諸星大二郎「コルベス様」

諸星大二郎について二年ぐらい前に書きかけて放置していたのを発掘して載せます。

http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20070627
この間紹介した諸星大二郎の『スノウホワイト』について書き忘れていたことがありました。
この本は、グリム童話を諸星流にアレンジした作品集(の第2集)なのですが、ここに「コルベス様」という作品が入っています。「コルベス様」のもとの話は、おんどりとめんどり、猫、石臼、卵、鴨、留め針、縫い針、が、「コルベス様」という人物の屋敷に行って、それぞれがコルベス様を懲らしめ、最後にコルベス様は死んでしまう、というそれだけのたいへん短い話です。猿蟹合戦にずいぶん似ています。
諸星氏の漫画では、コルベス様の屋敷に向かう動物たちは、マシンガンや爆弾などで武装した兵士の姿に描かれています。彼らは、普通の農家に見えるコルベス邸で、住人たちを次々に虐殺していきます。最後のコマで、諸星氏はこのような言葉を付け加えています。

この理不尽な暴力のあとに
グリムは第三版以後
こう付け加えています。
「コルベス様というのはよっぽど悪い人だったに違いありませんね」
と……。


本当に……?

巻末の解説で、諸星氏ははっきりとこのように書いています。

この作品を描いた時は、折しもアメリカが一方的にイラクに侵攻して、占領していた時期だった。

諸星氏は、これまでの作品を読んだ限り、政治的な作品というのはあまりなくて、まあどちらかというといわゆる「ノンポリ」的な人だと思っていました。その意味でこの作品は、諸星作品としては、やや異色の部類であるとは思いますが、とはいえ、作品自体としてみれば、この作品は短く非常にそっけなく、特に「反戦マンガ」と言うほどのものですらないと思います。
しかし、この作品はこのように実にさりげないものであるにもかかわらず、いや、逆にさりげないからこそ、非常に新鮮なものとして私には感じられました。
まあ、今の流行のマンガをほとんど読んでいないにもかかわらずこうした言い方をするのもなんなんですが、今流行の多くのマンガで、もしイラク戦争を扱うとしたら、諸星氏のようなさりげなくかつストレートな表現にはならないような気がするのです。例えば、上の、「アメリカが一方的にイラクに侵攻して、占領していた時期」というなんていうことのない言葉がありますが、これが「書けない」マンガ家も多いんじゃないか、と想像してしまうのです。たぶん、「『一方的』という言葉はまずいでしょう、これでは、作者が、アメリカが一方的に悪いと考える偏った立場にいると受け取られてしまう。『侵攻』や『占領』という言葉も、ストレートすぎる。もっと表現を工夫しないと。単純な表現では、戦争という複雑な現実は伝えられないですよ。ていうか、私は不勉強で、現実の戦争なんていう複雑な事象を扱う力はないんです。戦争を描くなんて私には力不足です」とかなるんじゃないか。いや、単なる想像なんだけど。根拠としては、例えば、『プラネテス』を読んだ印象、ですかね。

あのマンガは、たしかに、非常に「政治コンシャス」なマンガです。しかし、あのマンガの「政治意識」というものの内実は、実は肥大した「どう伝わるか」の意識がほとんで、肝心の「何がいいたいか」がほとんど見えない。さらにいえば、「どう伝わるか」の意識、というのは、結局は「こんなストレートな表現では、単純な、イタイ反戦マンガと思われてしまうのではないか」とか、もっと言えば「あっちの人と思われてしまうのではないか」というような恐怖心でしかない、と意地悪ですがそう思ってしまいました。
というわけで、あのマンガについて、「戦争」という「複雑な」問題についての現代の若者の「複雑な」意識を「繊細に」描き出したマンガ、みたいな読み方をする人もたぶんいるのではないか、と思うのですが……「複雑」なのは実は「いいわけの複雑さ」なのであって、

※と、ここまで書いて中断し、続きを書こうと思いながら放置してたら、書くのがめんどくさくなったので、これで完成ということで……。