアップロードします。
↓『地に呪われたる者』の序文はこれに収録されてます(マジで名文です)。鈴木道彦さん訳。
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*1:日本公開は1977年
*2:幸徳秋水の議会主義批判における「これらの議員は当選するやいなや、その多くは直ちに労働者気質をなくしてしまって、美衣美食のブルジョワジーの風にカブレて得々としている」という文章も思い出されます。http://d.hatena.ne.jp/zarudora/20070627/1182965454
*3:La cause du peuple.ちなみにジョルジュ・サンドが発刊した同名の新聞がある。
*4:これは「人民の大義」が作ったのではなく単に収拾したもの、ということも重要
*5:雰囲気としては、中高の卒業式の「楽しかった3年間」「楽しかった3年間」「想い出の修学旅行」「想い出の修学旅行」て、あれです(やらされた人多いと思います)。
*6:訳を変えました。
*7:『弁証法的理性批判』では、資本主義社会における各人の「分子化」を、「n+1」によって表される「整数」によって説明しています。(p.313-4)
*8:「集列」serieというサルトル用語については「合法性が正当性を虐殺するとき」でも一応解説してます。
*9:唐突ですが、私は、「きっこの日記」に対する、一部の人々の「眉のひそめ方」が非常に気にいりません。
*10:そういえば、最近の日本で、ある裁判と、それについてネット上にあげられた「言葉」をめぐっての議論がありますが、ブルジョワ言語と、「国家の司法」の自明性を前提としたものである限り、そうした議論はある意味で茶番でしかないともいえます。
*11:しかし、はてなキーワードの「金嬉老」は奇妙ですね。「マスコミの派手な喧伝とは異なり、単なる一犯罪者に過ぎないことが露呈したからである。」って、だから?