雑誌『POSSE』http://npoposse.jp/magazine/index.htmlのvol.4に、「サルトル──ストライキは無理くない!」という文章を書きました。これは、サルトルが1952年に発表した論文「共産主義者と平和」を手がかりに1952年のフランスと現代日本の状況を比較し、政治・暴力・大衆の問題について考察した論文です。
サルトルの「共産主義者と平和」という論文は、サルトルがソ連と共産党をアツく擁護し、その「同伴者」となるきっかけとなった論文で、ある意味でとても評判の悪い論文です。ところが、今読んでみると、とても面白いのですね、これが。というわけで、一部を紹介します。
「一人の経営者がタイピストを必要とする。それこそ危機である。三十人の女性が、同じ能力をもち、同じ資格免許状をもって、応募する。経営者は彼女らみなをいっしょに呼び出し、彼女たちが望む報酬を自分に知らせるようにたんにたずねるだけだ。すると恐るべき逆ぜりが行われる。経営者は──見かけの上では──需要と供給の法則を演じさせているにすぎなかった。しかし、どのタイピストも、最も低い賃金を要求することによって、他のタイピストと自分自身とに暴力を加え、屈辱のうちに労働者階級の生活水準をいっそう低下させることに寄与することになる。けっきょくは、きわめて安い所得(……)を得て、最低生活よりも低い報酬を要求するタイピスト、すなわち、自分自身にもすべてのタイピストにも破壊作用を及ぼすようなタイピストが採用されることになる。しかもその破壊作用は、経営者のほうではみずからはそれを行使しないように大いに注意をしているものなのだ。」*1
↑これは冒頭で引用した箇所。
サルトルは「何が政治的で何が政治的でないか」という判断そのものが「政治的」だ、と言うこと、そして、労働者がみずから政治行動を控え、その行動を「基本的な権利要求」に限定したなら、それ自体が一つの政治的態度を取ったことになるのだ、と明確に述べています。
↑政治上等!
↑非合法上等!
サルトルは「われわれの社会は、その社会が抑圧の社会であることをまず第一にそして公然とみとめることなしには、ストライキを正当化することはできない」と言います。
↑反社会上等!ストライキ上等!
労働者のデモやストに現れる「暴力」や「非合法性」とは、労働者を非人間的なものにする抑圧への「拒絶」であり、だからこそそれはそれ自体が「ヒューマニズム」であり、「新しい正義」の要求をふくんでいるのだ、とサルトルは言います。(……)「ヒューマニズム」と労働者の「暴力」は対立するものではなく不可分なのです。労働者の「暴力」は、ヒューマニズムに到達するための「手段」や、「必然的な条件」でさえもなく、「ヒューマニズムそれ自体」だ、とサルトルは言います。
↑暴力上等!
サルトルはこう言います。「人員の四分の一を説明もなしに解雇できる実業家は、自由である。殺戮的攻撃を決定できる将軍は、自由である。寛大さか苛酷さかを選ぶことができる裁判官は、自由である。真のブルジョワ的自由、積極的自由、それは人間を支配する人間の力である」。
↑反自由上等!
選挙という「制度」の中で、労働者は、孤独のうちで知った綱領にたいして孤独で投票することを強いられるからです。「過半数という名のもとで勝利を占めているのは、最大数の孤独である」とサルトルはいいます。
↑棄権上等!