ミーティの危惧

※ネタバレあります。
 『メイドインアビス』というマンガが面白い、と教えてもらった。Amazon Prime Videoでアニメが観られたので観てみた。観たのは何ヶ月も前なのだが、少し気になることがあるので書いてみたい。
 ナウシカの影響が強かったが、映像もきれいで、それなりに面白くはあった。しかし、全体としては、当該ビデオについているあるamazonレビューの「続きは気になりますが全体的に絶望がすぎるのとこれ以上のグロを見たくないので二期があったとしても見ません。評価高いから見たけど見なければよかった。」という感想と全く同じ感想を持った。また、同じレビュアーが指摘する性的描写の問題もあると思った。というわけで、以下は、アニメ一期を観ただけでの感想であることをお断りしておく。

 さて、私がもう一つ気になったのは、「グロ」というより、よくある「ダーク」なストーリーとして、またまた、安易な「道徳的ジレンマ」が使われていたことだ。(ここからネタバレ→)ある日、主人公レグは、「アビス」と呼ばれる異世界(『風の谷のナウシカ』の腐海みたいな場所)にあるナナチのすみかで「ミーティ」に出会う。ナナチ、とは、うさぎのような耳をもち、しっぽが生えた動物のような姿をしている登場人物である。ナナチと一緒に暮らしているミーティは、怪物のような異形の姿をしているのだが、おとなしく、ナナチはミーティを大切に扱っている。実はナナチとミーティはふたりとももともとは人間で、親友だった。だが、ボンドルドという悪いやつにだまされ、実験台にされ、「成れ果て」という怪物にされてしまったのだという。ただ、ナナチは異形の姿になったあとも例外的に人格を保ったままだったが、ミーティは「人格も知性も消え失せた」「文字通り人だったものの成れ果て」の状態(アニメ、エピソード11)になってしまったのだ、という。ナナチは、「成れ果て」となったミーティを何度も殺そうとする(レグはそれが「ミーティの尊厳を取り戻すため」の行為だったのではないかと推測する(同、エピソード13))。しかし実験の結果不死となってしまったミーティを殺すことはできなかった。レグと出会ったナナチは、レグの腕にそなわっている強力な武器(火葬砲)の威力を見て、レグの武器を使えばミーティを死なせることができるのではないかと考え、レグに、ミーティの殺害を依頼する。レグは最初ためらうが、結局はナナチの頼みを受け入れて、ミーティを殺害する。この作品では「グロ」いシーンが多数出てくるのだが、このミーティの殺害シーンは、「グロ」いものではなく、むしろ、光に包まれた、きれいな描き方をされていた。ミーティが死んだ後、ナナチは号泣する。
 最近の(というかかなり前からの傾向だろうが)マンガやアニメでは、こうしたいわゆる道徳的ジレンマをストーリーに取り入れて、「深い」テーマを扱っているかのように見せかけるものが多いように感じる。このブログでも、『プラネテス』とか『刻刻』とかを題材に、そうしたストーリーにたいする違和感を何度か書いている。『メイドインアビス』のこのストーリーにもやはり同じような違和感を覚えた。ナナチは、ミーティーの殺害が、ミーティを「苦しみから解放する」行為である、と考えて、それをレグに依頼する。親友だからこその、苦渋の決断であり、究極の優しさである、みたいな感じだろうか。
 まず、ボンドルドの行為が許されないものであることは大前提である。それを踏まえた上で、では、少なくとも現在、ミーティは「苦しんで」いるのだろうか。ミーティは、人間性を失う直前に、ナナチに「殺して」と頼んでいたことになっている。そして、その後「成れ果て」となった後も、ミーティはボンドルドに実験で苦痛を与えられ続けていた。しかし、見かねたナナチがミーティを連れてボンドルドのもとを逃げ出してからは、ナナチの保護のもと、安楽な生活を送っているように作品中では描かれている。では、この作品の中で仄めかされているミーティの「苦しみ」とはなんなのだろうか。現在ミーティは肉体的苦痛を感じているような描写はないわけで、結局それは、人々に忌避される「醜い」異形の姿であること、から来る、いわば「精神的な」苦痛でしかありえないだろう。だがその苦痛を感じているのはいったい誰なのだろうか。異形の姿になる直前のミーティはその苦痛を予感していただろう。だが今は、ミーティは「人間性」を失っているとされ、乳児や動物のような「無邪気」な存在として描かれ、精神的な苦痛を感じているようには見えない(ナナチは、ミーティがときおり鳴き声を出すのは「ただの反応」でしかなく、どんな手段でも意思の疎通はできなかった、と断言する*1)。ならば、現在苦しんでいるのは誰か。それは、ナナチである、ということになってしまう。もちろん、実際ナナチは苦しんでいるだろう。だが、「苦しみから解放する」というよくある言葉の中で、その「苦しみ」が誰のどのような苦痛なのかがあいまいになってしまうことは、実はかなり危険なことである。
 ところで、ミーティの死後、もうひとりの主人公であるリコが、自分が見た夢についてレグとナナチに話すシーンがある(エピソード13)。リコは、レグと一緒にナナチのすみかを訪れたとき、大怪我をおって意識を失っており、そのまま眠り続け、回復し目覚めたのはミーティの死後である。眠っているリコはミーティになつかれ*2、いつもそばにミーティがいた。リコは、夢の中で、暗闇の中で怖くてずっと泣いている子の泣き声を聞いていたのだという。リコは夢の中でその子をずっとなぐさめていたのだが、煙のような匂いがして、泣き声がやみ、その子は「振り向かずに行っちゃった」。そのときリコは、その子の横顔と「憧れに溢れた眼」を一瞬見た、というのだ。つまり、リコの夢の中で泣いていた子というのは、ミーティの「魂」だった。そしてこの夢は、ミーティがずっと苦しんでいたこと、また死んだ=殺されたときに苦しみから解放されたことを示している……と、ナナチとレグ、そして読者(視聴者)は都合よくも勝手にそう思って安堵する。そういうふうに作られたエピソードであることは明らかだ。だが結局、このエピソードは、「苦しんでいたミーティ」と「喜んで死んでいくミーティ」とは、実は生き残っったものの都合の良い夢想の中にしか存在しない*3、ということを(作者の意図しないかたちで)示しているのである。
 こうした描写は、「人々に忌避される異形の姿となってしまったかわいそうな存在は、殺してあげることが本人の幸せでもある」というような(一般に「安楽死」と称される)都合のいい理屈を、まるで深遠な道徳であるかのように正当化し粉飾してしまう。またそのことで、「私がもしあんなふうになったなら、私だったら死にたくなる」という、まさに異形の存在を忌避している私たち自身の差別意識を体よく隠蔽する作用をもってしまうのだ。
 「怪物」というテーマは、永井豪諸星大二郎、藤子F不二雄、手塚治虫楳図かずお宮崎駿、といった人々の作品にしばしば登場する。このブログでもいくつかそれについて考察する文章を載せたことがある。そして、それらの作品では、「怪物」を忌み嫌う私たち自身のまなざし、を問題にする観点が多かれ少なかれ含まれているように思う。しかし、『メイドインアビス』では、(少なくともミーティのエピソードでは)残念ながらそうした観点が希薄であるように感じた。

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*1:だが、その根拠が示されることはない。

*2:ミーティは「ただ反応しているだけ」といいながら「なついている」と言ったり、ナナチの説明も矛盾だらけである。

*3:また、ミーティを殺すことで守られるミーティの「尊厳」なるものも、実はレグの推測の中にしか存在しない。